第37話 完璧な軍師の甘い策略と、恋物語の主人公になった子リス女官
ローゼルが復職してから数日後――。
「あ、また。またサイン抜けてる……」
ローゼルは王宮法務事務室で書類をチェックしながら、はぁ、と大きなため息をついた。
「どれ?」
隣の席の先輩モーデッリア書記官がローゼルの手元にある書類を覗き込んだ。
「ほら、ここです。あと、ここも、それからこっちも」
「あ、本当だぁ。見事サインが何か所も抜けているね」
モーデッリアは苦笑を浮かべながら、眼鏡のフレームをあげた。
「これって……筆跡から、ルシアン・クレインバール軍師閣下かな?」
「はい」
「最近軍部は何かと忙しいからね。
魔物が出るたびに最前線の討伐遠征へ駆り出されてるようだし。
こういうとこまで気が回らないんだよ、きっと」
「そうかもしれませんが……」
ローゼルは口を尖らせた。
「最近、しょっちゅうですよ。
しかも、これ、本日中にサインもらわないと困る案件です。
ああ、これ、差し戻ししていたら絶対に間に合わないヤツだ……。
すぐにでもサイン、もらいに行かなくっちゃ」
書類を持ってローゼルは席を立ち上がった。
なんとしてもこの書類を本日中に提出しなくては、逆に法務省が刑部局から叱られてしまう。
そう自分に言い聞かせながらも、ローゼルの心は弾んでいた。
思わず頬が緩んでしまう。
「イースティリア女官。君はまだ病み上がりだろ?
なんなら僕が代わってもらいに行ってこようか?」
「いいえ、大丈夫です」
きっぱり断る。
せっかくお会いできるチャンス。逃す手はない。
「そう? んじゃあ……」
モーデッリアは、王宮内の本日の全スケジュールが書いてある壁にかかっている黒板内の予定に目を通す。
「今日の軍部のスケジュールは午前中、皇帝陛下との定例軍法会議だったからね。
そろそろ終わって王宮会議室から出て来ることじゃないかな」
「ありがとうございます!
それじゃあ、早速……」
ローゼルが歩き出そうとした。
「あっ、待って待って。
もう時間帯的に昼だから、そのまま昼休憩に入っていいからね」
モーデッリアは懐中時計を見てから言った。
「はい、ありがとうございます」
「いってらっしゃい」
モーデッリアは気さくにローゼルに手を振る。
「いってきます」
ローゼルは書類を持って王宮会議室を目指した。
実は、昨晩遅くに魔法騎士団たちが王城に帰還したという話を耳にしたのだ。
ずっと遠征で留守がちだった彼らが帰ってきた。
もちろん、あの方も――。
(ようやく会えるんだよ)
――ルシアン・クレインバール。
歩くスピードは加速し、自ずと動悸が速くなる。
ローゼルは彼の後ろ姿を追いかける自分を想像した。
頬がじんわりと甘く熱を宿すのを感じる。
名前を呼んだら、こっちに振り向いてくれるかな。
笑ってくれるかな。
やっぱりお仕事中の軍人さんらしく、気難しいお顔をされるかしら。
それでもいい。彼の少しでも傍に近づけるなら。
彼の存在を感じられるだけでも、幸せだ。
執務塔を駆け抜け、王宮に入った。
陽光を浴びた若葉が艶やかに光る。
王宮の大理石の床を青い斑点となって照らす。
多くの人が行き交う廊下。
ローゼルが王宮会議室前に到着するタイミングで、ちょうど軍法会議が終わったらしく、会議室の扉が開いた。
皇帝たちやその側近という錚々たる顔ぶれが集団でまず部屋から出てきた。
ローゼルは他の官僚たちに紛れ、陛下たちが立ち去るまで頭を下げて待つ。
やがて、護衛の騎士に、ほかの軍関係者がぞろぞろ部屋から出てくる。
軍関係者は屈強な者が多い。
その中でもさらに抜きん出る身体の大きな男をローゼルは探した。
漆黒の短髪、鍛えられた大きな逞しい背中。
ふと一人の男に目が吸い寄せられて、ローゼルの胸の奥に甘美な熱が広がった。
ローゼルの胸に刻み込まれた彼のはっきりとした輪郭。
見つけた――。
胸がどきんと鳴った。
ローゼルは、お目当ての彼の元へ大勢の官僚たちの間をかいくぐって、さらに早足で近寄った。
こうしている間にも大勢が彼に声を掛ける。
短く言葉を交わし去っていき、彼も端的に部下たちに指示をする。
美しく整った横顔。
殺伐とした険しい表情。
ローゼルに見せた優しい笑顔と全然違う。
当然だ。
そもそも連日の遠征でお疲れなんだ。
期待しちゃ駄目。
必ずしも、あの人が笑顔でこっちを向いてくれるとは限らない。
私は同情でお手紙をやり取りしているしがない文通相手だ。
そう何度も自分に言い聞かせる。
それなのに、どうしてだろう。
心がこんなにざわついて、波が打ち寄せる。
(ちゃんとしないと駄目だよ、ローゼル。
これはお仕事だからね。
だからこそ、ここは一線を引いてお礼を言って書類のサインを貰うだけ。
それ以上を期待しても望んでも駄目だよ)
どんどん近づいてくる大きくなる背中。
ローゼルは歩き進めながら、自分への戒めも込めて、深呼吸をする。
「クレインバール軍師」
ローゼルは呼んだ。
呼ばれた男、ルシアン・クレインバールはゆっくりとこっちを振り返った。
相変わらず強いオーラを纏った大きな人だ。そして、涼しげで玲瓏な容貌。
美しい瑠璃色の彼の双眸と目が合う。
(駄目だ。緊張してきた)
いざ会いたかった人に会えるとなると、急に恥ずかしくなって身体が強張る。
言葉がすぐ出てこない。
ローゼルは頬を赤らめながら、必死に言葉を紡ぐ。
「お忙しいところ申し訳ありません」
ローゼルは募る気持ちを抑え、かしこまってあえて丁寧にお辞儀をした。
「ああ、待っていたよ。イースティリア女官」
ルシアン・クレインバールの低くて耳に心地いい声が降って来る。
彼の口角が上がって、優しく微笑む。
甘酸っぱくも胸が痛くなって、昂る想いがした。
その一方で、ローゼルは首を捻った。
(ちょっと待って。
……ん? 待っていた?)
一瞬ぽかんとした。
その反応がルシアンは愉快だったのか、途端に屈託のない笑顔を見せた。
笑顔の輪郭に宿る優しさと大人の男だけが持つ甘美な余韻。
ローゼルの緊張していた心を一気に自然と解きほぐす。
(どうしよう。
この方が笑顔を向けてくれるだけで、ものすごく嬉しい……)
彼は執務中に滅多に笑わないことで有名だ。
なのに、今日は機嫌がいいみたいだ。
まるで王城の夜会でダンスを踊ったときを思い出す。
「元気になったみたいだね」
ルシアンは磊落さを滲ませて、ローゼルに声を掛ける。
「は、はい、お陰様で。
あのときは助けていただき、本当にありがとうございました」
ローゼルはぺこりとお辞儀をした。
「いやいや。騎士として当然のことをしたまでだ。
改めて、イースティリア女官、復職おめでとう。
俺もまた会えて嬉しいよ」
「あ、ありがとうございます。
あの、お借りしていた上着、ちゃんと届きましたか?」
「もちろん。
体調が芳しくない時に、気を使わせて申し訳なかったね」
「とんでもございません」
ローゼルはぶんぶん首を振った。
「丁寧に贈り届けてくれてありがとう」
ふっと微笑んだルシアンは、ローゼルの頭にぽんぽんと手を置いた。
大きな手のぬくもりが頭上から伝わってくる。
言葉にならない高揚が胸を満たす。
「それと――手紙もありがとう。
いつも楽しみにしていたよ」
ルシアンの柔らかい声音に、何もかも蕩けてしまいそうだった。
「いえ。こちらこそ、その……お見舞いの品とか諸々……。
その、ありがとうございます」
ローゼルはどきどきしながら、必死に答えた。
けれど、声がかすれ、上擦る。
やがて自分の身体が赤くなったのを自覚する。
それがバレないよう俯いて、指をこねくり回す。
僅かに沈黙が流れた。
(あぁ、どうしよう。
せっかくお会いできたのに、うまく会話が続かないよぉ)
すれ違う御仁たちが、ちらちらとこちらに視線を投げかける。
だが、ルシアンは気にする素振りを一切見せない。
むしろ、優しく小さく笑う。
「気にするな。
俺が贈りたかったんだ」
「え?」
「このあと一緒に昼食を食べに行こう。
もうお昼休みだろ?」
「お昼……ですか?」
「そう」
ルシアンからやけに熱のこもった視線を注がれ、ローゼルはごくっと唾を飲み込んだ。
一緒にお昼。なんて魅惑的な言葉なんだろう。
内心とても心が躍った。
だけど、期待しすぎてはいけない。
あえてローゼルはキリっとした真面目な顔をする。
「大丈夫です。
折角のお誘いですが、この書類にサインを貰いに来ただけですので……」
ルシアンはローゼルが差し出した書類を奪うように持った。
「ああ、これか。
これはわざとだ」
「はい?
わざと?」
目をぱちくりと何度も瞬きした。
「そう。わざと、サインを忘れたんだ」
「んん?」
ローゼルは首をカクンと傾げる。
完璧な軍人がなんでそんなことを?
むむ、理解に苦しむ。
「何でそんなことを?」
「復職後のイースティリア嬢と直接話をしたかったからだ。
呼び寄せる口実としては最高だろ?」
ルシアンは勝気な笑顔をローゼルに向けた。
口実?
ローゼルはぽかんとした。
少し間があってから、ローゼルは目を見開いて、ぶるぶると震えた。
(な、な、な、なんと……!)
この人、さらりと、とんでもないことを今言った。
鈍いと言われるローゼルでも分かる熱を孕んだ視線。言葉。
もしやもしや……。
ルシアン・クレインバールが自分に好意を持っている?
まさか。
ローゼルは咄嗟にその考えを打ち消す。
だけど、いくら打ち消しても甘い熱さが沸き起こり、頭は混乱する一方。
そもそも、毎日届く贈り物の量や手紙。
そこから彼が少なからず好意を抱いてくれているかもしれないと淡い期待を抱いてしまっていた。
その度に過度な期待をするな、自分は婚約者のいる身だと自分を戒めたのに。
会議室から出てきた周囲の官僚や騎士たちがそんなルシアンとローゼルのやり取りを耳にして一様に驚き、ニヤニヤしながら通り過ぎる。
「おぉお、お暑いね」
古参のスキンヘッドの軍人が囃し立てた。
確か、あの人はレイノルドの父親である軍部総帥ハウルデュース公爵。
同期の父親に自分の淡い恋心やルシアンから向けられる感情を目の当たりにされ、やけにばつの悪い後ろめたさを覚える。
別に悪いことをしているわけじゃないのに、なんでだろう。
だんだんと恥ずかしくなってきた。
「俺、こう見えてもまだ青二才の若造なんで」
爽やかに微笑むルシアンに、総帥は肩を揺らして笑った。
「ガハハ、間違いない。
随分と老成した若人だな」
総帥は愉快とばかりに肩を揺らして、ルシアンの背中をバシッと叩く。
「まあ、お手並み拝見といこうか」
興味深くニタリと軍人は笑ってその場を去っていった。
「悪いな、若者を揶揄うのがあの御仁の趣味なんだよ」
ルシアンはそっと囁いた。
「えっと……」
ローゼルはなんとなく面映ゆく感じてますます高速で指をこねくり回す。
「あはは、指、コネコネしすぎだ」
ルシアンは声を上げて笑う。
ローゼルは、ハッとして動きを止めた。
(しまった。
私ったら、さっきから指をこねくり回してばっかり……)
「ほら、行こう」
ルシアンは書類を持ったまま、廊下を歩き出す。
「えっ、い、行こうってどこにですか?」
そのルシアンにローゼルは必死で追いかける。
「俺のサインが欲しいんだろ?
だったら、俺とまず食事だ。
腹が減っては何とやらというだろう?」
「いえ、でも復職したばかりで仕事がたまっててゆっくりお昼休憩なんて取れませんし……」
「そんなの食ってからにしろ。
まずは俺と昼飯だ」
「えー!」
ローゼルは歩き出すルシアンの後をついてく。
けれど、これが結構大変だった。
彼の一歩の歩幅がかなり大きい。
ルシアンの一歩は小柄なローゼルの二歩半分くらいある。
(ううっ、全然追いつけない)
「あ、あの、クレインバール卿!」
もうちょっとゆっくり歩いて欲しい。
そう言おうと思った瞬間、廊下に敷かれた絨毯に思わずローゼルはつまずき、危うく転びそうになった。
「わぁっ!」
ヤバい、ここで転んだら、恥ずかしすぎる!
と思ったら、次の瞬間、ルシアンの大きな腕で転ばないように支えられていた。
カッと顔が熱くなった。
「すまない。
イースティリア嬢の歩幅に合わせるべきだったな」
ルシアンが咄嗟に謝った。
慌てたローゼルは、真面目な顔つきで体勢を立て直した。
「い、いえ。ありがとうございました。
お陰様で転ばずに済みました」
ローゼルは、カッコ悪いやら照れくさいやらで、彼の目をまともに見ることができなかった。
「どうした? まだ体調が悪かったか?」
ルシアンが心配そうな声でローゼルの顔を覗き込んだ。
そっと目線を上げるとすぐに視線が絡み合う。
どきんとした。
ルシアンとの距離が近すぎて息が詰まりそうで、彼が触れた箇所が静かな熱を纏う。
真っ赤に染まるローゼルの様子に、ルシアンは意外そうに目を見開いた。
それから、やけに嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔が可愛くて今度はローゼルが驚いて目を瞬いた。
彼の優しい笑み。
ローゼルを見るまなざし。
瞳の奥に漂う情熱。
歓喜と興奮。疑惑と困惑が同時に込み上げてきた。
彼の視線が自分に留まるたび、自分への特別さが滲んでいると思えてしまう。
普段どれだけ努めて押し隠していたとしても、咄嗟に相手が好意を持っているのを表に出してしまう瞬間が、確かにある。
そして、どんなに他人の感情の機微に鈍感な私も女。
女というものは、案外そんな瞬間にはちゃんと相手が自分に好意を持っているのかを直感で分かってしまう生き物だ。
好きかもしれない――胸の奥で静かに波紋を広げる。
――そう自覚した瞬間、ローゼルは自分が恋物語の主人公になってしまったことを悟った。




