第33話 歪んだイースティリア子爵邸
ルシアンがイースティリア子爵邸の前まで馬車をつけると、イースティリア邸の執事らしき痩せ細った初老の男が現れた。
あらかじめローゼルをゴルマン領からイースティリア邸まで送り届けると前触れをしていたが、出迎えは彼一人のようだ。
ルシアンは違和感を覚えた。
(おかしいなぁ。
ふつう、雇用主の令嬢が倒れたと聞いたら、複数の侍女や彼女を運べる男性従業員が総出で出迎えるものなんだが)
ルシアンは不審に思いつつも、馬車からローゼルを抱きかかえたまま降りた。
眠り続けるローゼルの顔色はだいぶよくなったが、まだ呼吸は浅い。
「先触れを出したルシアン・クレインバール軍師だが、急遽遭遇した魔物との闘いで、急性魔力欠乏症を引き起こしたイースティリア令嬢の引き渡しをお願いしたい」
ルシアンが執事に向かって毅然と言うと、彼はローゼルがいまだルシアンに抱き抱えられながら眠っていることに慌てふためいた。
「わたくしはイースティリア子爵の執事でございます。
申し訳ございません。
お嬢様が意識を失っているとは露知らず。
お嬢様を運べる男を呼んでまいりますので、少々お待ちください」
ルシアンは眉をひそめた。
(なぜ用意できていない?)
前触れにはちゃんと彼女が起き上がれない状態なのを記載しておいた。
「よい、私が彼女の寝室まで運ぶ。
彼女の部屋を案内したまえ」
怪訝に思ったルシアンは、玄関の戸を開けてずかずかと屋敷に入った。
「いえ、あの、それは……!」
ますます執事は慌てた。
玄関に入るとすぐ目についた。
侍女たちが掃除道具を持ったままおしゃべりに興じていた。
彼女たちはルシアンを目にすると驚く。
それどころか媚びを含んだ眼差しをルシアンに向け、そして意識のないローゼルを見るとすぐに、敵意を含んだ視線に変わる。
「なにあれ、寝てるわ」
「きっと狸寝入りよ、素敵な殿方にお姫様抱っこされて心の中では舞い上がってるのよ」
「婚約者もいるのに最悪ね」
「この家の邪魔者なのに。なにヒロイン気取りしてんのよ」
悪意のある囁き。
ルシアンはぎろりと彼女らを睨みつけた。
なんなんだ、この屋敷は。
誰もこの家の娘の容態を気にしない。
侍女をちゃんと躾けられていないのか。
ルシアンはますます不信感を抱いた。
「彼女の部屋はどこだ?」
怒りを抑え、ルシアンは静かな声で執事に尋ねた。
けれど、つい怒気を含んでしまっていて、その表情は凄みを増す。
執事はますます肩を大きく震わせた。
近くにいた侍女たちも息を呑み、蜘蛛の子を散らすようにその場を去る。
「ああ、申し訳ございません。
こちらでございます」
しどろもどろに執事は、ルシアンを二階へ案内する。
「ほら、見て。あんないい男を誑かして」
「ついに男を家に引き入れたわよ」
「なんてはしたないのかしら。奥様の言うとおりね」
すれ違う侍女たちは、ルシアンたちを避けるように廊下の隅に寄りつつ、陰口は止まらない。
客人に対して挨拶のお辞儀すらしないつもりらしい。
気を失っているローゼルを不快そうに見ては、クスクス意地悪い笑みを浮かべる。
(ここの女主人は一体何をしてるんだ?
主人の娘を貶めるなんて)
わなわなと震えだしそうになるのを必死でルシアンは堪えた。
ようやく、ひとつの扉の前に到着する。
「お嬢様のお部屋はこちらです」
執事が部屋の扉を開いた。
「なっ……!」
部屋の中を見て、ルシアンは絶句した。
部屋の広さはそれなりにあるが、貴族らしい造りとはアンバランスな質素すぎる貧相な家具しかない。
木材剥き出しのテーブルとイス、それから背中が痛くなりそうなマットレスのない堅そうなベッド。
絨毯も何も引かれておらず、床の木材が剥き出しだ。
寝床もベッドメイキングこそ、それなりに整えられてはいるが、シーツは随分とくたびれて汚れている。
窓ガラスも曇り、カーテンすらかかっていない。
差し込む夕陽がやけに淀んで濁る。
辛うじて貴族にふさわしい高級調度品はドレッサーだけ。
「なんだ、これ。
本当にイースティリア子爵令嬢の部屋か?」
呆れたような声がついルシアンから漏れる。
ルシアンは執事を睨みつけた。
「ええ、まあ、そのう……」
執事は困ったように口ごもって、床に視線を落とした。
「ここは奇妙な屋敷だな。
屋敷の廊下に飾ってあった装飾品はそれなりの調度品だったのに、ローゼル嬢の部屋は廊下以下じゃないか?」
ルシアンは胸の奥が煮え立つような怒りを覚えた。
執事の視線が泳ぐ。
「おい、どうなんだ?」
再度ルシアンは怒鳴りたい衝動を堪えて、低い声音で執事に尋ね直した。
「あー、知らない男の人がいる!」
突如、廊下から子どもの声が聞こえた。
振り返ると、仕立てのいい服に身を包んだ小柄な男の子がいた。
確か、ローゼルには年の離れた弟のデジールがいたはずだ。
(ひょっとして、この礼儀知らずのガキが彼女の弟なのか?)
「大きい人だね!
あっ、ローゼだ。抱っこされているの?
なんで? 赤ちゃんみたいだね」
子どもは面白いものを発見したかのようにはしゃぐ。
「ねえねえ、ローゼはどうしたの?
オジサン」
「オジ……」
一瞬ルシアンは言葉を失う。
執事の顔がサーッと青ざめる。
ルシアンは肩をすくめた。
(まあ、仕方ないよな。
これくらいの子どもからしたら俺は立派なオジサンだ。
まあ、子どもの戯言だ)
「ローゼル嬢は体調を崩して倒れてしまったんだ。
少し静かにしてくれないか?」
気を取り直して、ルシアンの中で精一杯優しい声を出すと、男の子は眉をひそめて頷いた。
深刻そうに曇るその表情に、この子がローゼルを本気で心配しているのが伝わった。
「そうなんだね。
毎日頑張ってお仕事してたからローゼ、倒れちゃったんだ……」
しょんぼりするその姿に、執事が声をかける。
「デジール坊ちゃん。
なので、静かにしましょうね。
走り回ってはいけませんよ」
「うん……。
じゃあさ、このベッドだと背中が痛いから、ふかふかベッドのあるお客さんのお部屋に寝かせてあげたら?」
男の子、デジールは無邪気に提案する。
「そうですね。
ですが、奥様がなんというか……」
執事は言い淀んだ。
どうやらローゼルのこの部屋の惨事は、ここの女主人が関わっているようだ。
「他家のことで私が口出しをするのもなんだが、彼の言うことは正しい。
彼女は非常に重篤な状況だった。
今はゆっくり休める環境を整えるべきだ」
ルシアンがそう言うと、執事は眉をひそめ、ぐすぐすしていた。
「ほらね? バルセシャン。
このカッコいいオジサンもそう言っているんだし」
デジールは、執事バルセシャンの袖を引っ張る。
「……そうですね」
彼はしばらく逡巡する。
それから、何かを吹っ切れたように執事が「こちらです」と別の部屋を案内する。
「僕も一緒に行く!」
デジールはにこにこしてルシアンの後をついて来た。
「オジサンは軍人でも騎士なの?」
「ああ。そうだよ」
「じゃあ、ローゼはご本のお姫様みたいに騎士に助けてもらえたんだね!」
「ご本……?」
ルシアンは思わず聞き咎めた。
「うん。可哀想なお姫様はいつも王子様とか騎士に助けられているでしょ?
だからね、いつかローゼにもそういうヒーローっていうの?
カッコいい男の人が助けてくれないかなぁって思っていたんだ」
「ローゼル嬢は君から見て、その物語のお姫様みたいに可哀想なのかい?」
デジールはふいに周囲をキョロキョロ見回して、声をひそめた。
「うん、そうだよ。
ご飯もいつも古くて固いパンとか、臭い匂いのするスープしか出されないし、この前なんかローゼルのお部屋の家具、全部売られちゃったし」
「え?」
ルシアンは息を呑んだ。
「でもね、このことは内緒だよ。
僕がママに怒られちゃうからね」
デジールは口元に人差し指を当てた。
背格好からしてだいたい十歳くらいか。
それにしては舌足らずなしゃべり方で、貴族令息の年齢からしてもかなり幼い。
「教えてくれてありがとう」
「ううん。騎士様ならローゼをちゃんと助けてあげてね」
デジールはくったくのない笑顔を浮かべた。
しっかり釘を刺され、ルシアンは苦笑した。
一見幼いと思いきや、やけにこの家の惨状を子どもなりに事細かに観察している。
時に子どもは大人より案外物事を冷静に見ているのかもしれない。
「ここだよ」
バルセシャンより先に張り切った様子で、デジールが部屋の扉を開けた。
その部屋はちゃんとした貴賓室だった。
柔らかいベッドに清潔なリネン類。
隅々まで掃除された部屋。
ルシアンはそっとローゼルをベッドに寝かせた。
穏やかな寝顔に安堵したその時、突如廊下の方が騒がしくなって、だんだんとその声が大きくなる。
「そうなんですよ、奥様。
どこか知らない殿方が現れてお嬢様を勝手に貴賓室に運んだんですよ」
こっちに声の主が近づいている。
「まあ、なんてこと!
あんな娘が貴賓室を使うだなんて烏滸がましい!」
扉がバンッと勢いよく開いた。
「どなた?
我が家を荒らす殿方というのは……!」
入ってきた女は、ルシアンを見るなり、ひどく驚いて目を見開く。
それから扇で口元を隠して、さっとルシアンを値踏みするような目つきをした。
同時にルシアンも女をジロジロ見て観察する。
歳は三十代後半ほど。
若い頃はさぞ美しかっただろう容貌だが、今はややきつめの印象を与える貴婦人だった。
「バルセシャン、この御方は?」
彼女はバルセシャンへやけに険しい視線を流し、そして、ルシアンには色気を持った眼差しを向けた。
「奥様、こちらはルシアン・クレインバール軍師閣下でございます」
バルセシャンは手をお腹に当て、恭しくお辞儀をしながら、ルシアンを紹介した。
「まぁ! この御方が!」
夫人の頬が少女のようにぽっと薔薇色に染まった。
「初めまして、イースティリア夫人」
ルシアンは愛想のいい、そのように見える笑顔を浮かべた。
彼女は扇をパチンと閉じた。
「うふふ、初めてお目にかかります、クレインバール卿。
ここの女主人を務めておりますシャルル・イースティリアです」
彼女は美しい所作でカーテシーを披露し、舐めるようにルシアンを上目遣いで熱心に見つめた。
だが、ルシアンの表情は堅くなる。
媚びるような目つきに、甲高くなる声。
(この女は俺が最も嫌う喋り方をするな。
俺の容貌を見て態度を変える令嬢たちと同じだ)
嫌悪感を滲ませながらも、ルシアンはあえて慇懃丁寧に言う。
「先程、廊下からそこの侍女の声が聞こえましたが……」
年増の侍女が冷ややかなルシアンと目が合い、びくっと肩を震わせた。
ルシアンは、人当たりのいい笑顔を浮かべ直して続ける。
「他家の人間が勝手な振舞いをし、誠に申し訳ございません。
ですが、ご息女の容体は大変悪かったため、あの自室のベッドでは痛がるだろう、とそこのご令息の提案でこちらに運ばせて頂きました。
姉想いの優しいご令息ですね」
その声の持つ白々しい響きに、イースティリア夫人は一瞬怯えた表情を見せた。
それどころか、部屋を案内したデジールをキッと睨みつけた。
デジールはそんな視線には慣れた様子で、何事もなかったように、にこっと人懐っこい笑顔を浮かべた。
「へへ。僕、いいことしたでしょ? ママ」
甘えるような声でデジールは母親の足元に抱き着いた。
「そ、そうね……」
夫人はデジールの頭を撫でる一方で、顔が引きつっていた。
愛らしい笑顔を無邪気に向けてくる息子に怒れないらしい。
デジールはルシアンの視線に気づくと、屈託のない笑顔をさらに浮かべた。
(へえ、無邪気を装っているが、わざと母親をハメる言葉を選んでいる。
このガキ、なかなかの策士だな)
ふっとルシアンが微笑むも、夫人はちらっとベッドに横たわるローゼルの顔を見、歯軋りをした。
この女は、明らかにローゼルに対していい感情を持っていない。
それもそうか。
継母と継娘。
うまくいく方が稀だ。
とはいえ、さっきの会話から彼女がこの屋敷で不遇であることは窺えた。
ローゼルの手の痣。
舞踏会のときに垣間見えた青い折檻の痕を思い出す。
ひょっとしたら、彼女の扇でぶたれたせいで出来たのかもしれない。
目分量になるが、あの扇の端部分とローゼルの痣のサイズ。
一致する――。
今思い出したが、ウルーム伯爵家を調査するついでにこのイースティリア子爵家を調査した。
その際気になったのが、この夫人の散財だ。
(イースティリア女官のお給金の大半は、父親の事業失敗の返済とこの女のドレスと宝石代に消えていた。そして……)
「ご夫人にいくつかお尋ねしたいのですが、よろしいですか?」
ルシアンの声音は柔らかだが、その怜悧な眼差しは拒絶することを許さない威圧感がある。
夫人がいっこうに返事をしないため、ルシアンはそのまま嫌味を込めて質問する。
「ローゼル嬢は、医師から栄養失調気味と診断されてました。
驚きましたね。
十分な給金を貰ってるはずの王宮内務官の彼女がそこまで体調不良を起こしてるとは。
この状況、納得できるように説明していただきたいのですが、よろしいですよね?」
迫りくるルシアンの冷ややかな眼差しに、夫人はすぐにルシアンから目を逸らした。
「さ、さぁ?
わたしには存じ上げませんわ」
「では、続いてローゼル嬢の部屋についてお伺いしたい」
ルシアンは、ねっとりとした低い声音で、一歩夫人に近づく。
威圧的な物々しい気配を放つルシアンに、夫人は警戒の色を現し、無言で仰け反るように後ろに下がった。
「彼女の部屋、妙齢の令嬢の部屋とは思えない質素な調度品でした。
装飾品どころか目を愛でる花一輪すら飾られていない。
これでは使用人の部屋と変わりません。
いや、それ以下だ。
だが、廊下に飾ってあった絵画や調度品はそれ相応の品、アンティーク調の年代物で、かなり値を張るものばかり。
この落差は酷くないでしょうか?
子爵夫人はあえてご息女にあのような部屋をあてがっているのですか?」
夫人の顔に驚愕と屈辱、ルシアンに対するあからさまな恐怖が浮かんだのをルシアンは見逃さない。
「そ、それはあの子が望んだことですわ。
わたくしは何も知りませんわ」
夫人の声は微かに震え、扇を広げ直して口元を隠す。
視線が泳ぐ。
「ねえねえ、ママ。
ママは『ローゼは魔物のせいで死んじゃったのよ』って言っていたけど、ローゼル、ちゃんと生きていたよ。
魔物に食べられてないんだって」
嬉しそうにはしゃぐ無垢なデジールの声が、さらに部屋の空気を凍らせた。
ルシアンはすかさず夫人に恫喝を込めた視線を投げた。
「どういうことですか? 夫人。
不謹慎にも程がありますね?」
声に恫喝めいた響きがこもった。
夫人から恐怖に慄く声が「ひぃ」と漏れた。
「こ、 子どもの言っていることです、どうかお気になさらずに。
ほら、デジール、行きますわよ」
夫人は「ホホホ」と上品な愛想笑いを浮かべた。
「失礼しますわ」
デジールの手を引いて慌てて奥の部屋に引き込んだ。
付き添いの侍女も、ルシアンに一礼もせず、その後を追いかけるようにして出て行く。
なんだ、あの女は。
それに今のデジールの発言。
(俺が出した先触れには、魔物に襲われたことは一言も書いていない。
それなのに、どうしてそのことをあの夫人は知っていたんだ?)
不信感が募る。
「も、申し訳ございません!」
扉が閉まると、唐突に執事のバルセシャンが深々と頭を下げた。
「至らぬ点ばかりで誠にお恥ずかしい限りです」
ぷるぷると震えている年老いたバルセシャンに、ルシアンはやるせない気持ちになった。
「謝罪は結構。
それより、教えてくれ。
俺はちゃんと先触れしたぞ」
改まった顔つきで、ルシアンは彼を見据えた。
「ええ、そうです……。
そうなんですが……」
バルセシャンはひどく言いにくそうに視線を泳がせた。
その時、再び扉が勢いよく開いた。
「こちらにいらっしゃいましたか⁉ お嬢様⁉」
中年の小太りの侍女が青ざめて、ベッドに横たわるローゼルに駆け寄った。
「まあまあ、お嬢様」
慌てているのか、その侍女はルシアンの姿は目に入らない様子で素通りをする。
そのまま甲斐甲斐しくローゼルの上着などを脱がせ、ひとつにまとめていた髪のリボンも解き、テキパキと世話を焼いた。
そのひとつひとつの仕草から、この侍女が廊下で喋っていた侍女たちのようにローゼルを蔑ろに扱う気がないのだと分かって、ルシアンは少しほっとした。
(とはいえ、何かと騒がしい家だな)
ルシアンの思いを察してか、バルセシャンがコホンとひとつ咳払いをした。
「はっ、やだ」
侍女はルシアンの存在に気付くと、気まずそうに自分の手を口にあて、お辞儀をした。
「ご挨拶もせず、申し訳ございません。
あたしは旦那様とお嬢様付きの侍女パトリシアでございます」
(ふうん、彼女はちゃんと教育をされている侍女のようだな)
ルシアンはまじまじとパトリシアを見た。彼女はおどおどした表情で、何度も頭を下げる。
「奥様から突然お遣いを頼まれ、お嬢様の出迎えが遅れたため、つい客人にご挨拶することを失念し、申し訳ございませんでした」
「いや、いい。
主人を大切に思うのは至極当然。
だが、ひとつ、よろしいか?」
「あっ、はい」
パトリシアは顔を上げた。
「俺がここに魔力欠乏症になった彼女を連れて訪れると、ちゃんと前触れを出していたかと思うが、何故それにも関わらず夫人があなたに遣いを頼んだんだ?
よっぽどの火急の用でもあったのか?」
「えっと……ああ、まあ」
パトリシアは急に歯切れが悪くなり、バルセシャンに困ったように目配せをする。
バルセシャンは大きくため息をついた。
「誠に誠に……至らぬ点ばかりで申し訳ございません」
また深々とバルセシャンが面目なさそうにお辞儀をした。
この家のまともな侍従は、よく頭を下げるようだ。
だが、廊下でローゼルの陰口を悪びれる様子なく触れ回る侍女より断然いい。
イースティリア家の家庭内状況があまり芳しくないのは知っていた。
けれど、これはあんまりじゃないだろうか。
「子爵はこのことを全部知っているのか?」
ひんやりとするルシアンの声に、二人は気まずそうな表情を浮かべた。
「だ、だ旦那様はお嬢様のお部屋がこのような状況になっていることを存じ上げません。
お嬢様から旦那様に言わないよう頼まれております」
「ほう。なぜ?」
「それは……」
バルセシャンは顔を伏せた。
「すべての原因は奥様です」
パトリシアはキッとルシアンに向き直った。
「これっ、黙りなさい」
バルセシャンが小さく叱責した。
「いいえ、あたしはもう、もう黙ってはいられません」
パトリシアがバルセシャンに詰め寄り、再びルシアンに視線を戻した。
「ルシアン・クレインバール軍師閣下、すべてお話いたします。
全部奥様がやったんです」
「夫人が?」
ルシアンは眉をひそめた。
「はい。旦那様は現在領地に長期で出向かれております」
「ああ。
そのようだな」
「はい。それで、お嬢様が先日お仕事で活躍して報奨金を頂戴しましたのに、奥様は翌々日に勝手にすべて売り払ってしまったんです。
お嬢様が出仕している間に。
それどころか、旦那様に一言も相談なく、早々にお嬢様の結婚を早めようとウルーム伯爵家に出向いたんです。まだまだお嬢様はご結婚する気はないというのに――。
しかも、その日、あたしとバルセシャンにわざわざ休みを取らせてまでですよ!」
パトリシアの吐き捨てる言葉に怒りが滲んでいた。
「すべての元凶は、やはりあの夫人が原因か」
ルシアンは舌打ちした。
「そうなんです。奥様はアルバート様とローゼル様には冷たいんです。
殊に同じ女であるローゼル様にはいつも手厳しく辛く当たっていらっしゃるのです。
アルバート様が留学し、旦那様が領地に入り浸りになっている間に、奥様が女主人として好き勝手に仕切り出しましてからは、この有様でございます」
「なるほどね。それでこんな冷遇される羽目になったのか、ローゼル嬢は」
ルシアンは顔を歪ませた。
「ローゼル嬢の手に痣があった」
ルシアンが低く言うと、二人の顔が青ざめた。
「あれは、夫人がやったのか?」
「はい……」
バルセシャンが力なく頷く。
パトリシアはまた涙ぐんだ。
やはりあの女の仕業か――。
家庭内暴力。
あの夫人はローゼルに魔法を禁じ、気に食わないことがあると手を挙げていた――。
ルシアンは腹の底から、怒りの炎がじわじわと全身に広がっていくのを感じた。
「ちなみに、再度確認をしたい。
夫人は俺の先触れを無視したんだな」
「無視というよりも、その……」
バルセシャンが口ごもる。
この先を話すには憚れる、という感じだ。
「なんだ、言ってみろ」
「はい、そのご気分を害されるかもしれませんが、奥様は軍師閣下から頂いた前触れは『自分に対するお嬢様の嫌がらせ』と勝手に推測し、出迎える必要はない。とおっしゃられてました。
しかも、ローゼルはもうこの屋敷には帰ってはこないだろうと」
「帰ってこない?」
ルシアンは耳を疑った。
「はい。そう断言されたんです」
バルセシャンの表情は苦々しい。
気まずい沈黙が流れる。
どういうことだ?
そもそも思い返せば、不可思議なことばかり。
ローゼルの出張理由に不審な点はない。
けれど。
ローゼルの乗った馬車のキャビンに呪術の魔法陣。
ルシアンを足止めしようとしていた次官。
ローゼルが屋敷に帰ってこないと断言する彼女の継母。
これは偶然か?
いや、この裏に絶対何かある。そう直感した。
ルシアンはローゼルに視線を飛ばす。
彼女は何者かに狙われているのかもしれない。
この不安がルシアンに決心させる。
俺は、彼女を守り抜く――。




