第36話 復職の朝と、翳りゆく木漏れ日
「長い間、お休みして申し訳ございませんでした」
ローゼルは復職した朝、まず上官のライアナースに挨拶に行き、謝罪をした。
ライアナースは一瞬きょとんとして、声をあげて豪快に笑った。
「気にするな、多少のトラブルはつきもの。
今までイースティリア女官のお陰ですべてが順調に円滑に快適に回り過ぎたんだ。
これでイースティリア女官のありがたみが染み渡るだろう」
「ですが……」
「こちらこそ、すまなかったね。
危険なところに送ってしまって」
ライアナースはすまなさそうな顔をした。
「いえ」
ローゼルは首を振った。
「大事な部下が元気に戻って来てくれて嬉しいよ」
ライアナースはにっこりローゼルに微笑んだ。
その笑顔にローゼルはたちまちやるせなさを感じた。
(ライアナース卿もルシアン・クレインバール卿も優しいから、私を責めない。
でも、元はと言えば、自分にもっと魔法が使えたら問題なかった話だよね)
中途半端な魔法しか使えないから、ああいう事態になってしまったのだ。
ローゼルは自己嫌悪に陥って、視線を床に落とした。
「まあ、しばらくは残業も早出も禁止。
体を休めるように」
ライアナースは穏やかに言って、新しい書類を手に取った。
ローゼルは「はい」と返事をするものの、その場でぐずぐずしていた。
話さなくては。
でも、どんな顔をして?
不安が渦巻く中、ローゼルは恐る恐る声を必死で紡ぎ出す。
「あの、ライアナース卿。
折り入ってお話があるんですが……」
「ん? なんだい?」
ローゼルは気まずそうに話を切り出した。
ライアナースの表情は次第に曇っていった。
さっきまで晴れ渡っていた空なのに、太陽が雲に隠れ、一瞬にして世界が色を失う。
不穏な空気が部屋に滞る。
「そうか……」
話を聞き終えたライアナースは、考え込んで黙ってしまった。
やっぱり、駄目かな。
失敗したかもしれない。
あぁ、私の馬鹿。
なんで、正直に打ち明けてしまったのだろう。
よく考えてみれば、このことを内緒にしておいた方が今までと変わらない生活を送れた。
それなのに、自分から壊してしまった――。
けど、万が一何かあったときに迷惑をかけてしまうかもしれない。
そう思ったら、いてもたってもいられなかった。
ライアナースは自分の顎を撫でながら、いつになく真剣な面持ちで逡巡する。
ローゼルにとっては随分と重苦しい沈黙が流れた。
窓の外で木が揺れた。
午後は風が強くなるのかもしれない。
ぼんやりとローゼルがそう考えていると、ライアナースがぽつりと呟く。
「まあ、私としては一向に構わんがね」
「え?」
「優秀な人材はいつまでもいて欲しいからな」
曖昧に微笑むライアナースにローゼルは胸がいっぱいになった。
思わず口元が緩む。
「ありがとうございます!」
「だが」
ライアナースはローゼルの瞳を射抜くように見た。
「無理だけはするなよ。
それと、今まで以上にちゃんと健康管理をするように」
ローゼルの顔が輝く。
肩の力が抜けて、部屋の空気が軽くなった。
「本当に、本当に、ありがとうございます……!」
深々と頭を下げる。
「私、今まで以上に頑張ります」
ローゼルは感極まって声を腹の底から出して宣言する。
「いやいや、だからこれ以上無理はするな。
それこそ倒れたら意味がないからな」
ライアナースは苦笑をして、手をひらひらと振る。
「はい!」
ローゼルは「失礼しました」と上機嫌に言って執務室を出た。
爽やかな風が吹き抜ける。
いつの間にかエネルギッシュな青空が広がっていた。
ローゼルの足取りは軽い。
そのまま、ローゼルはいつも通り、朝のルーティンワークで、関係省庁を軽快に巡り回った。
歩いているうちに、柔らかな陽射しは強くなっていて、庭園の木の葉の輪郭がハッキリして緑も深い色合いになっていた。
「ローゼル」
回廊を歩いていると、父メイットがローゼルに手を挙げた。
会議を終えたところだろうか。
ローゼルは笑顔で駆けだした。
「お父様」
「今日から出仕か」
「はい」
「なんだか不思議な感じがするね。
ローゼルが女官の制服を着て王城を歩いているんだ」
「そういえば、そうですね。
きっとお父様がずっと領地でお仕事されてたからですね。
一応、これでも私、入省して四年目なんですよ」
ローゼルがわざとらしく口を尖らすと、父は誇らしげに笑った。
「そうだったね。
きっと最近の王城については、私よりローゼルの方が詳しいね」
父はゆっくり歩き出す。
ローゼルも同じ方向へ向かうので、その隣を歩く。
ちらっとローゼルは父の横顔を見上げた。
ローゼルは不思議と笑みが零れた。
「ふふ」
「どうした?」
「確かに言われてみれば、すごく不思議な感じがするなぁ、と思って」
「そうだね。
これだけ広い王城だ、大勢の貴族や官僚がひしめき合っているからね。
同じ職場でもない限り、約束なしですれ違うことも難しいよね」
「だから、私は今までお父様と一度だって王城で顔を合わせたことがなかったのかな」
「そうかもしれないね」
柔らかく微笑む父に、ローゼルも微笑み返した。
「あっ」
父は、知人の官僚がいたのかそちらに会釈をする。
「ローゼル、私はあちらの方々にご挨拶に行ってくるね。
それじゃあ」
柔らかな笑みを浮かべて父は、そちらに向かって歩き出した。
ローゼルは父の背中を見送る。
すごい、まさに順風満帆といえる日々だ。
父が領地から帰って来てから真っ当な生活を送れるようになったし、今まで以上に自分自身もすごく健康にもなっている。
父の事業が失敗して早五年。借金返済のため王都の屋敷に立ち寄ることのなかった父。
こんなにもローゼルを気にかけてくれるようになったのは、初めてかもしれない。
まるで今まで王都の屋敷を留守にしたことを詫びるようだけど――。
それでも、父が同じ屋敷にいることは、ローゼルにとってこれまでにない安堵感を得ていた。
ローゼルは騎士団の屯所が入っている刑部塔へ到着すると、ついつい反射的に彼の姿を探した。
騎士団屯所はいつも賑やかなのに妙に静まり返っていた。
(いない……)
ローゼルは、しょんぼりする。
仕方ない。
彼は多忙だし、そもそも彼と接点を持てたことが奇跡なのだ。
その時。
「あれ、ローゼル。
もう大丈夫なのか?」
同期の中でも目立つイケメン、ネイト・ファーヴァ書記官がローゼルの姿を見つけるなり声を掛けた。
あまりにも突然だったので、ローゼルはびっくりして、思わずびくっとなった。
「何を驚いてるんだよ」
「別に。
っていうか、お久しぶりだね」
「ああ、本当、久しぶり。
で、どうなの? 体調。
顔色はいい感じみたいだけど」
ネイトはローゼルに近寄りながら、まじまじと覗き込むように見た。
「うん、お陰様で元気になったよ。
あっ、そうそう。
いろいろお見舞いの品、ありがとう。
バラの花びらのお茶と焼菓子、すごく美味しかった」
ローゼルはへらっと気の抜けた笑みを浮かべた。
「全然いいんだよ。
元気になったのなら。
新種の魔物と命がけの戦いだったんだろ?」
「うん、すごーく命がけだった……」
そう呟くものの、ローゼルの語尾は小さくなる。
ふと思い出す。
あれは新種の魔物と言えるんだろうか。
無理矢理くっつけて作った人形のようだったけど。
「おっ、レイノルド。
久しぶり」
ネイトが奥からやって来たもう一人の同期のレイノルドに手を振った。
レイノルドも小さく手を振り返す。
ネイトが麗しき毒舌な書記官だとすると、レイノルドはやけに精悍な顔立ちの真面目一徹な大きな熊みたいな書記官だ。
「おかえり~、レイノルド。
魔物増加の出張調査は難航していたんだってね」
彼はここ数か月、出張で王都を離れていた。
「ああ、ただいま。
俺よりもローゼルの方はどうなんだ?
出仕してももう平気なのか?」
「うん、このとおり」
ローゼルは両腕をブンブン振り回す。
「ね? 元気でしょ?」
「だな。けど、無理するなよ。
すぐローゼルは頑張りすぎるから」
レイノルドは苦笑した。
「そうそう、レイノルドもお見舞いの品、ありがとう。
体を温めるハーブ酒。最高だったよ」
ローゼルが魔物に襲われて倒れたことは、あっという間に刑部省所属の二人に伝わり、知人たちにも知れ渡った。
「いや、ローゼルといえば、酒。そう思ってね」
「ああ、酒は百薬の長ってやつか」
ネイトが肩をすくめた。
「それだ。大好きな酒を飲みながら元気に回復するのが最高だと思ったんだ」
「ふふ、正解。
お酒は飲む消毒液だよ」
ローゼルはニカッと歯を見せて笑った。
ネイトとレイノルドは同時に噴き出した。
「ふっ、本当、酒好きだよな。
こよなく酒を愛するっていうか」
「というかさぁ、どんな消毒なんだよ。
けど、俺もそっち系を贈っておくべきだったかな。
乙女系の可愛いのにしちゃった。
ローゼルにはもったいなかったか」
「えー、それ、ひどい。
ネイトのあれはあれで嬉しかったよ。
私、同期のみんなに愛されているなぁって感じたし」
「それは間違いない。
俺達の愛を感じてくれて良かったぜ。
それにしても、本当、ローゼルは運がいいよな。
あの魔物に遭遇した人の大半は殺されているって話だぜ。
ローゼルが魔法使いでよかったと思うよ」
ネイトが改めてほっと胸をなでおろした。
「えっ、あれと同じ魔物が出没しているの?」
ローゼルは思わず身を縮こまらせた。
「ああ、不安を煽りたくないからあまり公にはなっていないけどな」
レイノルドが頷いた。
「そっ。ローゼルが襲われた前後から出没件数が増加の一途を辿っているんだよ。
二日前には西北側の国境界隈でも出没したらしい」
「そのとおりだ。
その討伐にクレインバール卿率いる精鋭部隊が出向いている」
「……そうだったんだ」
あんなグロテスクな魔物がまだいるのか。
そう思ったら、ローゼルは全身から血の気が引いていくような気がした。
「最近いろいろ物騒な出来事が目白押しなんだよ」
レイノルドが、首に手を当てながら、はぁと深いため息をついた。
「だよなぁ。
ローゼルも気を付けろよ」
ネイトが再び、ぐっとローゼルの顔を覗き込んだ。
「え? なんで?」
「怪しい集団が大量に女性を殺害したんだ。
しかも少し前までは異国の女子ばかりだったんだけど、最近はこの国の女性も行方不明者も増えているんだ」
「なんか物騒な世の中だね……」
ローゼルは眉をひそめ、反射的に腕をさすった。
「まあ、王都なら変な裏路地やスラムに行かなければ、大丈夫だ。
けど、一人で夜道を歩くのは避けた方がいい」
レイノルドが神妙に言った。
「そのとおり。
それに、この前の大雨で川が氾濫してさ。
流域の領地は大半が水害で、農作物に深刻な被害が出たらしいんだ。
運悪く墓地の遺体も流されちゃったからあの辺も治安が荒れている」
「そういえば、そうだった。
そっちの被災地支援にも多くの騎士団員の人員が未だに割かれている。
出張から帰った早々、炊き出し用の材料の追加注文を頼まれた」
レイノルドが大きく頷いて、そして、思い出したようにローゼルを見た。
「そういえば、ローゼル。
水の攻撃魔法、使えるんだってな?」
「うん。でも、全然へなちょこだけどね」
「俺もそれ聞いた。
魔物を討伐しようと果敢に奮闘していたっていうのも」
「ああ、第3魔法騎士団員もルシアン様もみんな口々に『大したもんだ』って褒めていたぞ」
「え? クレインバール卿たちが?」
ローゼルの心が浮き上がって、声も弾んだ。
ネイトとレイノルドは顔を見合わせて、くすっと笑う。
「イースティリア女官は、まさに奇跡の生還者だ。
そう言っていたな」
レイノルドが微かに微笑んだ。
「私、自分が思った以上にすごいのね」
想定外のところで褒めてもらえているのが嬉しく、ローゼルは顔を綻ばす。
そんな様子を見て、ネイトとレイノルドは心底安堵しきった表情を浮かべた。
「完全復活だな、ライアナース卿の懐刀――『法務省の女官ローゼル・イースティリア』だ」
「ああ。よく無事で帰ってきた。
偉い偉い」
ネイトがローゼルの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「あっ、もうやめてよ。
せっかく整えたのに乱れちゃうじゃないの」
ローゼルは口を尖らせて、背を反ってネイトから距離をとった。
「大丈夫だって。
そのままでもローゼルは可愛いって」
「もう、また心にもないことを」
ローゼルは頬を膨らませて怒っているアピールをしながら、髪を手櫛でさっと直す。
「こういうの、あんまり他の女の子にやっちゃ駄目よ。
みんな、本気しちゃうよ」
「へえ。みんな、ってローゼルも?」
「私はネイトの裏の性格を知っているから騙されないよ」
「ちぇ。たまには騙されてくれてもいいのに」
わざとらしく、ネイトは拗ねるような顔をした。
ネイトは口が達者で、伊達に顔がいい。
こんなお世辞でも色めいちゃう令嬢が時折いる。
まったく罪作りな男だ。
「それじゃあ、私、行くね」
ローゼルが立ち去ろうとすると、レイノルドが声を掛ける。
「ローゼル、今日はお昼、王宮官僚食堂に来るだろ?」
「うん。行くよ」
「じゃあ、出張の土産、渡すから。
エレナからのも預かってるんだ」
「本当? ありがとう。わぁい、楽しみ」
ローゼルはご機嫌で手を振って、刑部省を後にした。
(エレナからのお土産。何かな?)
同期のエレナは、魔法省の特別補佐官で、数々の魔法の論文を発表したスーパーエリート魔法使い。
そのくせ、侯爵令嬢なのに鼻持ちならない態度をしたりしないし、むしろ謙虚で優しい。
自慢の友達だ。
エレナもレイノルドと途中まで、同じ出張に行っていたはずだった。
(あぁ、早く出張から帰って来ないかな。話したいことが山ほどあるのに)
レオーネの愚痴に、ソフィアの腹立たしさ。
魔物と闘ったこと。
あと、この前の皇族会議の活躍も。
結構頑張ったんだよって。
それから――ルシアン・クレインバールのことも。
ローゼルの足取りは軽い。
なんなら鼻歌を唄ってしまいそうなほど、気分は明るい。
「お〜い、行くぞ」
騎士の訓練所近くまで行くと、野太い男たちの声が聞こえた。
パッとローゼルの表情が輝いた。
もしかしたら、彼に会えるかもしれない。
そう期待に胸が膨らんだ。
会ったらどうする?
まずお礼をしなくっちゃ。
なんと言えばいいかな。
高鳴る鼓動、逸る衝動を押さえながら、ローゼルは期待を込めて訓練所を覗いた。
けど、いつもローゼルを囲んでくる大きな騎士たちの姿はない。
訓練所はしんと静まり返っていた。
代わりに荷車に重い荷物をのせた侍従たちが「せぇの」と一斉に声を掛け合いながら、その荷車を押して、刑部省奥の研究施設に向かう。
(なんだ、違うのか。残念)
さっきまでとは一転、急に足取りが重くなった。
期待してしまった分、その反動が大きい。
ぽっかり穴が開いたような奇妙な気持ちがした。
(会いたかったなぁ)
空を仰ぎ見た時、ふと、回廊に爽やかな風が吹き込んだ。
柔らかな柑橘系の匂いが掠めた。
ローゼルが庭園に視線を飛ばすと、木々の梢が青い空の色をして揺れ、隅にあるレモンの木が視界に入る。
青々としたレモンの実が枝葉の濃い緑と溶けあっている。
(クレインバール卿のお手紙から漂う香りは、もう少し爽やかさがあったよね)
そう思った途端、ローゼルはハッとした。
いつの間にか自分が少しでもルシアンの情報、姿を求めていることに気付いたのだ。
やだ、私ったら。
鼓動がたちまち速まった。
胸が熱くなる。
強い木漏れ日がローゼルに眩しく降り注ぐ。
それと同時に強い声がローゼルの脳裏に蘇る。
――婚約者以外の殿方に心惹かれるのは、邪道でみっともないこと。
未婚の令嬢は厳格に殿方と距離を置き、貞淑でいなければならないのよ。
継母シャルルの声だ。
ローゼルはびくっと身体が強張って、足が止まった。
有頂天になっていたけど、そう、私は忘れたらいけない。
仮にも婚約者のいる身。
浮ついた気持ちでいてはいけない。
ローゼルは、頬を打たれたような衝撃を受けた。
他の様々な雑念のことはこの際置いておいて、女としてのシャルルの言葉は正しい。
特に女官をしている時点で、殿方と仕事で関わる機会は多い。
だからこそ、距離感には気をつけるべきだ。
子爵位の令嬢は、上流階級に相手にされない。
そして舐められやすく、性的搾取の対象になりやすい。
王城の官僚間で最も多いトラブルだ。
やがて雲が太陽を覆い、煌めいていた陽の光が静かに翳りを帯びた。
そもそも、わたしとルシアン・クレインバール卿は釣り合っていない――。
(あの方が優しいからって勘違いしたらだめ。絶対に)
望んでもいけない。
彼は独身で婚約者はいなくとも、上級貴族で次期辺境伯だ。
それでいて凄腕の武闘派魔法使い。
私とは違う世界の人。
近くにいるけど、遠い雲の上の人――。
いくら二人きりでのお出かけに誘われたとしても、貴族たるもの、その差はちゃんとわきまえなくては。
(クレインバール卿だって、同情と憐憫で私に優しくしてくれるだけ。
だって、あんな何もない令嬢の部屋を見たんだよ。
そりゃあ、可哀想だって思うでしょ)
何度も何度も自分にそう言い聞かす。
そう思っているのに、彼に無性に会いたくなって、頭では理解しているのに、彼の後ろ姿ばかり探してしまう。
会いたい――。




