第138話 朝食前の再会と、次期辺境伯夫人の席
雨上がりの朝。
濡れた土の匂いが立ちのぼり、雲間から差す陽光が水たまりに反射した。
そんな朝、クレインバール邸には続々と関係者が集まっていた。
クレインバール邸の従者たちは、こういう急な会合には慣れているのか、特段焦ることなく、早朝からたくさんのパンを焼き、スープ、卵料理などを作っていく。
厨房から空腹を刺激する香りが漂う中、エレナ・ヴァービナスの声が玄関大広間に響いた。
「もうね、ローゼル。
すごく、すご~く心配したんだからね!」
エレナはローゼルの両手をぎゅっと握り締めた。
彼女の装いはいつも通り、黒いローブを目深に被っていた。
それでも、ローゼルにはエレナが今にも泣きそうな顔をしているのがすぐに分かった。
「ごめんね、エレナ。いろいろ心配かけて。
私も好きで攫われたわけじゃないからさ」
「分かってるよ。
でもね、とにかく本当に本当、無事でよかったよぉ」
あれよあれよと言う間に、エレナのアメジストの瞳から大粒の涙が溢れ出して、ローゼルはぎょっとした。
「もうエレナ、泣かないでよ」
「だってぇ、本当にね、気が気でなかったの」
「それだけ心配してくれたんだね、ありがとう」
ローゼルはハンカチを取り出して、エレナの涙を拭う。
その時、自分もつい貰い泣きしそうになった。
そんなやり取りに周囲がざわめいて、ローゼルとエレナに注目した。
「おいおい、イースティリア女官。
ヴァービナス女官をいじめるなよ」
第3魔法騎士団長トーマス・ケリークロノムがくすくす笑いながら声を掛けた。
「そんな! 私、いじめてませんって」
「すごかったんですよ、昨日のヴァービナス女官は。
居ても立っても居られなくて、イースティリア女官の無事だという連絡はまだ来ないのか、と昨晩何度も刑部省に顔を出していましたからね」
今度は第2魔法騎士団長のアラン・リックランスが小さく笑った。
「わたしだって捜索隊に加わりたかったんです。
だけど、ノーエランド卿が『雨も降っているし、暗いから駄目』って言うんで、やむなくおとなしくお留守番をしてたんです」
くすんとエレナは鼻を啜った。
「えー、俺のせい?
しゃあねぇだろう?
昼間っていうのに雨のせいでやたら外は暗いし、攫った犯人の目星もついていなかったし」
クロフォードが頬を掻いた。
「そうだけど……」
「エレナの代わりに小次郎が来てくれたじゃない。
立派な代行者だよ。
ね? 小次郎」
エレナの頭の上で尻尾を振る小次郎に、ローゼルは話し掛けた。
小次郎は「はーい」とでも言うように右前足を挙げた。
「今度小次郎にお礼しないとね。
クリモナの実が好きなんだっけ?」
ローゼルが問いかけると、小次郎の耳がピクピク動き、目を輝かせた。
「ふふ、分かりやすい。
うん、パトリシアに言って用意してもらうね」
「もう、ローゼルまで小次郎を甘やかして。
最近、本当この子、食べ過ぎなんだよ」
エレナが口をすぼめた。
「いや、今回、小次郎は本当に大活躍だったぞ。
イースティリア女官の捜索結果はまさに彼の功績だ」
第4魔法騎士団長ノーラン・ターラントがぼそっと口添えをした。
その通りだ、と言いたいのか、小次郎はエレナの肩のところに降りて、うんうんと何度も頷く。
その時、父がローゼルに声を掛けた。
「ローゼル」
「あっ、お父様」
ローゼルは、エレナに目配せをする。
「ちょうどよかった。
あの、ご紹介させてください。
私の仲良しの友人、エレナ・ヴァービナス嬢です」
アカデミーにも通っていなかったローゼルは、初めて親に友人を紹介することになるので、ちょっぴり照れくさくて、誇らしい気分になった。
父がエレナに会釈すると、エレナは慌ててフードを取り、カーテシーで挨拶をする。
「お初にお目にかかります、イースティリア伯爵。
ローゼル嬢の同期入省で、現在魔法省に勤めておりますエレナ・ヴァービナスです」
エレナの美しい所作と、ハッとするほどの容貌に視線が集まった。
おもしろいのが、小次郎もエレナの肩のところでちゃんと二本足で立ち、礼儀正しくお辞儀をしているのだ。
父はくすっと笑った。
「初めまして、ヴァービナス女官。
ローゼルからお噂は聞いております。
お会いできて光栄です。
それから、黒リスの小次郎くん」
父はにっこりと微笑んで、小次郎にも笑いかけた。
父にもちゃんと使い魔の小次郎が見えているようだ。
「みんな、おはよう」
その時、声がした。その声のする方へみんなが振り返る。
二階へ続く階段の踊り場にルシアンがいた。
「朝から集まってくれてありがとう。
朝食が用意できたそうだ。
さっそく食堂へ移動してくれ」
ルシアンが階段を降りながらそう言うと、みんなが一斉に一階の奥にある食堂へ移動し始める。
一気にくだけた雰囲気になった。
「エレナ、行こう」
「うん」
エレナはフードを被り直して、食堂へ向かう。
その途中、ギルベルト・マルコシアスが棒立ちになって、エレナを熱心に見つめているのに気がついた。
おやおや?
ローゼルはそっと彼にも声を掛けた。
「マルコシアス卿も行きましょう」
ギルベルトはハッとして、我に返る。
「えっ、ええ。そうですね」
コホンと咳払いをして、ギルベルトはローゼルたちの後ろについて歩き出した。
それでも彼の視線はエレナに注がれていて、エレナ自身もその視線に気づき、気まずそうにフードをさらに深く被った。
クロフォードが何気なくギルベルトの隣に並び、ぼそっと囁く。
「マルコシアス卿、彼女、婚約者がいますから。
そこんとこ、よろしく」
「え?」
一瞬、ギルベルトの足が止まった。
「残念。
彼の恋は一瞬で終わったね。
儚いなぁ」
追い越しざま、ローゼルだけに聞こえる声でクロフォードが呟いた。
ちらっとローゼルがクロフォードを見ると、彼の口元には意地悪な笑みが浮かんでいた。
次の瞬間には口笛を吹き、軽やかなステップを踏みながら通り過ぎて行った。
(あれはわざと牽制したな。
ノーエランド卿って、実はエレナのこと、すごく好きだよね)
ローゼルは小さく笑うと、エレナは不思議そうに首を捻った。
「なに、今の。
ノーエランド卿、何か言っていたの?
わたし、何も聞こえなかった」
「えっと、ううん。
なんでもないよ」
ローゼルは首を振った。
エレナが彼のことを憎からず想っていて、むしろ淡い恋心を抱いていることに、ローゼルは薄々勘付いていた。
なんとなく、エレナとクロフォードにはローゼルの知らない深い絆がある、そんな気がずっとしていた。
きっとこの二人は両想い。
でも、何らかの事情があって、婚姻はできない――
(だから、部外者の私が口に出したら駄目よね。
エレナの婚約者ランスの兼ね合いもあるしね)
「キキィ」
小次郎が目を輝かせて、エレナに話し掛けるように鳴いた。
「そうだね。
クレインバール邸の朝食のメニュー、何があるのかな。
ねえ、ローゼルが好きなスコーンとかもある?
ほら、ローゼルとわたしって食べ物の趣味が一緒でしょ」
エレナは期待に胸を膨らませ、小次郎も尻尾をぶんぶん振り回して、ローゼルの返事を待つ。
「うん。エレナの好きなものがあるはずだよ。
ルシ様ってね、いつも私の好きなものを用意してくれるんだ。
『朝、大好物を食べるとその日一日頑張れるだろ?』って」
ローゼルは、得意げに言うルシアンの顔を思い出して、ふふっと笑みが零れた。
「やだなぁ、もう惚気?」
「え、なにも惚気てないよ」
「今、いつも私の好きなものを用意してくれるって言っていたじゃない。
あぁ、羨ましい。
めちゃくちゃ愛されているんだね」
エレナがはしゃいだ声を出した。
「エレナに言われたくないなぁ。
エレナこそ最近、どうなの?
ランスとは」
ローゼルはずっと聞きたかったことをようやくエレナに訊けた。
「うん。順調だよ。
この前も珍しい魔術書を見つけたからって、そこの国の名産茶葉と一緒に贈ってくれたんだ」
ホクホクとした笑顔でエレナが言うので、ローゼルはほっとした。
「そっか、いいね」
(うまくやってるんだね)
ランス・マクィーン。
エレナの婚約者であり、ローゼルたちの同期だ。
現在外交官として異国で奮闘している。
入省当時から彼がエレナに激甘なのは同期として何度も目の当たりにしているし、それはエレナに片想いのレイノルドに地味にダメージを与えていた。
時折、ランスとレイノルドの間でバチバチと小さな火花が見え、最初はドギマギしていたけど、だんだんそれが同期の間で名物となっていった。
(ネイトとはよく「今日もやってるぜ、あいつら」、「熱々だね」なんて二人でこの三角関係を茶化していたっけ)
――俺がローゼルの夫になるっていうのはどうだ?
不意にネイトからの告白を思い出し、ローゼルの胸に鈍い痛みが走った。
途端に息が詰まって、声が出なくなった。
まさか、ネイトが心を密かに寄せていたのが自分だったなんて。
あれはまさに青天の霹靂だった。
(今度ネイトと会った時、どんな顔をすればいいんだろう)
前みたいに話してくれるかな。
それとも、無視されちゃうかな。
ネイトとの関係性は、すごく居心地が良くて――ずっとあのままでいたかった。
元に戻れるかな。
とはいえ、彼の気持ちを知ってしまったからには、すべてが元に戻れるとは思えない。
二度とあんな風に笑い合える日は来ないかもしれない。
そう思ったら、胸の奥がざわざわとして、落ち着かない気分になった。
「そうそう、ローゼル」
エレナがふと思い出したように口を開く。
「レイノルドとネイトがね」
「え?」
どきっとした。
「二人とも急遽出張で、しばらく王都を離れることになったらしいんだ」
「そ、そうなの?」
ローゼルは目を瞬いた。
「うん。リックランス卿が教えてくれた。昨日の朝に王都を発ったんだって」
「……じゃあ、しばらく会えないね」
ローゼルは複雑な気分になった。
しばらくネイトに会えないことをほっとしている意地悪な自分と、少し寂しいような気持ちが込み上げた。
「みんな、いろいろ忙しくなって会うのが難しくなるね」
ぽつりとローゼルが呟くと、エレナも「そうだね」と頷く。
「でもさ、それだけ大活躍し始めているってことなんだよね」
「うん。分かっているんだけど、ちょっぴり寂しいなと思っちゃった」
「まあね。入省した頃はみんなで毎晩飲み明かしたから余計そうだよね。
でも、それは仕方のないことだよ。
モレーノはもう結婚して二児のパパになるし、ローゼルだって……。
ね?」
「ん?
何が『ね』なの?」
ローゼルはきょとんとした。
「ほら、ローゼルとクレインバール卿の仲を見ているとさ」
エレナはそっと耳打ちをした。
「今朝もローゼルの魔力、クレインバール卿一色だよ」
ローゼルは顔がカッと赤くなった。
男女が睦み合うと魔力が混ざり合う――エレナはローゼル以上に魔力感知が鋭いせいか、婚姻前なのに一線を越えたローゼルとルシアンの仲にいち早く気づいている。
「もう、エレナのエッチ」
小さい声で言い返した。エレナは「ふふん」と勝ち誇った顔をする。
「いいじゃない、熱々で。
この調子でローゼルの病気も早く治るといいなぁ」
「そ、そうだね」
睦み合って魔力が混ざり合い、ルシアンから強い魔力を注がれて補うことで、治りにくい病が完治するケースがあるらしい。
ローゼルの病も然り。
最近体調がいいのも、治療が順調なのもルシアンがいてくれるから――
「このまま婚約破棄したら――
今もクレインバール卿はかなり抑えているだろうけど、もっともっともっと愛が溢れそうじゃない?
即おめでたとかも考えられるよ」
エレナはニヤニヤ笑って、ローゼルの顔を覗き込んだ。
「それはエレナも一緒だよぉ」
「そうかなぁ。
ランスの本帰国の目途は全然たっていないし、ローゼルの方がなにかと早そう」
「え、え……」
「楽しみだなぁ、ローゼルの花嫁姿」
「もう、まだ早いよ」
顔を赤らめて、手を振るローゼルは、ふと思い立って尋ねる。
「ねえ、その魔力が混ざるっていうのは、色で分かるものなの?」
「え、色……。
う〜ん、言われてみればそうかも」
エレナは、戸惑いながら答えた。
「やっぱり、エレナも魔力のイロが分かるんだね」
「まあね。
って、ローゼルは魔力感知する時、どう判別しているの?」
「えー、感覚かな。
なんとな〜くっていう感じ」
「ふうん」
ローゼルとエレナが食堂へ入ると、ルシアンはローゼルの肩をぽんと叩いた。
「ローゼはこっち。
俺の隣だ」
ルシアンが手を差し伸べた。
こっち。ルシアンの隣。それはここの家主のルシアンの奥方の席だ。
ローゼルは目を見開いた。
「じゃあね、ローゼル」
エレナはにこっと笑って、手招きするクロフォードの隣に座った。
「さぁ、ローゼ。
いや、次期辺境伯夫人になる俺の奥様」
おどけたような口調のルシアンに、ローゼルは胸が高鳴った。
すぐさま、その手を取ろうとした。
けれど、躊躇する。
(いいのかな、私たち、まだ婚約前だよ)
昨晩もちゃんと愛されたのに、いまだに不安が横切る。
「大丈夫、この面子は全員俺たちの仲を公認してくれているよ」
ローゼルの心配を見透かしたようにルシアンは柔らかく笑った。
ローゼルがそっと食堂を見廻すと、みんなの視線がやけに温かい。
(そうだよね、ここの人たちは昨日必死に私を探してくれた人たちだ)
父と目が合った。
父は優しく微笑んで、静かに頷いた。
ローゼルの口元から笑みが零れた。
「はい、ルシ様」
ローゼルはルシアンのその手を取って、彼の隣の席、次期辺境伯夫人の席に座った。




