第26話 令嬢の格の違い、品格とはいかに?
軍部の喧噪とは対照的に、法務省の廊下は静寂が漂っていた。
まるで聖堂のような荘厳さがある。
磨き上げられた大理石の床に、高い天井、官吏の靴音だけが規則正しく響く。
この日、ルシアン・クレインバールは法務省の資料室に向かっていた。
――法務省管轄 資料室。
「ごきげんよう。
ご予約のクレインバール卿ですね」
受付カウンターでは、随分と若い受付の女性がルシアンを出迎えた。
首まである白シャツとグレーのスカート。
女官とは違う総務省が雇った事務方専用の下働きの者の制服だ。
「ああ。刑部省所属軍部付きルシアン・クレインバールだ」
国は、貴族間の共同事業について認めている。
ただし、契約書の写しを必ず法務省に提出する決まりとなっていて、その契約書がここで一括保管されている。
もちろん契約書内容によっては閲覧権限制限がかけられ、他部署の者が閲覧をする際は、事前予約が必要だ。
「お待ちしておりましたぁ。
さっそくですがぁ、こちらにご記帳をお願いしますぅ」
受付の彼女は、舌足らずな口調でカウンター越しに来場者用の書類を差し出した。
「あっ、羽ペンはこちらですぅ」
やたらと語尾を伸ばすしゃべり口調のまま、彼女はペンをルシアンに手渡した。
(王城勤務にしては随分と舐め腐った話し方をする子だなぁ)
ルシアンは少々苛立ちを覚えたが、表情には出さない。
羽ペンを持ってルシアンが記入し始めると、受付の彼女が両肘をつき、まじまじと何かを訴えるような視線を投げてきた。
その視線が不快で、ルシアンは眉をひそめる。
「何か?」
「え、あ、素敵だな。と思って」
にこっと彼女は頬を薔薇色に染めながら微笑んだ。
「はあ。それはどうも」
ルシアンは素っ気ない返事をし、すぐさま帳簿に視線を落とした。
それでも突き刺さるような熱を帯びた視線。
鬱陶しいな。
突如彼女はカウンターからぐいっと身を乗り出した。
「あのぉ」
「はい?」
「もしよろしければぁ、今度一緒にお食事でもどうですか?」
随分と積極的な女性なようだ。
(……またこの手の女か)
ルシアンは内心で大きなため息をつく。
「申し訳ないが、仕事が多忙なため、そんな時間はない」
「え、え……。
でも、せっかくお近づきになれたのでぇ……」
「他の官僚でも誘ってやってください」
書き終えたルシアンは冷ややかに言って、ペンをカウンターに置いた。
「えー、麗しの騎士って呼ばれているクレインバール卿ですよねぇ?
ご一緒に食事したいじゃないですかぁ。
それともお忙しいならお茶します?」
くねくねと体を気持ち悪くくねらせ、媚びるような声を出す。
「どちらも結構」
「そんな冷たいこと言わないでくださいよぉ。
あっ、あたし、ミレイユ・カーネルって言います」
「はあ、そうですか」
「ミレイユって呼んでください」
語尾に♡マークがついたような可愛らしさを装った響き。
ますますルシアンの神経を逆なでする。
ルシアンの手に、自分の指を重ねようとするミレイユから、すっと離れた。
「仕事がありますので、失敬」
「え〜、お誘いするの、すご〜く勇気いったんですよぉ。
行きましょうよ」
ルシアンはフンと鼻を鳴らした。
(こういう女は嫌いだ)
そのまま彼女を無視して、すたすたと契約書の本棚へ向かう。
恨めしそうにこちらを見る彼女の視線を感じる。
だが、どうでもいい。
さっきから、彼女の甘えるような物言いが癇に障ってしょうがない。
この様子からいくと、相手の庇護欲をそそるようなやり方で何人もの男を誘い、食事を繰り返しているのだろう。
事務方の下働きの彼女たちの大半の目的は、婿探しだ。
簡易な業務ばかりでその分、王宮侍女の給料は半分以下。
それでも王城務めの事務は、それなりにお小遣いも稼げて、将来有望な婿を獲得できるまたとないチャンス。人気の職業らしい。
(同じ女性でもイースティリア女官と雲泥の差だな。
これが正式雇用された女官と、事務方の下働きとの質の違いなのかもしれない。
けど、あれは酷い)
ルシアンは本棚の契約書の背表紙を見ながら、お目当ての契約書を探す。
内容はアランと話題にしていたウルーム伯爵とイースティリア子爵の魔剣の共同事業だ。
ルシアンは契約書を見つけ、取り出した。
そのページをじっくり読み進める。
「これは……」
息を呑む。
明らかにイースティリア子爵の方が不利な事業だ。
なぜ子爵はこの不平等な契約を受け入れているのか。
しかも、あの工程が記載されていない。
どういうことだ?
結局のところ、原点に戻るつもりで契約書の確認をしてみたが、ルシアンの疑念は深まるばかりだった。
*
なぜあんな不利な条件で承諾したのか――。
ルシアンは腕を組み、首を傾げながら刑部省に戻る回廊を歩く。
どう考えても、契約書の内容は不自然だ。
確かに伯爵側の工程は多い。鉄鉱石を採掘し、そこからの魔剣の製作。
あっちの取り分が多いのは頷ける。
だが、イースティリア子爵の付与魔術はかなり価値の高い上級者向けの魔法だ。
それに、他にも不可解な点はある。
「おや、ルシアン様」
声がして振り返ると、第3魔法騎士団副団長のテラリス・フォージクがいた。
端正な顔立ちに、シルバーフレームの眼鏡。長い金色の髪をゆったりと一つにまとめ、一見騎士とは思えぬほど柔和な佇まい。
魔法騎士団随一の知識と様々な理論を武器にする冷静沈着な戦略家。
「珍しいところで会うな」
ルシアンが気さくに声を掛けると、テラリスも柔らかく微笑む。
「そうですね。まさか執務塔近くでお会いするなんて。
びっくりしました」
合流し、二人は並び合って歩く。
「俺はちょっと法務省に用があってな。
テラリスは?」
「私はアレです。
例の王都の婦女連続殺人事件の調査で総務省に立ち寄りました」
「総務省に? なぜ?」
婦女連続殺人事件――十四人もの女性が殺害され、バラバラで遺棄されるという猟奇的な事件だ。
しかも、肌や内臓など身体の一部が持ち去られるというおぞましい特徴まである。
被害者はいつも若い平民の女性ばかり。
それも魔力保持者。
つい最近も王都の酒場で働く移民の女性が行方不明になった。
被害者が多いわりに全然手掛かりが少ない事件だから、上層部も気をやきもきしていた。
テラリスが静かに口を開く。
「また改めてご報告いたしますが、被害者が行方不明になる直前、一人の女が目撃されていることが多いんです」
「女?」
「はい。それなりに身なりが良く、きっちりした印象。髪は焦げ茶で、おだんごに後ろでまとめ上げている。
年齢は被害者女性たちより少し上。
その女が被害者と共に馬車に乗っていくんです」
「ほう。馬車の特徴は?」
ルシアンの質問にテラリスは首を振った。
「下級貴族や富裕層の商人が乗るような、ふつうの馬車です。
華美でもなく、むしろ質素。
もちろん紋章が入っているわけもない」
「貴族のお忍びとかでよく使われるタイプのものか」
「はい、そうです。
なので、馬車からは犯人に繋がるようなものはありませんでした。
ですが、その女の特徴をまとめてみると、うっすらとですが、人相はつかめました。
早速それを手掛かりに王都で聞き込みを開始しております」
「そうか。ようやく掴めた手掛かりだな。
けど、なぜそこで総務省なんだ?」
「目撃した女は白のブラウスとグレーのスカートという格好でした」
「え?」
ふとルシアンの脳裏に、その女の格好がやけに鮮明に映る。
「それって……」
さっき見た法務省管轄の資料室の受付の子の服装。
あれと特徴が同じだ。
「事務方の下働きの女性の制服に似ているよな」
「ルシアン様も気づきました?」
テラリスの目がすっと細くなった。
「ああ。っていうか、悪い。
俺は今気づいた。テラリスは前から?」
「私も最近です。
どこかで見たことある特徴の格好だな、とは思っていました。
でも、シロのシャツにグレーのスカートなんてありきたりでしょ?
なかなか確信は持てませんでしたよ」
「そうだな」
「ですが、目撃者の証言で『教師みたいな女』とあったんです。
教師みたいな女。
どんな感じなのか。
私のイメージは堅い職業、ちゃんとしているイメージ。
人に教えられるくらいの教養もある。
勉強できる身分。
そう思ったら、閃いたんです。
王宮の下働きの外部からきた女性たちではないか――と」
「そうだな。目撃証言に近い。
確か……彼女たちは、総務省が一括して商会から斡旋してもらっている人材。
それで総務省か」
ルシアンはようやく合点がいって、大きく頷いた。
「はい。商会から斡旋された彼女たちのような人材を外部人材と呼んでいるそうです」
「外部人材は何か問題を起こせば、総務省ではなく、彼女たちを斡旋した商会に責任が及ぶ仕組みだ」
「そうなんです。
王城で彼女たちの身元調査はしていない、商会任せ。
我々が関与してませんが、逆に犯人にしてみたらこの上もない身元保証です。
周囲に怪しまれたとしても、王城務めとなると、少し見る目が変わりますからね」
「なるほど。
調べてみる価値はあるな」
「はい、ということで、総務省から名簿をお借りしてきました」
テラリスは手元のファイルをルシアンに見せた。
氏名、出身、階級、身体的特徴と簡単な写し絵もある。
「これはまだ推測ですが、あの犯行は手際が良すぎます。決して一人ではこなせません」
「ああ、同感だ。
十四人もの身体を切り刻むのに、女一人では無理だ」
遺体から皮を剥ぎ、目玉や内臓など体の一部を取り出すために解体する。かなり体力がいる。
しかもこれといった証拠を残さず、被害者を馬車に乗せて連れ去る。
「これは組織ぐるみの犯行です。
少なくとも馬車を毎回用意できるということは、それなりの資産を持っている」
「そうだな。
遺体の内臓など一部だけ持ち去る点から単なるサディストの犯行とも思えない。
ゲテモノ好きの範疇にしては、趣味が悪すぎる」
「はい。ほかにも被害者が全員魔力保持者であったことや、血を大量に抜かれた状態で遺棄されていた事実。
そういった共通点からある宗教団体の儀式を彷彿させます」
「血を抜かれて……。
それは『秘密結社 黒の杖』だな」
「そうです。
ですが、これはあくまでも推論にほかならない。
まずは目撃されている女を見つけます」
テラリスが真剣な顔で言った。
初夏の爽やかな風がそよぐ。
皇族に続く庭園につながる回廊から、バラの匂いが甘ったるく漂い、胸をざわつかせる。
「ちょっと待ちなさい」
ふいに、回廊が交わるところで、突如高飛車な声がした。
聞き覚えのある声で、ルシアンは思わず身体が拒否反応のあまり、ぎくりとした。
声の主が、ナディア・グロウディーナだからだ。
ルシアンが足を止めると、テラリスもつられて立ち止まった。
威圧的な彼女の声は続く。
「あなたでしょ?
あなたがローゼル・イースティリアね」
一瞬、世界が停止したような錯覚を覚えた。
ルシアンは驚いて、少し先の令嬢たちの集まりに視線を飛ばした。
そこでは、ナディアが取り巻き令嬢を引き連れて、仕事中のローゼルを取り囲んでいる。
「ごきげんよう。グロウディーナ公爵令嬢。
何か御用でしょうか?」
ローゼルはにこりともせず、彼女たちに真っ直ぐ向き合った。
「なあに、その態度。
あたしが爵位の低いあなたにわざわざ話しかけているのだから、ご機嫌伺いのご挨拶ぐらいしなさいよ。
それとも借金で首が回らなくて、そこまで教育をしてもらえていないのかしら?」
ナディアは大袈裟に扇子をバサッと広げて口元を隠し、小馬鹿にしたように嘲笑う。
クスクス意地悪く笑う取り巻きたち。
「うわぁ、最悪のタイミングですね」
ルシアンより先にテラリスが苦々しく呟く。
「よりによってあの令嬢は、仕事中の女官に声を掛けるなんて。
礼儀知らずも甚だしい」
「ああ、もっともだ」
ルシアンは大きく頷いた。
雰囲気的にローゼルは魔法省との打ち合わせが終わって、法務省のある執務塔へ戻る途中のようだった。
一方ナディアたちは、煌びやかな衣装に身を包んでいる。
「そういえば、今日、アストレイア皇女とミシェーラ皇女姉妹主催のお茶会が開催されましたね」
「ああ。上級貴族の令嬢は全員招待されているはずだ」
「なるほど。
それで彼女が王城にいるわけか」
テラリスから呆れ果てたような声が漏れた。
そう、王城は上級貴族とはいえむやみに登城できるわけではない。
ちゃんとした理由が必要だ。
ましてや、貴族令嬢が前触れもなく、ローゼルを呼び止めるのは少々礼儀違反だ。
ナディアは上級貴族令嬢だから外で働くことはしていないが、ローゼルは違う。
難関の官吏登用試験に合格した正帝国公務員だ。
――正当な理由がない限り、業務遂行中の官僚や騎士等帝国公務員の業務妨害をしてはならない。
これは貴族の中では鉄則のルールであり、騎士たちが女性を追い回さないよう通達したのも、この鉄則があるからだ。
「申し訳ございません。
仕事中ゆえ、業務の遂行を優先させていただきます。
失礼します」
ローゼルが憮然とした面持ちで言い返し、頭をペコリと下げた。
「はい?
あなた、子爵令嬢のくせにあたしに楯突くわけ?」
ヒステリックにナディアがローゼルにいちゃもんをつける。
ローゼルは辟易したような顔を一瞬浮かべ、次にはにっこりと笑った。
「いいえ。滅相もございません。
お茶会に参加できないほど仕事が少々立て込んでおりまして。
非礼をお詫びいたします。
もちろん、この国の四大公爵家のご令嬢グロウディーナ嬢ですもの、寛大な御心でお許しいただけますね?」
笑顔の裏でチクチクと皮肉を込めるローゼルと、ナディアたちの間からバチバチと見えない火花が散って、空気が張り詰めた。
「ちょっと、俺、行って止めてくる」
ルシアンが一歩踏み出そうとすると、ルシアンの袖をテラリスがぐっと引っ張る。
「駄目です」
「なんでだ?」
「女同士の諍いに男が首を突っ込んで、いいことは何一つありません」
テラリスの眼光が鋭く光った。
「けど、あれじゃあイースティリア女官が不憫だろ。
あっちは多勢できてるし」
「いいえ。彼女たちの会話をよく聞いてください。
余計、見守るべきです。
大丈夫ですよ、あの子ですよね?
噂のライアナース卿の懐刀――『法務省の女官ローゼル・イースティリア』」
「ああ。そうだ」
「きっと問題ありません。
頭の中お花畑のご令嬢と格の違いをきっと見せつけますよ」
フフン、とテラリスは不敵な笑みを浮かべた。
「そうだといいが……」
一抹の不安を払拭できないルシアンは眉をひそめ、再び彼女たちに視線を投げた。
ナディアの甲高い声は響き続ける。
「これだから爵位の低い者は困るのよ。
だいたい、あなた、先日の舞踏会、分を弁えずクレインバール卿とダンスしてたでしょ⁉
しかも三曲も!」
「はあ」
「婚約者がいるくせに、どういう了見よ」
ナディアは怒り心頭だが、一方ローゼルの反応は冷ややかだ。
テラリスがぼそっと呟く。
「ね? ルシアン様が今行ったら面倒になりますよね?」
「……ああ。
そうみたいだ」
ルシアンはこめかみを押さえた。
まったく、何なんだ、あの令嬢は。
一気に疲労感が押し寄せる。
グロウディーナ公爵家の姉妹は三美姫姉妹と揶揄されるほど見目麗しいと有名だ。
長女と次女は大変優秀で、誉れ高き国を代表する令嬢だとは思う。
だが、あの末娘ナディアに関しては、顔は可愛くても中身は最悪だ。
父親に甘やかされて育ったせいか、上級貴族の公爵令嬢としてのマナー、常識がまったく身についていない。
あんなのに執着され、早一年半。
ある意味、今まで闘ってきたどんな敵兵よりも強敵で最凶最悪な相手。
ヨオンナ・ピージャンス女官も厄介だが、それ以上に関わりたくない。
「恩人です」
ローゼルが静かに切り出した。
「恩人?」
ナディアは不審そうに顔を歪め、令嬢たちは口を噤んだ。
「はい。皆様もお噂でご存知かもしれませんが、私の婚約者は恥ずかしながら私に手を挙げようとしたんです。
それで、ちょうど通りかかったクレインバール卿が婚約者の乱暴狼藉な振舞いを咎め、助けてくれたんですよ。
騎士様はやはり御心が優しいです」
他の令嬢が婚約者に暴力を振るわれそうになったという点にひどく同情したのか、「まあ、お気の毒に」と眉をひそめた。
「フン、助けてもらったのは分かったわ。
さすがあたしが見込んだ殿方、クレインバール卿ね。
淑女を守るのは騎士として当然だわ。
今度お会いしたらご褒美をあげなくっちゃ」
なぜか、そこでナディアが自慢げに声を上げた。
遠目からその光景を見ていたルシアンは、うんざりしたような顔つきになる。
(勘弁してくれ。
俺はあんたの所有物でも愛玩動物でもない。
褒美をくれるというなら、俺の人生に二度と関わってこないでくれ)
ルシアンが吐き気をもよおすほどげんなりしていると、ローゼルはナディアたちにやんわりと微笑んだ。
「はい。だから、それだけですよ。
深い意味なんてありませんよ」
「だからって、なんで軍師閣下とダンスが踊れたの?
そこが全然納得いかないわ」
ナディアは開いた扇子をパチンと閉じた。
ローゼルは、ぼんやりと遠くを見つめ、呟くように言う。
「たぶん――元気づけるためですよ」
「元気?」
「はい。いくらそこに婚約者に愛情がなくとも、やはり婚約者に手を挙げられるというのはショックなんです」
ローゼルは悲しそうな表情を作る。
「クレインバール卿は、落ち込んだ私を憐れんだのでしょうね」
「同情したから、あなたとダンスをしたというの?」
「はい。
そうです。同情です。
本当にそれだけです。
他に何かございますでしょうか?」
「じゃあ、あの噂は何よ」
「噂? なんのことでしょう?
今まで私とクレインバール卿は業務上でも接点はございませんが?」
きょとんとするローゼルに、ナディアたちはすっかり毒気を抜かれたようにして、互いに顔を見合わせた。
「へえ、なかなか策士ですね」
テラリスが素直に感心するような声を上げた。
「……そうだな」
確かに、若干事実と違うが、挑発をうまく受け流し、攻撃の矛先を失わせ、相手の勢いを完全に削いでいる。
――きっと渋々ダンスに誘ってくれたんです。同情です。それだけです。
さっきのローゼルの台詞がルシアンの頭の中で反芻される。
胸の奥が冷たくなる一言だ。
「そう。知らないならいいの」
ナディアは興味を失くしたように、髪を耳にかけて踵を返した。
他の令嬢は慌ててナディアを追いかける。
ローゼルは去って行く彼女らの背中を見送りながら大きくため息をついた。
どっと疲れた表情で法務省の入っている執務塔に向かって歩き出した。
「さすが、ライアナース卿の懐刀ですね。
禍根を残さない切り返し。
なかなか爽快でした」
テラリスは良いものを見たと言わんばかりに、頬を緩ませた。
「同感だ。見事なものだった」
ルシアンも屈託のない笑みを浮かべるも、複雑な胸中でいた。
(同情とかじゃないんだけどなぁ……)
なんとなく無言になって、そのまま二人は刑部塔に戻る。
ふいに風が冷たく感じた。
バラの甘ったるい香りが庭園から押し寄せる。
頬が冷たくなり、体温が下がっていく。
刑部塔に入るなり、場内がやけにざわついていた。
落ち着かない雰囲気。
「何かあったんでしょうか?」
テラリスが不安そうに見渡す。
その時、ルシアンの姿をみんな見つけるなり、「あっ」という口になり、エヴァンが駆け寄って来た。
「どうした? エヴァン」
「はい。先程の皇女殿下のお茶会なんですが……」
エヴァンが険しい顔つきで、ルシアンに耳打ちをした。
ルシアンは目を見開き、息を呑んだ。
――第1皇女殿下アストレイア皇女毒物混入未遂。
冷たい風が王城を吹き抜けた気がした。
この日を境に、次々と事件に呑み込まれていくのだった。




