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カァーム・ビュラクラト ―社畜女官ローゼルの婚約破棄奮闘録― 私は何も望まない  作者: 兎丸 蓮


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第137話 偽りの名と、仇の名

 夜も更け、窓の外は闇に沈む。

 遠くで風が吹き、再び、雨が降り始めた。


 ルシアンはローゼルと密な時間を過ごし、彼女が寝静まったのを見計らって、例の彼が待つ部屋に向かった。


 廊下を歩いていると、ルシアンの少し後ろをマルスクがいつの間にか控えるように歩いていた。


「どうだ、彼の様子は?」


 ルシアンは尋ねた。


「はい、すっかり心を許してくださっているようですよ」


「そうか。なによりだ」


 ルシアンがノックして部屋に入ると、彼はこちらで用意した寝間着の長衣に着替えていた。

 ルシアンもゆったりとした絹の白シャツにリネンのドローズというくだけた格好だ。


 だが、彼には寛いだ様子もなく、姿勢正しく立ってルシアンを出迎える。実に礼儀正しい男だ。


「待たせて悪かったね」


 磊落《らいらく》さを滲ませて、ルシアンは柔らかく微笑んでみせた。


「いえ、問題ありません。

 お待ちしておりました」


「どうだい? 

 少しは休めたかな?」


「はい。お陰様で」


「そうか、それは良かった。

 マルスク、ホットワインを」


 ルシアンがマルスクに言うと、彼は静かにお辞儀をして部屋を出た。


 大きなこの客室の窓辺には一人掛けソファが二脚ある。

 クレインバール辺境伯領でも、選りすぐりの家具職人が造った座り心地のいい最高級の椅子だ。


「さぁ、座って」


「はい、失礼します」


 ルシアンが座ると、彼――ギルベルト・マルコシアスも腰を下ろす。

 彼はどこまでも行儀が良く、姿勢をしゃんと伸ばしていた。


「では改めて。

 夜遅い時間帯に申し訳ないね。

 すぐに終わるから」


「いえ、とんでもございません。

 こちらこそ、帝国の軍師閣下とこうして差しで話ができるとは、光栄至極です」


「あはは、大袈裟だ。

 ワインの付け合わせは、こちらお勧めのもので構わないかな?」


 人当たりのいい笑顔で、ルシアンが尋ねた。


「はい、もちろんです。

 色々お心遣いいただき、感謝いたします」


 ギルベルトは姿勢を崩すこともなく、硬い表情で頭を下げた。


「堅いなぁ、そんな気にするな。

 こちらとしては、ローゼを救ってもらったお礼も兼ねてなんだ」


「そんな。

 ――洞窟で伺った時は驚きましたが、すっかり恋人同士なんですね」


 ギルベルトは、少し間を空けて驚いたような声を上げた。

 その目には探るような気配が見えてルシアンは小さく肩をすくめた。


「さっきも言ったけど、まだ内密で頼むよ」


 ルシアンは悪戯っ子のような目つきで、そっと唇に人差し指を当てる。


「一応彼女には婚約者がいるんだ。だが、浮名を数々流すような男でね。

 騎士の俺たちから見たら男の風上にもおけないような野郎なんだ。

 イースティリア伯爵から婚約破棄を迫っているんだが、肝心の相手側の父親が承諾しなくてね」


「そうなんですね。

 それは前途多難ですね。

 あっ、ありがとう」


 ギルベルトは小さくお礼を言う。

 マルスクがホットワインを差し出したからだ。


 マルスクは柔らかな笑みを浮かべ、二人の間にあるサイドテーブルにチーズとハムの盛り合わせが載った皿を提供した。


 他にも年代物のウィスキーのボトルとグラスを載せる。

 高級品のチョコレート、黒檀に銀細工を施した円筒形の葉巻入れもさりげなく添えた。


(へえ、若いのに、なかなか気が利く従者だ)


 ギルベルトは、若く見える従者マルスクに感心した。


 この従者は嫌な感じや圧迫感が全然ない。

 自然な仕草で給仕をする。

 それでいて、こちらの場が和むように主人が好むアイテムも用意してある。


 ルシアンが赤ワインの入ったグラスを持った。

 それに倣ってギルベルトもグラスを持つ。


「マルコシアス卿に敬意と感謝を込めて」


 ルシアンの言葉と同時に、カチンとグラスを交わす。

 硬質な音が響く。


 二人はワインを口に含む。


 芳醇な香りの中に熟した果実の甘み、嫌味にならない渋み。

 重厚な味わいの余韻が長く続く。


「これはなかなかいいワインですね」


 ギルベルトはランタンの灯りを受けて宝石のように赤く輝く液体を眺めた。


「この国でも有数なワインの産地、南部のヴァービナス侯爵領のものだよ。

 お気に召していただいたようでよかった」


 ルシアンは悠然として笑みを浮かべ、椅子にもたれかかる。


「そうそう、明日の朝食会には、魔法騎士団の精鋭団長たち数名も追加で招集をかけておいたから。

 よろしく頼むね」


「もちろんです」


「先日の事前レクチャー会でマルコシアス卿も会った面々ばかりだ」


「そうですか。またお会いできるんですね」


 ギルベルトは爽やかに笑って、ワインを口に含んだ。

 濃厚で雄弁な沈黙が流れた。


「――それにしても、まさかマルコシアス卿があそこにいるとは思わなかったね」


 ゆっくりとした口調でルシアンはワイングラスを揺らす。


「あの地は『魔力漂う地』として魔素だまりが多く、魔物も多い。

 今回葬式があった教会を境に、森へは踏み入れないよう住民たちにも注意を促していた土地だったんだ。

 それを知っててあそこに?」


「いえ、それは存じ上げませんでした。

 もともと俺は傭兵の仕事がない時は、冒険者ギルドに登録して日銭を稼いでおります。

 なので、本日もあの地で魔物討伐依頼があったため、ちょうど居合わせたと申しますか。

 そんな感じです」


「ほう、ギルドから討伐依頼が」


「はい。偶然とはいえ、イースティリア女官を助けることができて、本当によかったです」


 ギルベルトはにっこり笑った。


 ふいにルシアンは笑みを消して、ギルベルトの顔を見た。


 部屋の温度が急激に下がった気がした。


 ルシアンと目が合った瞬間、ギルベルトは、ぎくりとした。


 静かで圧迫感のある濃い魔力。

 迫りくる物々しい雰囲気。

 まっすぐギルベルトに照準を合わせている無表情な瞳。


 ギルベルトは背中がひんやりとして、唾をごくりと飲んだ。


 沈黙が降りた。


「マルコシアス卿。

 そんな討伐依頼、どこのギルドも出していないよ」


 冷ややかなルシアンの言葉に、ギルベルトはすぐにその意味が分からなかった。

 それから、ほんの一瞬、ギルベルトは狼狽した表情を浮かべてしまった。


 ルシアンの双眸の奥が鋭く光る。


「我が国では冒険者ギルドが冒険者に依頼を出す場合、内容に違法性がないか把握するために、依頼の写しを必ず刑部省に提出しなくてはならないんだよ」


「え?」


「例えば、魔物討伐。

 王城には魔物の生態を研究する専属の者たちがいてね、日々そういう依頼を拾って魔物の動向を分析してるんだ」


 ルシアンは静かにワインを飲んで、グラスをテーブルに置く。


「本日、あの地域は、第4魔法騎士団が巡回するよう命じていた。

 その際、冒険者と鉢合わせになるのも面倒だったから、あえて本日のみ、冒険者は立ち入らないようあの周辺ギルドに通達を出してあったんだよ。

 冒険者立入禁止だ、ってね」


 ギルベルトは、背中に冷や汗が走った。


 ルシアンはどかりと椅子に座り直し、足を組む。


 おもむろに葉巻を取り出し、指先から小さな火を出す。

 小さい火とはいえ、火属性魔法を無詠唱で発動させた。


 ギルベルトは息を呑んだ。


 魔法は詠唱しなくてはならない。


 祖国インリューラーク王国では、杖を使い、長い詠唱で発動するのが当たり前だ。

 今ルシアンがさり気なく発動させた無詠唱の魔法は、祖国の王国ではあり得ないことなのだ。


 ギルベルトは無意識のうちに腰回りに手を当て、剣を探す。

 だが、剣は部屋の奥、荷物とともにウォークインクローゼットの中にしまってある。


 まずい、俺はとんでもない男を目の前にしている。

 しかもこんな無防備な状態で――


 ルシアンは葉巻を深く吸った。

 紫煙が渦を巻いて天井に浮き上がる。

 そして、悠然とした表情で、青ざめるギルベルトを見る。


「その依頼の出所、是非とも教えてくれないか?」


 耐え切れないほどの威圧感。

 ギルベルトは逃れたいという恐怖に駆られた。


「お、俺はちゃんとギルドから依頼された案件で動いてますよ。

 そのギルドが軍部に提出し忘れただけではないでしょうか?」


 必死で言葉を紡ぐも、喉がカラカラに乾いていた。

 芳醇なワインの味はすでに消え失せている。


「なるほど、ギルドの提出忘れ。

 それもありえるね」


 ルシアンの表情が柔らかくなるが、ギルベルトは警戒を緩めなかった。

 そして、悔恨の念を抱く。


 イースティリア嬢に向けるこの男の熱い眼差しを見て、このアイルナバロー連合帝国の武装魔法使いの頂点に立つ男も、ただの男なのだとすっかり油断をしていた。


 だが、とんでもない勘違いだ。

 周辺諸国が恐れる冷酷無慈悲な総魔法騎士団長であり、知略に優れたバケモノ軍師。


 あの小柄な彼女だけが特別——


 青ざめるギルベルトは、ルシアンの次の言葉を待つ。

 ルシアンはにっこり笑った。


「そうそう、インリューラーク王国に問い合わせてみれば、ギルベルト・マルコシアスという男は、実在していないと連絡が来てね」


 ルシアンの低い声音が響いた。

 突然、ギルベルトに悪寒に似た感覚が走った。

 鋭いルシアンのナイフのような目。


 ばれた。


 それは一瞬だった。


 ギルベルトの背後に回った影が、首筋に鋭いナイフの刃を当てていた。

 従者マルスクだ。


 いつの間に!


 ギルベルトは心臓が止まりそうになった。

 この従者、気配がなかった。

 よくよく魔力感知を鋭くしてみれば、この彼は不思議な魔力を纏っている。


「精霊か……」


 小さくギルベルトが呟くと、ルシアンの口角がにっと吊り上がる。


「精霊の気配がすぐ分かるのか。

 やはり、只者ではないな」


 どこか面白がっている声だ。


 だが、ギルベルトの首筋にはぴったりと貼り付いて、冷たい刃が光っている。

 笑い事ではない。

 ルシアンの合図ひとつで、この精霊の彼は躊躇うことなくギルベルトの首を裂くだろう。


 額から冷や汗が落ち、ドクドクと不快な心拍数が耳の奥で跳ねる。


「さて」


 ルシアンは椅子の背に片手をかけ、もう片方に葉巻を持って、ギルベルトの表情をじっと見据えた。


 重い静寂。

 落ち着かない。


「ここで新たな情報を得たんだ。

 マルコシアスという姓について。インリューラーク王国の西側、そこに小さな国セリオナ領邦国がある。

 そのセリオナ領邦国によくある貴族姓がマルコシアスだ」


 ルシアンは表情を変えずに葉巻を一口吸う。


「それから、ギルベルトという名前。

 これは逆にセリオナ領邦国には珍しく、むしろインリューラーク王国によくある貴族令息の名前のひとつ。

 そこで浮上した説があってね。

 数年前にインリューラーク王国の第4王子の側近でもあった優秀な騎士が一人、忽然と姿を消したんだ」


 ギルベルトは驚きを押し隠し、じっと睨み返した。


「その彼の名前はギルベルト・グロウディーナ子爵。

 子爵位の騎士と言いつつ、王子の懐刀の諜報員だった」


 ルシアンは、ふうと口から煙を出す。


 しんと辺りが再び静まり返った。


 張り詰めた空気が流れ、葉巻の香りが部屋に満ちる。


「黙秘か」


 ゆっくりと立ち上る紫煙の向こう側で、ルシアンの瞳だけが静かに光っていた。 


「さっき、君の世話をした侍女たちがね、随分と恍惚とした表情で話してくれたよ。

 男爵位の令息とは思えぬ所作の美しさ、礼儀作法が備わっていて、あれは上流貴族の紳士に間違いない、と。

 ちなみに、うちの侍女たちはね、元クレインバール辺境伯領の私兵団員だ。

 そんな彼女たちの観察眼は並大抵じゃない」


 ギルベルトの表情は硬いままで、何も答えない。

 ルシアンは低い声でゆっくり話を進める。


「なんにせよ、インリューラーク王国の騎士団長から得た情報と、貴殿の風貌はそっくりだ。

 これでもそこの団長とは旧知の仲なんでね。

 彼にここへ呼び寄せても構わないよ」


 薄笑いを浮かべるルシアンの指の間に挟んだ葉巻の先端が、赤く小さく息を吐いている。


(絵空事だ。

 インリューラーク王国の騎士団長をここに呼ぶなんて)


 そう分かっているのに、この男なら本当に実現させそうで怖い。


 はあ、とギルベルトはため息をついて、肩をがっくり落し、両手を上げた。


「参りました、降参します」


 声にようやく感情らしきものが表れる。

 それでも、ルシアンの眼差しは険しいままだ。


「では、この国に来た目的は?」


「まず、この物騒なものをしまっていただけませんか?」


 ギルベルトはちらっと視線をマルスクに投げた。


「申し訳ないが、目的次第だ」


 ルシアンの声は揺るぎない。


(やれやれ、すべてを話さないと許してくれなさそうだ)


 それだけ、この男を見くびっていた自分が悪い——


 ギルベルトは今度こそ諦観の念を示した。


「……最初に申しましたとおり、妹の仇討ちですよ。

 祖国の同僚たちからは鼻で笑われましたけどね。

 もちろん、団長もです。

 そんなことで子爵位を捨てるのか、くだらない、と」


「らしいな」


 醒めた声で相槌を打つルシアンに、ギルベルトは苦笑した。

 どうやら、この男はそこまでちゃんと調べもついているようだ。


「この国は皇族以外一夫一妻ですよね。

 ご存知だと思いますが、王国の貴族は第三夫人まで認められ、どこの夫人も熾烈な争いが繰り広げられています。

 妹と俺は第二夫人の子でした」


「でした。過去形だな」


「はい。生みの母はそもそも第一夫人の側仕えの侍女だったんです。

 ですが、第一夫人が妊娠中に父がお手付きにして第二夫人にしたので、周囲から裏切者と罵られ、ひどい嫌がらせを受けました。

 それに耐えられなかったのか、俺たちが幼い頃に病死しています」


「だが、君は嫡男として育てられたと調査報告にはある」


「偽装ですよ」


「偽装?」


 ルシアンが聞き返した。


「ええ。正真正銘の嫡男は落馬して、あっけなく亡くなったらしいんです。

 頭の打ち所が悪かったとかでね」


「天下のグロウディーナ家としてはあまりにも情けない理由だな」


「そうなんです。

 それを隠すため、母方の祖父の手によって育てられていた兄妹のうち、急遽俺だけを呼び寄せ、その場を取り繕ったんです」


「なるほど。

 あの家門ならあり得る話だ」


「そうでしょ? 

 外聞と世間体を気にする家門です。

 それからずっと妹とは離れて暮らしていました。

 でも手紙のやり取りだけはしていました。

 ちなみに、マルコシアス男爵というのは母方の祖父の姓です。

 祖父はセリオナ領邦国出身」


「ギルベルトの名をそのままにしたのは?」


「亡き母が名付けた名なので……。

 どうです? 

 これで俺の正体の謎は解明されたはずですよ」


「いや、まだすべての質問に答えていない」


 ルシアンのギラギラした瞳がすぐ近くに迫った。


 ギルベルトは再び全身を強張らせた。

 背後の精霊の従者も、刃をまだ首にぴったりあてて、鞘に収める気配は一向にない。


 ルシアンの采配ひとつで首を掻き切る気だ。


 射るようなルシアンの目。

 有無を言わせぬ圧迫感が責め立てる。


 こめかみに汗が噴き出てきた。


「もう一度尋ねる。

 依頼の出所はどこだ?」


 ルシアンは身を乗り出し、前屈みになってさらにギルベルトの顔を覗き込んだ。


 首筋にチクっとした痛みが走った。

 びくっと身体が震えた。

 背後にいたマルスクの力も強くなったのだ。


 この人は本気だ。


「……イースティリア嬢と会った森にいたのは――頼まれたんです」


「誰に?」


 ギルベルトは間を置いて、口を開く。


「あなた方が嫌っているオークレー次官ですよ」


「ほう」


 ルシアンが興味深そうに身を乗り出す。


「なぜ、君のような男がオークレー次官の指示に従っているんだ?」


「オークレー次官はどういう筋で情報をつかんだのか、俺がグロウディーナ家の人間であり、またこの国のグロウディーナ公爵家と遠縁であることを知っていました。

 祖国から王族に仕える騎士でありながら、命令に従わず、正体を隠し、妹の仇を探している。

 騎士が忠誠を誓うはずの主君の意に背く。

 これは大罪です」


「ふうん。

 そこを逆手に取られたわけか」


「はい。祖国に知らせない代わりに自分の手となり足となり働け、と。

 その代わり、仇について情報を与えるという約束をしました」


「そういうことか。

 で、依頼内容は?」


 ルシアンは葉巻の白い灰を灰皿に丁寧に落とした。


「本日一人の女官が馬車に乗ってあの森にやって来る。

 その女官が森の奥にある屋敷まで無事に辿り着けるよう護衛をして欲しいというものでした。

 ただし、それ以降は女官がどうなろうと手出し無用。

 そういう内容です」


 ギルベルトは淡々と話し続ける。


「とはいえ、魔法騎士団が検問を始めたため、当初のルートから大きく外れて、いくら待っても来ませんでしたけどね」


「屋敷か……。

 ノーランたちが見つけた蔦に覆われた屋敷だな。

 魔物に食い散らかされた人間の血痕とそれに群がる魔虫が凄まじかったらしいが」


「ええ、その屋敷で間違いありません。

 俺も遠巻きで、アミラス教徒と魔物が格闘しているのを見ていましたから」


「では、なぜその屋敷に駆けつけた?」


「それは、ひどく人工的で魔物を引き付ける血の匂いがしたからでしょうね」


「人工的? どういう意味だ?」


「最近冒険者の間でも、魔力が一時的に増強するクスリが高値で取引されているという噂を耳にしたことがあったんです。

 ただし、それは魔物がひどく好む匂いだから、魔物討伐には不向き。

 闇賭博の武闘大会に出場するときだけに使える、というものです」


「ああ、闇賭博用の増強薬か。

 それなら俺も聞いたことがあるが、魔物を引きつけるのか。

 それは初耳だ」


「ええ。俺も実際どれだけのものなのか、この目で見たくて駆けつけたところはあります。

 そうしたら、屋敷には妹の仇のアミラス教徒たちがいたんです。

 しかも、口々に『生贄様が逃げてしまった』と言って慌てふためいていたので、興味を持ったんですよ。

 その『生贄様』に——」


「貴殿の妹が、奴らの供物として殺害されたからか?」


 ルシアンの瞳がすっと無表情になった。


「そのとおりです。

 生贄様も妹のように殺されてしまうのか否か。

 むしろ、助けなくてはならない。

 そんな衝動に駆られたんです」


「それがローゼを助けた理由か? 

 オークレー次官の指示に従うのであれば、彼女を見捨てるはずなのに」


「はい。純粋に彼女を見つけた時、びっくりしました。

 あんなに妹と同じような魔力を持ち、なおかつ、生きようと大蛇と必死で闘っていて……」


 ギルベルトはそこで言葉を詰まらせた。


 ルシアンが顎をしゃくり、ようやくマルスクに離れてもいいという合図を出した。


 首筋からナイフが離れ、マルスクもさっと壁の方へ待機するので、ギルベルトはほっと肩を撫でおろした。


 ルシアンがスッとギルベルトの前にハンカチを差し出した。


「使え」


「ありがとうございます」


 すごすごとギルベルトは受け取って、首筋に当てた。

 ハンカチには血がうっすらと滲んでいた。


「生贄様だからな。

 ローゼも奴らの手に落ちたら、最期は目的のため殺される。

 すでに、アミラス教関係者の女容疑者からそういった供述は得ている」


 鋭い眼差しで、ルシアンは呟いた。


「そうですか……。

 彼女には、なんとしても生き延びてもらいたいものです」


 冷ややかな沈黙。


「――アミラス教か。

 そいつらの中に貴殿の仇がいるのか」


 ウィスキーのボトルを開け、ルシアンは口に葉巻を咥えたまま、グラスにギルベルトの分を注いだ。


「はい。

 それは間違いありません」


 ギルベルトはルシアンからウィスキーのグラスを受け取り、くいっと飲んだ。

 じんわりと舌の上でほのかな甘みと鋭い刺激が広がり、喉に滑り落ちた。

 飲み下した後も、樽の香りとスモーキーな余韻が静かに残る。


「仇の名前、聞いてもいいか?」


 ルシアンの慎重な声が響いた。

 ギルベルトは、乾いた声で告げる。


「——アイルナバロー連合帝国の国賊でもあるキムバートン・アイヒヴァルトです」

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