第32話 夕闇迫る街道、栗色の髪を梳く掌
カタカタ……
馬車の揺れる音。
そうそう、私、さっきからずっと馬車に乗ってるんだっけ。
ローゼルはうつらうつら思う。
そういえば、突然グールに似た気持ち悪い魔物に襲われたんだけど、あれ、きっと悪い夢だったんだよね?
だって、あのルシアン・クレインバール卿が助けに来てくれたんだもの。
国のトップ軍師がわざわざ私を助けるなんて、ありえない――。
徐々に意識がはっきりしてきた。
そう実感すると同時に、身体が鉛のように重たいことに気づく。
吐き気は収まったが頭もズキズキする。
でも、そろそろ起きないと。
ローゼルはぼんやりする意識からゆっくり瞼を開く。
馬車の窓から景色が斜めに流れて見える。
ここ、やっぱり馬車の中だよね。
それにしても、すごく硬い枕だなぁ……。
(ん? 枕?)
はっとローゼルが身体を起こした。
途端に目の前の世界がくるりと回ってぐらりと揺れる。
平衡感覚を失って前のめりになって倒れ込みそうになった。
「おっと」
すぐ隣から低く野太い声がして、逞しい腕がローゼルの身体を倒れないように支えた。
それから、腕の主がゆっくりとローゼルを自分にもたれかかるように座らせた。
ローゼルは隣に座る人物を恐る恐る見上げた。
見上げれば玲瓏な容貌。
目が合うと、柔らかく微笑む美しい笑顔。
「あっ……ああ、あああああ……」
ローゼルの声は震えていた。
ルシアン・クレインバール卿!
ローゼルは慌ててルシアンから離れた。
勢いよく離れ過ぎたため、距離感覚がつかめず馬車の端の天井に思いっきり頭を打ち付けた。
「あうっ」
あまりの痛みと衝撃に目から火花が散った。
ローゼルは打った頭の後頭部を両手で押さえ、その場にしゃがみ込み、もだえ苦しむ。
「おい、大丈夫か?」
「はひ……」
「すごい音したぞ」
再び逞しい腕が支え、低い声が耳をくすぐる。
「だって……びっくりして……」
ローゼルは恐る恐るルシアンの顔を見上げた。
「あはは、そんなに驚かなくてもいいだろ」
すぐ間近にある美貌にローゼルは顔を赤く染めた。
「も、申し訳ございません。
お、驚いちゃって……!」
ローゼルは口ごもりながら謝り、ふと馬車から覗く外の景色が視界に入って、思わず動きが止まる。
「あれ……王都に戻ってる?」
ローゼルは目の前の窓にへばりついた。
なんてことだろう、私は出張中でユーモネア領地に行かないといけなかったのに!
すでに夕刻。
今からでは間に合わないし、しかも、どうして王都に戻っているのか。
(その上、こんな麗しい騎士様に、私、ひ、膝枕してもらっていたのよね!?)
顔色が赤から青になっていくローゼルに、ルシアンはすべてを察したかのように、落ち着いた声で宥める。
「まあまあ、落ち着いて座れよ、ローゼル・イースティリア女官。
今から君が倒れた後の話をする」
「あ、はい」
ローゼルが対面の席に座ろうとすると、突如ルシアンがローゼルの手首を掴んで隣に引き寄せる。
「君の席はこっち」
「え?」
ローゼルの脳内に「?」マークが浮かぶ。
なぜ、隣?
ルシアンはニコニコと笑って、自分の隣の席をぽんぽん叩いて座るよう促す。
「で、でも……私……」
ローゼルは困惑した。
(お、畏れ多い……。
いくら先日の舞踏会で一緒にダンスをしたといっても、これはちょっと馴れ馴れしすぎるよ)
そもそもその時に借りた彼の上着。まだ返せていない。
あんな上質な上着、我がイースティリア家で洗濯するわけにはいかなくて、プロのお洗濯屋さんに依頼するために、次のお給金が出るまで保留してある。
「ほら、おいで」
ルシアンの低く、惚れ惚れとする美声。
彫刻を思わせる気高い線に縁取られた憧れの男性――。
「座って。ね?」
柔らかく微笑むルシアンに、ローゼルの顔は一気に噴火するように熱くなる。
その顔でその声で、「ね?」は卑怯でしょ!
ローゼルは心の中で叫んだ。
「さぁ、イースティリア女官。早く」
「……っ」
心臓が思わず口から飛び出るほど高鳴った。
甘いマスクに甘美な声音。
ズルい、狡すぎる!
逆らえるほど、今のローゼルにはそんな体力は残っていない。
ローゼルはしどろもどろに、静かにルシアンの横にすとんと腰を下ろした。
座ってみたものの、つくづく不思議に思う。
深い男女の仲でなければ、こういうとき対面で座るものだと思うけど。
ローゼルはそっとルシアンを見上げた。
すぐに視線が絡み合って、ますますローゼルは早鐘を打って息が止まる。
「まず、イースティリア女官。体調は?」
「た、体調……」
「そう。吐きそうとか、気分が悪いとか」
深い瑠璃色の双眸がローゼルの顔を覗き込んだ。
探るような目つきに、ねっとりとした熱を感じた。
ローゼルは身体が火照るのを感じながら、指をこねくり回してボソボソ答える。
「た、体調……。
あ、頭は少し痛いですけど……」
「そうか。あんな魔物に襲われたんだ。
気分がいいとは言い難いとは思う」
ローゼルは一瞬ぽかんとした。
そして、ハッとした。
「って、え?
やっぱりあの魔物襲来は夢じゃなかったんですね?」
声が震えた。
「ああ、現実だよ。
それで、まず現状把握だ。
君はあの魔物を倒すにあたって魔力を使いすぎて急性魔力欠乏症で倒れた。
エヴァンの、ええと、ゴルマン伯爵の屋敷で回復魔法治療を受けたが、全回復には至っていない。
今はその帰りの馬車、それは認識できた?」
「はい。
やっぱり帰り道なんですよね……」
役目を果たせていない――。
ローゼルは泣きたい気分になった。
あぁ、まだまだ私は半人前だ。書類を届けるというお役目も果たせなかった。
途方に暮れる。
なんて情けない。
「イースティリア女官が上官ライアナース卿から指示された任務は二つだっけ?」
ルシアンの声がやけに優しく聞こえた。
「はい……」
ローゼルは頷くも、役目を全うできなかったことに自己嫌悪する。
「大丈夫、このルシアン・クレインバールが代理で行っておいたから」
磊落さを滲ませてルシアンが笑った。
「え! 軍師閣下が⁉」
跳び上がるような思いでローゼルは声を上げた。
けれど、今度は本格的な眩暈がローゼルを襲う。
そんなローゼルをルシアンは支えるように自然な動作で受け止めるように抱きかかえた。
それから自分の膝の上に、ローゼルの頭を載せて横たわらせる。
(え……なんですか?
このシチュエーション……)
また膝枕された自分。
ローゼルは目をぱちくりさせながらも、顔から火が出そうだった。
どうして、どうしてこんな状況になった!?
彼との距離が近すぎる。
ローゼルの呼吸は浅くなり、どうしていいか分からなくなる。
そのくせ、胸の奥でその甘美な喜びに満ち、眩しいほどの幸福感が襲う。
「いいかい、イースティリア女官。
今は急に激しい動きや大きな声を出さないこと」
ルシアンの大きな手がゆっくりとローゼルの前髪をかきあげた。
彼の触れたところが熱を持った。
鼓動がさらに早鐘を打つ。
「まず横になって安静に」
「は、はひ……」
「いいかい。君は魔物たちと戦って魔力欠乏症だけじゃなく、軽い貧血も起こしてる。
まだ完璧に回復できてない。
ゴルマン伯爵のところの医師によると少なくとも五日は安静にした方がいいそうだ。
あと、軽い栄養失調も起こしている。
いまはおとなしくここで横になっていなさい」
嗜めるような柔らかなルシアンの口調に、ローゼルは申し訳ない気分になった。
けど、突然動いた代償は大きく、上下左右の感覚がなくなってしまい、ますます目が回る。
静かに「すみません」と呟いて大人しく膝枕をしてもらうことにした。
ルシアンがローゼルの頭をさらに髪を梳くように撫でた。
「謝る必要はない。
まさか王都に続く街道に魔物が出るなんて誰も想像していなかったことだ。
俺たちが駆けつけるまで御者と二人でよくあれだけの数の魔物相手を倒したな。
君が攻撃魔法を使えるなんて、本当に嬉しい誤算だった。
よかったよ」
「ああ……あれは兄に鍛えられたお陰です。
でも、私、魔力量がそこまでないので、魔力残量を計算しながら使ったんですが、あれが限界でした。
もっと魔力量があれば、御者の方にあそこまで負荷かけずに済んだかもしれないのに……」
ローゼルは顔を歪めた。
「君は令嬢であり、女官。魔法保持者ということだけでも貴重なんだ。
自分を卑下するな。
あれだけの魔物相手に生き残った自分をまず褒めるべきだよ」
「けど」
「ましてや武官でも魔術師でもない、身を守る攻撃魔法が使えただけでも素晴らしいことなんだ」
「そうなんですか?」
「うん。御者も無事だよ。
彼の場合、もう少し休息が必要だが、もう命に別状はない。
ゴルマン伯爵邸で養生することになった。
ほら、ね? もう心配事はなくなった。
今は体を休めないと。
目を閉じて」
温かなルシアンの声に、ローゼルはますますいたたまれない気持ちに陥った。
私はまだまだ半人前だ。
本来は自分が全うするべきだった役割――いくら魔物に襲われたって、ちゃんと対応しなくっちゃいけなかった。
こんなふうに倒れちゃうなんて自己管理ができていない証拠だ。
「……ご迷惑をかけてごめんなさい」
「謝るな。
全然迷惑じゃない」
「でも」
「それだけ魔力を急激に消耗した闘いだったんだ。
魔物も君が思っている以上に厄介で強敵だったんだ。
よく頑張ったね。
王都まであと少しあるから、今は目を閉じて眠りなさい」
まるで幼い子に言い聞かすように、ルシアンが大きな掌をローゼルの両瞼に乗せた。
暖かくて大きな手だ。
なんだか馬車の揺れと、その温かさが心地よくなって、そのうち、とろんとしてきてまどろむ。
ふわふわする。気持ちいい。
そのままローゼルは眠りについた。
***
やがて日が暮れ始めた。
ルシアンは自分の太腿を枕に眠る子リス女官ならぬローゼルの髪を撫で続けていた。
「本当に無事でよかったよ」
「くしゅん……」
ローゼルが小さなクシャミをした。
夕刻になり、気温が下がっただろう。
ルシアンは自分の上着を脱ぎ、ローゼルの身体に被せた。
本来であれば、あのままエヴァンの屋敷で彼女を寝かせておくのがベストだった。
ユーモネア領地はこの国有数の良質な薬草が採れ、高品質なポーションを作っている。
今回の洪水がなければ、医療体制も国随一。
とはいえ、あそこにローゼルを置いておくのは、どうにも落ち着かなかった。
「俺の独断で連れ帰る無礼を許してほしい」
ルシアンは低く呟いた。
夕陽が差し込むローゼルの栗色の柔らかな髪をルシアンは愛おしげに撫でる。
このまま自分の屋敷に連れ帰ってしまおうか、そんな雄の感情が湧き出るも必死で堪える。
彼女を怖がらせてはいけない――。
(それにしても一体誰が……)
ルシアンは騎士たちの報告に、思案する。
ローゼルが乗っていた馬車の客車本体には、禁術の魔法陣が――恐らく呪術のものが描かれていたという。
いつ描かれた?
官僚の出張用馬車は、総務省庶務課馬車手配班がすべて用意をすることになっている。
馬の世話も、馬車の保守修繕も。
もちろん出張時の御者手配も魔術師同伴有無もすべて総務省管轄だ。
出張届がそこに申請された段階で、内容と行き先、出張者の能力を見極めて彼らが采配する。
彼女が乗ると分かっていて、わざと呪術の魔法陣が付与されている馬車に乗せたのか?
それとも単なる偶然か?
次々と沸き起こる疑問。
これは一度、総務省も洗い直す必要があるかもしれない。
最悪な場合『秘密結社 黒の杖』の一味が紛れ込んでいる可能性もあり得る――。
王城へ続く街道を、夕闇が静かに覆い始めていた。
眠るローゼルの髪を撫でながら、ルシアンはただ、闇に潜む影を思った。




