第23話 監視の夜に、恋に落ちた騎士
ルシアンは王城の庭園の灌木の陰から、声のする方へそっと覗く。
男女の影があった。
影は手と手を取り合い、熱心にお互いを見つめ合う。
もはやお互いのことしか見えていない、まるで世界に自分たちしかいない。まさに二人だけの世界――。
「レオ様。お慕いしております」
「あぁ、ソフィア。本当に君は可愛いよ」
その声の主はレオーネ・ウルームとソフィア・デブラント男爵令嬢だった。
「レオ様があたしの従姉のローゼルの婚約者様なのは重々承知しております。
あたしが選ばれることがないのは分かっております。けど、せめてこの想いを伝えることくらいはお許しください」
涙ながらに訴えるソフィア、それに感動するレオーネ。
ルシアンは、あまりの光景に絶句した。
(何だ、あれ、何の見世物じみた芝居だ?)
彼らにしてみれば、許されない恋だと苦しんでいるようだけど、そもそも一体ここをどこと心得ているんだろうか。
皇帝陛下のいらっしゃる王宮内の庭園だ。
その庭で堂々と浮気をするなんてあり得ない。
ルシアンは怒りを通り越して呆れ果て、こめかみを抑えた。
コイツら、常識がなさすぎだ。
だいたい、あの令嬢も令嬢だ。
(あの令嬢、イースティリア嬢の従妹だろ?)
従姉の婚約者を横恋慕するなんて、人としてあまりにも礼儀を欠いている。
それにしても、ローゼルとレオーネの姿を探していたら、とんでもない場面に遭遇してしまった。
ルシアンは変に拍子抜けをして、ため息をつく。
とりあえず、ローゼルと接触していなかったことに安堵感がルシアンの胸に広がる。
とはいえ、浮気現場を目撃するのは、いささか気まずい。
頭をポリポリ掻く。
まあ、この場にローゼル嬢がいなかったことが幸いだな。
いくら冷え切った仲でも、これはあまりにもひどい。
その時、不意に気づく。
ルシアンのすぐ傍、斜め右側の庭園の灌木の陰で、ローゼルが二人をじっと見ていた。
「あ……」
思わず、ルシアンがぎくりとした。
それは、惨めで、絶望に満ちた顔だった。
さっきまでご機嫌で数々の酒を楽しんでいたものと別物。
彼女から閉塞感と虚無感が漂い、まるで死んだ魚の目のようだった。
ルシアンは大きなため息をついて、クシャと前髪を触った。
(当事者に目撃されるとは。奴らも間が悪いことを……)
胸が鈍く痛む。
ローゼルの唇が、きゅっと一文字に結ぶ。
美しく整った顔が歪み、俯く。
泣いてしまうだろうか?
ルシアンは柄にもなく、何とかしてやりたい、そういう気分になっていた。
だが、その時、彼女の紅を差した唇が、囁くように動いた。
やがて真っすぐ、二人のいる方向を強い眼差しで見据える。
凛然とした横顔に、ルシアンは息を呑んだ。
切ない魔法詠唱が聞こえた。
しばらくすると、噴水の水がふんわりと宙に浮き、上空に大きな水の球を作る。
月光に受けて銀色の輝きを帯びる。
透明な球体の内部で光が屈折し、波紋のような揺らぎが周囲に広がった。
光を宿した銀色の球体となって上空で静止した。
(これ、彼女が?)
ルシアンは、すぐにローゼルに視線を戻した。
そして、目を瞠った。
ローゼルの横顔が月光に照らさる。
その髪の一本一本が金糸のようにきらめき、夜風に吹かれる。
まるで月の精のようだ。
彼女の輪郭だけが鮮やかに浮き上がり、他のものは灰色に滲む。
世界の音が遠のく。
美しい――。
胸の奥がきゅっと締め付けられ、なぜか喉の奥がひどく苦しくなった。
鈍い痛みがルシアンの全身を揺さぶる。
今にでも泣き出したいような衝撃。
圧倒的な美。
そして、水の球は派手にレオーネとソフィアの上に落ちた。
二人は阿鼻叫喚、大騒ぎをする。
「ふふ」
ローゼルは口元を手で覆い隠しながら、今日一番楽しそうな顔をする。
胸がすいた思いがしたのだろう。
ローゼルはせいせいした顔つきで、そそくさと大広間に続く回廊に戻って行った。
彼女の足取りは、すごく軽い。
羽が生えたかのように軽やかだ。
思わずルシアンは、噴き出した。
肩を震わせて、小さく笑う。
――あの子は、婚約者から大事にされているはずがない。
そう確信めいた直感があって、心の底から歓喜した。
「へえ、なかなか乙なことをしてるね」
気付いたら、ルシアンはローゼルに声を掛けていた。
俺ならもっと彼女を笑顔にできる。
そんな驕りのような気持ちがあの時、やけに昂っていたと思う。
最初、彼女は魔法を使ったことをルシアンに見咎められたと勘違いして、極端に身を萎縮させた。
厳密に言えば、魔法使いは正当防衛でない限り、人に向けて魔法を放ってはいけない。
彼女の先程の魔法はルールを破っている。
けれど、ルシアン自身はあれも正当防衛の一つだと思っている。
婚約者を蔑ろにするという静かな暴力をあの男は平気でしていたのだ。
当然の報いだ。
ローゼルは、驚くほどレオーネに未練のない発言をぽんぽんする。
「これを機にあっちから婚約破棄を願い出てくれたらラッキーだなと思っているくらいです。さっさと彼と縁を切りたいです」
嫉妬や怒りに任せて口にしているわけではない。本気であの男に愛想を尽かしている。
なんとなく彼女を笑顔にしたくて、ルシアンはダンスに誘っていた。
「是非とも俺と一曲踊っていただけませんか?」
ローゼルは驚いていた。
なかなか差し出した手に手を伸ばさない。
そんな彼女がもどかしくて、強引にその小さくて柔らかな手を握った。
想像以上に柔らかくていい匂いがした。
香りは甘く、胸の奥で何かが弾けた。
彼女の腰は思ったよりも細くて少しでも力を入れたらぽきっと折れてしまいそうで、ガラス細工を扱うように丁寧にエスコートした。
けれど、暗雲のような黒い靄がルシアンの心を覆い尽くしていた。
なにせ、彼女の長袖のドレスから青痣が見えたから――。
あれは強く何かモノで叩かれた痕だ。
嫌な胸騒ぎがした。
誰にやられた?
そう問い詰めたい衝動を抑え、精一杯彼女をもてなすことに専念した。
少しでも彼女が笑顔になれれば、明日も彼女が笑顔で出仕してくれればいい。
そう願って――。
「今日のドレスは婚約者が選んだのか?」
「いいえ。
恥ずかしながら婚約者から贈り物は一度もなく、これは義母のお古をリメイクして着ています」
「え? じゃあ、宝石とか贈られたことは?」
「宝石?
そんな高価なものは一度もありませんよ」
ルシアンは、その台詞に吐き気を覚えた。
たとえ恋愛感情が互いになくとも、婚約者への贈り物をするべきだ。
礼も欠いた男――最低だ。
さり気なく痣を観察する。
彼女は必死で隠していたけれど、長年暴力と狂気、そういったものと対峙してきた自分には隠しきれない。
アレは、物で打たれたような痕だった。
たぶん、扇とかそういった類。
扇を紳士が持つことはない。
であれば、あの男が手を下してはいないようだが、反吐が出る思いだった。
「レオーネだって気持ちのない女には贈り物をしたくないだろうし、私も想いのこもってない贈り物を貰っても処分に困ります。
私たちは親の駒であり、家の繁栄のための人身御供。
仕方ありません」
ローゼルはあっけらかんとした口調だった。
だけど、悲しそうに緩むローゼルの蜂蜜色の双眸は、少なからず衝撃を受けたことには間違いない。
ルシアンは冷静な瞳で、彼女を観察する。
「ふうん。じゃあ、あの浮気男に未練はないわけだ」
わざとらしくルシアンが意地悪く言う。
「未練……。
そんな言葉が私に少しでもあれば、浮気者の彼に水の球という甘ちょろい処罰じゃなくて、同じ水魔法でも水の矢という攻撃魔法を向けてます」
すると彼女は率直に答えた。
真っすぐな瞳。
口ぶりや動向。
彼女は、婚約者のレオーネが素行の悪い奴らと付き合っていることや、数々の小悪党のような悪行をしていることを知らない。
もし知っていたら、無礼男とはいえ口止めのために何かしらの賄賂代わりの贈り物をしているはずなんだ。
シロ確定だな。
ルシアンは直感した。
その瞬間、頬が熱を帯び、笑みが零れた。
ふいに、珍しく舞踏会に顔を出していた総帥の姿が目に入った。
ニヤニヤと勝ち誇ったような顔。
(あのハゲ親父、今度会ったらしたり顔で言ってくるんだろうな)
――ほら、見たことか。
お前はとっくにあの子に惚れていたんだよ。
ああ、その通りだ。
悔しいが認めるよ。
俺は彼女と初めて目を合わせた瞬間から、心を奪われていた。
ダンスをするローゼルはすごく楽しそうだ。
屈託のない花開いたような笑顔。
蜂蜜色の双眸。
そこに映り込む自分。
もうこのまま俺以外の男を映さないで欲しい。
そんな馬鹿げた独占欲が滲み出るくらい、夢中で楽しかった。
大量の酒を呑んだように気持ち良い浮遊感が駆け巡って陶然とする。
この時ばかりは、エヴァンの殺意を帯びた露骨な視線は気にならないし、他の騎士たちからの妬みや嫉妬もどうでも良かった。
もはや広間のざわめきも、楽団の旋律も、残響にしか聞こえない。
鈴を転がしたような可愛い笑い声に、耳がなんだかくすぐったくて、ルシアンの胸を震わせる。
もっと彼女を知りたい。
あの婚約者よりもたくさん。
彼女を少しでも笑顔にしたい――。
――淑女としての嗜みも教養もあって、領主代行で領地運営のできる才女。
ついでに小柄で華奢な小動物系美女。
まさに彼女はお前の理想の嫁さんだ。
総帥の声がふいに蘇る。
確かに、このまま彼女を生涯の伴侶に迎えるのは全然やぶさかではない。
「そういえば、今宵は皇帝陛下の大好物の高級シャンパンが振る舞われるはずなんだ。いる?」
「いります!」
「年代物のワインもあったけど、どうする?」
「そんな話を聞いたらシャンパンがいいに決まってます」
「あはは、素直だな」
ルシアンはダンスをし終えた後、ローゼルと自分用でシャンパンを取りに行く。
問題はどうやって婚約破棄に追い込むか。
ルシアンは冷徹に頭を働かせる。
「ルシアン様」
アランがすっと駆け寄ってきた。
「どうした?」
「実はですね……」
アランは耳打ちをする。
「ほう」
ルシアンの眉が上がり、胸が高鳴って口元が緩む。
まさかのデブラント男爵令嬢から魔法騎士にレオーネ・ウルームから乱暴されたという訴えは、嬉しい誤算で棚からぼた餅だった。
その時、ふと閃いた。
そうだ、このまま婦女暴行罪で逮捕し、あらゆる容疑について自白させ、そしてローゼルとレオーネの婚約を破棄させよう。
婚約者の犯罪行為での婚約破棄。
ダメージは少ない。
彼女自身の評判がそこまで落ちることはない。
婚約破棄後すぐに、俺が結婚を申し込もう。
辺境伯子息との結婚で誰も彼女を蔑ろにしない、逆に箔をつけることになる。
総帥の口を開けて笑う声が聞こえてきそうだった。
――ガハハハッ、ようやく人間臭い感情が出てきたな。
なるほど。
結局のところ、俺も彼女に懸想する若い騎士たちと同じ思考のようだ。
自分の青臭さを自嘲する。
だが、その目論見は大きく外れた。
グロウディーナ公爵家からの圧力があり、翌日デブラント男爵家から訴えを取り下げられ、レオーネ・ウルームはすぐさま保釈された――。




