第34話 闇に蠢く影と、昏睡の覚醒
「ルシアン様。おかえりなさいませ」
ルシアンがローゼルを屋敷に送り届けてから、王城に帰還する頃、王都はすでに闇に沈んでいた。
小高い王城を取り囲む暗く澱んだ川べりには、篝火が水面に影を落としている。
馬車から降り立つと、湿った匂いがした。
「お前がここにいるってことはアレか」
側仕えのマルスクが出迎えた。
ルシアンはため息をついた。
「はい、お察しのとおりです。
ハウルデュース公爵ならびに総帥閣下からのお呼びです」
マルスクは胸に手を当て、深々とお辞儀をした。
ルシアンは、重い足取りで総帥の執務室に向かう。
途中ライアナース卿とばったり鉢合わせし、ローゼルの状況を簡単に説明した。
「あぁ、そうですか……。
私のせいです。私の判断がいけなかった。
まさか魔物が出るなんて――」
彼は両手で顔を覆い、深い後悔の念を滲ませた。
「ライアナース卿が責任を感じることではありませんよ。
とにかく、彼女が無事生還できたことを喜びましょう。
彼女は強運です。
それに、ちゃんと貴殿からのお役目だって果たせた。
立派な王宮内務官ですよ」
ルシアンの宥めるその声に、ライアナースは全身から力が抜け、その表情も泣き笑いのようになった。
「はは、お役目って……。
クレインバール卿が代理で行ってくれたのでしょ?」
「まあまあ。その辺は置いておいて。
陛下の玉璽の入った書類を命懸けで届けたのは彼女ですから」
「そうですね」
「そうです。
とにかく、彼女の一刻も早い復帰を待ちましょう」
「ええ、そうですね。
クレインバール卿、ありがとう。
私の大事な部下を助けてくれて」
「いえ、これが私の仕事ですので」
ルシアンはいつもどおり、愛想のいい笑顔を浮かべた。
急に、ライアナースがルシアンの両手をぎゅっと包み込むように握った。
「本当に……ありがとう――」
震える声と、安堵と切実さの入り混じった声。
その手に自分の額がつきそうなほど彼は頭を下げる。
ルシアンはその姿に、息苦しくなるものを感じた。
「では」
ライアナースはのろのろと顔を上げ、再びルシアンに深々と頭を下げてその場から去って行った。
(あれはかなりショックを受けているな)
ルシアンは首に手をあて、肩を丸めて去っていくライアナースの後ろ姿をぼんやりと眺めた。
ふいに以前ライアナース卿と話していた時のことを思い出す。
――イースティリア女官は繁忙期になると決まって家に帰りたがらないんですよ。
仕事をちゃんと全うしたいとかで。
まあ、私も残業して変な時間帯の深夜とか朝方とか危ない時間に帰られるよりは、このまま王宮の仮眠室で寝泊まりした方が安全と思ってね、
許可を出したんです。
そうしたら彼女、一週間ずーっと、その仕事をやり切るまで家に帰らなくてね。
休日さえも休むことなく仕事をこなして……。
お陰でこちらの仕事は片付くし、いろいろ彼女が根回し作業をしてくれたんで、仕事がやりやすくはなったんですが……。
皇族会議の身元確認作業もそんな感じでしたよ。
ローゼルを猫可愛がりしているライアナース。
(そうか。
彼女が帰らなかったのは、あの家から逃れるためか)
避難。
その言葉がぴったりだ。
何もない部屋に質素すぎる家具。
パトリシアやバルセシャンの話を聞くと、彼女のお気に入りの本もすべて継母にその時売られてしまったとか。
デジールの言う通り、ローゼルはあの家でまともな食事を提供されていない。
料理長は問題ないのだが、給仕をする侍女たちに大きな問題があった。
夫人の命令なのか、姑息で陰湿ないじめ。
結局、お給金もすべて借金に充ててしまったとき、ローゼルはパトリシアやバルセシャンたち古参の侍従から食べ物を分けてもらったり、裏庭に栗の仲間のクリモナの実を甘く煮詰めて飢えを凌いでいたらしい。
落胆、絶望、失望。
先日の舞踏会で婚約者の浮気現場を見つけたときのローゼルの顔が思い浮かぶ。
身動ぎもせずに、じっと見つめる。
きっと同じ目をその時もしていただろう。
醒めていて、虚無的で、静かな、光を失ったガラス玉のような目――。
「ルシアンよ、どうだった」
ルシアンが総帥の執務室に入ると、彼は窓辺に立ち、腕を組んで振り返る。
彼の頭上を窓から注ぐ月光が鈍く反射する。
「はい。想像以上にかなり深刻な状況だと感じました」
「らしいな。
禁術――テラリス・フォージクがあれは呪術だと断言したと報告を受けた」
テラリス・フォージクは第3魔法騎士副団長であり、この国で許可された数少ない禁術の呪術研究家だ。
このことは、上層部でもごく一部にしか知られていない。
それだけ禁術の研究は、極刑に値する危険な行為なのだ。
「イースティリア女官を乗せた馬車の客車部分、そこに呪具の魔物を引き寄せる札が貼ってあったとも聞いたぞ」
総帥は面倒臭そうに首筋を掻いた。
「はい。そのようで」
「呪具の魔物。
つまり、人造魔物か。
前々からそういう話はあったな」
「はい。呪術も大きく絡んできそうなので引き続き、王宮魔術師ならびに魔法省も加えて調査していく予定です」
数年前から敵国マリュード皇国が、対魔法使い用で新たな兵器、人造魔物を開発している情報は確かにあった。
現に他人の魔力を抽出して作った魔力石を古代文献から発掘し、その技術を応用してさらなる兵器化を進められていた。
「で、お前はこれをどう見る?
イースティリア女官が狙われたと思うか?
それとも官僚なら誰もよかったのか?」
「その辺りに関しては、まだ断言致しかねますね。
ただ、彼女の継母が聞き捨てならないことを言っておりましたので、そこを探ってみようと思います」
「ほう」
総帥は興味を覚えたのか身を乗り出した。
ルシアンは自分の考えを述べた。
夜の帳が王城を覆う頃、闇の中で蠢く影は、まだ正体を現してはいない。
ルシアンの胸には、見えぬ敵への警戒が静かに燃え続けていた。
***
――どうだった? あったでしょ?
確信めいた瞳で第2皇女のミシェーラはローゼルに言った。
ローゼルは、皇族会議のあの日、宰相の指示通りまず彼女に扇を渡した。
――はい、ございます。
その旨を宰相閣下にもご報告いたしました。
ローゼルが声を潜めて言うと、ミシェーラは嬉しそうに微笑んだ。
――本当、ローゼルは素直でいい子ね。
それに果敢よ。
私の側仕えにしたいくらい。どう?
ミシェーラの誘いにローゼルは驚き、視線を泳がせた。
――えっと……
分かりやすく困るローゼルに、ミシェーラはふと笑って言う。
――冗談よ。
ごめんなさい、あまりの可愛さに揶揄ってみたくなったの。
冗談……。
ローゼルはほっとした。
――もう分かりやすい反応ね。
そんなにあからさまに、ほっとしなくてもいいじゃない。
あたくし、落ち込んじゃうわ。
――えっ、あっ、ああ、そうじゃなくて、気に障ったのでしたら申し訳ございません。
ローゼルがあたふたし出すのを見たミシェーラは愉快そうに肩を震わせて、くすくす笑った。
――もう、本当冗談が通じないんだから。
――え、あ、これも冗談……。
ローゼルは恥ずかしそうに苦笑を浮かべた。
――でも、あたくしの意向をうまくこなしてくれて、ありがとう。
華やぐようにミシェーラは笑った。
*
ローゼルはハッとした。薄っすら瞼を開ける。
いまの、夢?
「ローゼル」
すぐ側で、歓喜に満ちた懐かしい声が広がった。
明るい光が一斉に差し込んで来て、ローゼルは眩しさのあまり目を一瞬細めた。
すぐに部屋の明るさに慣れてきたローゼルの目に映ったのは、久しぶりに見る父の顔だった。
途端にふわふわしていた心地から、一気に現実に意識が引き戻される。
それでも頭の中はどこか靄に包まれているようで、やけに重苦しい。
でも、こればかりは分かる。
(お父様は領地にいるはずなのにどうしてここに?)
いつも険しい父の顔つきが、珍しく目には涙を浮かべ、ローゼルの手をぎゅっと握り締めていた。
久々に見た父の人らしい顔――。
母が亡くなってから、父はいつも気難しい顔ばかりしていたっけ。
「お父様……」
ローゼルの声はかすれていた。
喉がカラカラなのに気づく。
「あぁ、そうだよ。本当によかった」
父はローゼルの手を両手で包み込むように握り直して、自分の額に近づけ、ローゼルの手の甲にキスをした。
まるでローゼルが死から生還したかのような喜び方だ。
「生きていて本当によかった」
目を潤ませる父、声も身体も小刻みに震えている。
何を言っているんだろう。
大袈裟だなぁ。
そう思った瞬間、ローゼルの脳裏に記憶が一気に巻き戻る。
揺れる馬車の中で、頭を撫でるルシアン・クレインバール卿。
ローゼルを守るように立ちはだかる彼の大きな背中。
ローゼルを庇った御者から流れ出る血。
血に群がるグールたち。
初めて限界まで発動した水の攻撃魔法。
そして、魔物図鑑でも見たことがないようなおぞましい物体。
鼻がおかしくなりそうなほどの腐乱臭――ニタリと嗤う不気味な口。
「あ……」
恐怖が全身を駆け巡った。
一気に熱くて冷たい汗がこめかみから首筋に噴き出す。
不意に、眩暈と悪寒のようなものが全身を走り抜けた。
「ローゼル、もう大丈夫だ」
蒼白になるローゼルに気づいた父が、再びきゅっと手を強く握って、そっとその双眸を覗き込む。
「大丈夫だから」
「え、あ……」
唇が震える。
「悪い魔物は、魔法騎士団が討伐してくれた。
よく頑張ったね」
温かい。
父のいたわる優しい言葉に、ローゼルはなぜだか無性に胸を掻きむしるような切なさが込み上げて視界が滲んだ。
強烈な安堵感が押し寄せて、身体が小刻みに震える。
「あのね、すごくね、怖かったの……」
喉の奥から絞り出すようなかすれた声が出た。
まるで幼い子どもみたいに、なんとも情けない声だ。
けれど、一度溢れ出した思いは止まらない。
「私……、私ね、お父様。
必死に、戦ったの……」
「ああ、そうだな。
よくやったよ」
ローゼルの目から一筋の涙が流れる。
「怖くて、死にそうだったの……っ」
「うん、そうだね」
ローゼルは堰を切ったように泣きじゃくった。
父はローゼルを抱き上げて、ぎゅっと強く抱きしめ、宥めるようにずっと背中をさする。
「本当に辛抱強く頑張った。
きっとローゼルのことをマリアーナが守ってくれたんだよ」
マリアーナ――。
母の名前。久しぶりに聞いた。
父が留守がちになったこの家では、その名前は禁句だった。
なにせ、継母シャルルは、前妻の母を魔女だから、と毛嫌いしていたから。
シャルルは母に縁のある侍女たちを次々と解雇し、最終的に父と直契約をしている古参の侍従以外いなくなって、意地悪な母におべっかばかり言う侍女たちで溢れていた――。
「もう大丈夫だ。
あとはこの父に任せなさい」
揺るぎない口調と意を決したような声。
優しく撫でる父の手。
やがて、ローゼルが落ち着いて来たところで、空腹を刺激するいい匂いが漂ってきた。
「ささっ、お嬢様。
精のつく物をお召し上がりください」
侍女マーサが、ローゼルの好物の果物とミルク粥が載ったお盆を運んできた。
「えっ、マーサ?」
ローゼルは涙を拭いながらも、ぽかんとした。
マーサは領地の屋敷にいるはずだ。
どうして?
父メイットは、その姿がおかしかったのか、くすっと笑う。
「マーサはね、ローゼルが倒れたと聞いて、領地の果物や特産物を持って王都まで来たんだよ。
あと護衛のエルドもね。
領地のみんなもお前を心配している。
早く良くなりなさい」
「そうですよ。お嬢様。
まずはお嬢様がお元気にならないとね」
パトリシアが上半身を起こしたローゼルの肩に、カーディガンを掛けた。
「……パトリシア、泣いていたの?」
ローゼルは泣き腫らしただろうパトリシアの顔をまじまじと見た。
パトリシアは気まずそうにもじもじしながらはにかんだ。
「お目汚し申し訳ございません。
お嬢様が目覚めたのでほっとしたんですよ」
「ほっと……?」
ローゼルは首を傾げた。
どういうことだろう。
目覚めたばかりだからというのもあるが、情報が多すぎで頭が混乱している。
扉がノックされた。
父が「はい」と返事をすると、バルセシャンが入って来た。
「旦那様、ミハイル医師がお見えになりました」
いつものように淡々としていた彼は、目覚めたローゼルを見て驚き、そして目を潤ませた。
「お嬢様ぁ、お目覚めで」
「え……うん」
ローゼルはますます戸惑った。
感極まった涙声だ。
こんな感情的なバルセシャンを見たのは初めてで、ローゼルは違う意味で驚いた。
もう、みんな、さっきから大袈裟だなぁ。
どうして目を覚ましただけで、みんなこんなに嬉しそうな顔をするんだろう。
「おや、ようやく眠り姫はお目覚めかな?」
白い顎髭を蓄えた初老の小柄な男が部屋に入って来た。
身なりからそれなりの貴族であることが分かった。
「ローゼル、こちらはクレインバール卿付きのミハイル医師だよ」
父が紹介すると、ミハイル医師は小さく会釈した。
「どうも」
ローゼルは会釈し返しつつ、いよいよ何が何だかさっぱりで、状況が全然把握できなくなってきた。
だって、どうしてここに「クレインバール卿」の医師が来ているの?
彼の助手らしき若い男が、カバンを机に置き、白衣を取り出した。
老人は慣れた仕草で白衣を羽織って診察の準備をする。
その時、ようやく気づいた。
よくよく見ると部屋の中が、随分と豪華になっている。
継母シャルルに売り払われたはずの家具がグレードアップして戻って来ているし、横たわるだけでギシギシ音を立てていたベッドも最高級のものになっている。
まるで自分だけ過去に取り残されてしまった気分だった。
いまだに状況がつかめずにぽかんとしているローゼルに、父は優しく微笑む。
「今は少しでも体力回復することを優先に考えなさい」
「はい……」
「どれどれ、顔色はかなりいいようですね」
ミハイル医師がカバンから聴診器を出しながら言った。
「ローゼル嬢。
あなたは三日三晩、ずっと眠っていたんですよ」
「え? 三日三晩……?」
柔らかな笑みを浮かべてミハイル医師は頷く。
「おかえりなさい。
よくぞお目覚めになった」




