第136話 湯けむりの嫉妬と、不純物と呼ばれた魔力
ローゼルの想像以上に、自分の誘拐事件は大ごとになっていた。
クレインバール邸では、父だけでなくイースティリア家の侍女のマーサやパトリシアまで押しかけていた。二人の侍女は、ローゼルの無事な姿をみるなり、涙を流して喜んでいた。
「あぁ、お嬢様、よくぞご無事で」
「すごく心配したんですよ!」
二人の侍女は、父より我先にとローゼルに抱き着いた。
遅れを取った父が気まずそうに、その様子を遠巻きで眺めている。
そんな父と目が合って、思わず、ぷっと同時に吹き出し、クスクス笑い合う。
「さあさあ、お前たち。
そろそろローゼルを解放してあげなさい。
というよりも私もローゼルを抱き締めたいんだが」
父がなかなか離れない二人に声を掛けた。
二人はハッとして「申し訳ございません」と、恥ずかしそうにローゼルから離れた。
「お父様、この度はお騒がせして申し訳ございませんでした」
ローゼルが深々と頭を下げると、父は首を振った。
「いいや、無事で本当によかったよ。おかえり」
「ただいま、お父様」
そっとローゼルの手を取った父は、そのままローゼルをしがみつくように強く抱き締めた。
父の香水の匂い。
「今回ばかりは、ついに心臓が止まるかと思ったよ。
でも、お前も急なことで驚き、怖かっただろう。
とにかく、五体満足、よく帰って来たね」
ふと、父は少し屈んでローゼルの目線に合わせた。
「はい。万事休すの展開ばかりでしたが、こうしてここに戻れて、本当良かったです」
「王城では、ローゼルの上官のジョージ・ライアナース卿と先輩のイーサン・モーデッリア卿、他にも葬式に参列した法務省の方々がずっと待機してくれていたんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。今頃、魔法騎士団からローゼルの無事を聞き、喜んでくれているはずだ。
出仕したら、ちゃんと感謝の言葉を忘れずに伝えるんだよ」
「はい」
「それと、それだけローゼルを大事に思ってくれている同僚、仲間がいることも忘れないように。ね?」
「はい、本当にありがたいことです」
ローゼルは胸が熱くなって、じんわり涙が浮かび上がった。
そんなローゼルの顔を見て、父は疲労の色が濃い中、安堵の笑みを浮かべた。
「お二人とも、ありがとうございました」
父はルシアン、それから、ギルベルト・マルコシアスを真っすぐ見据えた。
「ことに、マルコシアス卿にはローゼルを森の中で救っていただいたそうで。
感謝いたします。
改めてこのお礼をさせてください」
深々と父が頭を下げるので、ローゼルも倣って頭を下げた。
「とんでもないです。
危機的状況はお嬢様自身の力で乗り越えました。
俺はその後に現れた、せいぜい夕飯の一品になる程度の大蛇を仕留めただけです」
ギルベルトは恐縮したような面持ちで両手を振った。
「ぷっ、夕飯の一品……」
このやり取りを部屋の壁際で見守っていたマルスクが小さく吹き出した。
「あの、その一品、すごく美味しかったです。
温かくてほっとして、生き返りました」
ローゼルが勢い込んで口を挟むと、みんなが一瞬きょとんとなる。
次には、クスクスと笑って一気に場が和んだ。
「そうだね、ああいう場では温かい食事はなによりのご馳走だね」
父の表情が緩んだ。
「クレインバール卿。ローゼルの元気な姿も見れたので、我々はこれでお暇いたします。
待機させていただき、ありがとうございました」
父がそう言うと、パトリシアとマーサがお辞儀をした。
「いえいえ。もう夜も遅い。
今宵は侍女のお二人も泊まっていってください。
あと、明朝、朝食会議を行おうと思っております。
なに、会議と申しましても、メンバー的に雑談に近いものです。
今後のことも含め、是非とも伯爵にもご参加いただきたい」
「私もですか?」
「はい。伯爵のお耳に入れておきたいこともあるんですよ」
ルシアンが含みを持って言うと、一瞬、父は眉をひそめた。
だが、すぐに「承知しました」とにっこりと笑った。
「では、お言葉に甘えて、今宵は我々もお世話になります」
「ええ、是非」
そう言うと、ルシアンがマルスクに声を掛ける。
「マルスク。
皆様のお部屋の手配を」
それから、ケイトたち侍女を見た。
「ケイトはローゼルの身支度を整えて。
他の侍女たちはマルコシアス卿をおもてなししなさい」
ルシアンの一声でマルスクや侍女たちが動き出した。
*
夜も更け、屋敷は静けさに包まれていた――
温かいお風呂。
湯面から立ち上る泡が、シャボン玉となって淡く光りながら漂う。
クレインバール邸の浴槽は白大理石で作られ、かなり大きいサイズのものだ。
乳白色の湯面に花びらが広がる。
甘いフローラルな香りがローゼルの胸を満たす。
「はぁ……。気持ちいい」
ちゃぷんと水音が湯船に響く。
疲労困憊の体をお湯が包み込む。
あれだけ泥まみれだったのに、ケイトたち侍女がテキパキと汚れを落としてくれたから、あっという間に髪も肌もツルツルだ。
歩き疲れてパンパンにむくんだ脚も、ケイトのマッサージのお陰ですっきり解消した。
「幸せぇ……」
うとうとと眠気がローゼルを襲う。
生きてて良かったと思う一方、ぼんやりと「私、最近狙われすぎでは?」という自分の脇の甘さを反省する。
――奴らは年数をかけて君をじわじわと追い詰めている。
特に継母が君の父上のところに嫁いできた時点で何か罠が仕掛けてあるはずなんだ。
不意にギルベルトの台詞が蘇る。
ギルベルトの言うことが本当なら、幼少期から彼らの「生贄」になるようにあらかじめ仕組まれていたことになる。
そんな時期から罠を仕掛けられていたら、こちらは防ぎようがないし、こればかりは不可抗力だ。
父だって、まさかそんな大掛かりな罠だったなんて思ってもみなかったはずだ。
あの時は、母が亡くなって日も浅かったし、ましてや、彼らの生贄や供物を選ぶ基準が魔力の「イロ」だなんて、この国では誰も知らなかった。
魔力の「イロ」。
初めて聞いた話。
ルシアンの魔力のイロはとても深い群青色。
きっとキレイな色なんだろうなぁ……。
頭の中にルシアンの面差しがうっすらと思い浮かぶ。
じんわりと口元に笑みが零れた。
(ルシ様に会えて本当によかった。
あのままだったら、私、二度と彼に……)
睡魔が襲ってきて、だんだんと意識が遠のいていく。
「こら、ローゼ。
寝たら駄目だぞ」
ルシアンの声がすぐ近くで聞こえて、ローゼルはハッとした。
弾けるように顔を上げると、夢でも頭の中の想像でもなく、目の前に本物のルシアンがそこにいる。
しかも、腰にタオルを巻いた裸体の状態で、静かに浴槽に足を入れようとしているところだ。
「ルシ様!」
ローゼルは慌てて姿勢を立て直した。
それから、さっと周囲を見回した。
気づくとケイトたち侍女の姿はない。
一気に目が醒めた。
「いくら疲れていても風呂で寝たら溺死するぞ。
せっかく再会できたのに、風呂で溺死はさすがの俺も立ち直れないぞ」
ルシアンはブツブツ苦言を呈しながら、浴槽に入った。
お湯がざぶんと溢れ返る。
ゆったりと足を伸ばすルシアンは、ローゼルの対面に座った。
ルシアンとお風呂に一緒に入るのは初めてだ。
いくら湯が乳白色でも、浴室の灯りは寝室よりもほのかに明るい。
「なんだか恥ずかしい……」
ローゼルは小さく身を縮こまらせて、ちゃぷんと深く沈めた。
「どうして?
いつもお互いに裸で睦み合う仲なのに?」
ルシアンは小さく笑った。
「だって、場所が違うし、いつもより明るいから全部はっきりと見えちゃう」
ぶくぶくと湯面に口元まで浸かって、ローゼルは不服そうに呟いた。
「恥ずかしがり屋だな。
全部見えたっていいじゃないか」
「え、ダメダメ。
私、ルシ様ほど完璧な肉体美じゃないもの」
「肉体美って……。
俺はローゼのすべてを好ましいと思っているんだけどな」
そう言うとルシアンは手を伸ばして、ローゼルを背中から抱きかかえる体勢にする。
彼の分厚い胸板が背中に密着し、胸がきゅんと跳ねた。
「な? ローゼ。
今更だろ?」
ルシアンの吐息が首筋にかかって、ローゼルは体の芯がカッと熱くなるのを感じた。
そっと振り返って視線を交わす。
魔力の『イロ』。
ルシアンの瑠璃色の双眸と同じなのだろうか?
ふと気になった。
じっと見つめるローゼルの首筋に、ルシアンが噛みつくように吸い付いた。
「ひゃん!」
たちまち彼から教え込まれた官能的な快感の熱が急速に体を駆け巡った。
「ルシ様ぁ……。
もう、びっくりさせないでください」
ローゼルが半笑いを浮かべるも、ルシアンは真顔だった。
「びっくりしたのはこっちだ」
僅かな怒気を含んだルシアンに、ローゼルはびくっとした。
「えっと……誘拐されてごめんなさい」
すごすごとローゼルが謝った。
ルシアンはため息をついて、ゆるゆる首を振る。
「違う。他の男と……いくら服が濡れたとはいえ、下着同然で長時間一緒にいたなんて……」
悔恨を含んだルシアンの声が浴槽に響いた。
ローゼルは驚き、サーッと血の気が引いた。
「あ、あ、マルコシアス卿から聞いたんですか?」
「あっちから土下座して打ち明けて来たよ」
「ど、土下座!?」
ローゼルはルシアンの方に上半身を向けた。
「ああ、知らぬとはいえ、俺の大事な女と共に時間を過ごしたんだ。
さすがにあちらも焦ったようだ。
申し訳なかったってね」
ルシアンはちょっぴり怒ったような、不貞腐れた表情を浮かべて、湯面に浮かぶローゼルの髪を一房取った。
「まったく……。
俺以外の男にその柔肌を見せるなんて……」
手に取った髪に口づけをしたルシアンは、まるで子どもみたいに拗ねた顔をした。
まさか、まさか。
ローゼルは意外に思って、ルシアンの顔を覗き込んだ。
「え? ひょっとしてルシ様、嫉妬?」
ルシアンの片眉がぴくりと動く。
「ああ、そうだよ。
可愛いローゼのせいで俺は随分と心の狭い男になっちゃったようだ」
「嘘、嘘、ルシ様が嫉妬?」
「悪いか?」
ますます不機嫌そうに呟いて、ルシアンはぎゅっとローゼルを背後から強く抱きしめた。
いつも冷静な人なのに。
どうしよう。
すごく嬉しいかも――
「すまなかった」
躊躇いがちなルシアンの静かな声が響いた。
「え? 何がですか?」
「本当は、すぐにでも駆けつけたかったんだ。
だけど、昼間はどうしても抜け出せなかったんだ」
ひどく心苦しそうにルシアンは眉をひそめた。
「なんとなく、そうだと思いました。
洞窟で珍しくルシ様から煙草の匂いがしたから、きっと根詰めた打ち合わせだったのかな、って。
だって、男の人って、長時間の議論の時、よく煙草を吸いますもんね」
「まあな……。
うん、そのとおりだ」
「ルシ様にはルシ様のお仕事があります。
それでも、ちゃんと迎えに来てくれた。
それがすごく嬉しかったんですから、謝らないでください」
「だが……」
言い淀むルシアンに、ローゼルはその逞しい腕にそっと手を絡める。
「結果オーライです。
この通り、私は無事ですし、元気です。
これ以上何を望みますか?」
振り向いてにっこり笑うローゼルに、ルシアンの瞳が微かに揺れた。
しばらく沈黙が続く。
気の利いた言葉が出ないのか、ますますルシアンは苦悶の表情を浮かべた。
「ね? これ以上望むものなんて何もないでしょ?」
珍しくぐずぐずするルシアンを、ローゼルはたしなめるように見上げた。
「……そうだな」
ルシアンはローゼルの濡れた髪を優しくかき上げた。
「今はローゼの無事を喜ぼう」
「そうしましょう。
私もルシ様との再会を喜びます」
互いに微笑みあった。
ふと、ルシアンがローゼルの顎をつかんで素早く口を塞いだ。
「んぅ!?」
一瞬驚いたけれど、ローゼルは素直にそのキスに応じた。
舌を絡めながら、白い湯気が二人を包み込み、手を滑らせたルシアンはローゼルの身体のラインを撫でる。
「ん……っ、あっ」
びくっと身体が跳ねた。
ローゼルは甘い痺れが込み上げるのを感じ、すかさず押し返した。
「だ、だめです……」
「どうして?」
ルシアンはローゼルの背中にちゅっと口づけをした。
それだけでぞくっと快楽の疼きが走る。
「だ、だって、今宵は同じ屋根の下に父も、幼少期から育ててくれた乳母のような存在の侍女が二人もいるんですよ」
そんな中、ルシアンと一緒にお風呂で愛し合うなんて。
このままではどんどん深くなる官能的な悦楽に呑まれて、あられもない声が出てしまう。
「大丈夫、防音はしっかりできているよ」
ルシアンがローゼルの腰を掴んで自分の上に乗せた。
「でも……」
「俺にローゼの無事を確認させて。
ね? すごく心配したんだ」
そっと耳元で囁く甘える声音。
「ね?」がやけに色っぽくて、言葉に詰まる。
(その声は、ズルいよ)
一つ屋根の下に父がいる。
そんな罪悪感が湧いているのに、不埒な背徳感がゆらゆらと顔を出す。
ローゼルは、ルシアンに耳朶を甘噛みされて身を捩る。
「ローゼ」
ルシアンは一層強くローゼルを引き寄せ、掠れた声で何度も繰り返し名前を呼ぶ。
いつも以上に触れる手が熱く感じる。
肌に唇に触れられながら、ローゼルは甘美な刺激に身を委ねた。
浴室の灯りが揺れていた。
柔らかな光が湯気の中で揺らめき、肌を撫でるぬくもりと混ざり合う。
互いの輪郭が甘く溶けていく――
***
雨上がりの匂いが夜の帳の降りた廃墟と化した教会に漂う。
植物の蔦に覆われ、砕けたステンドグラスから冷たい風が吹き込む。
白い装束を着た男たちが、朽ち果てた礼拝堂へ吸い込まれるように入っていき、集会がしめやかに行われる。
「なに?
生贄様に逃げられた?」
中心に立つ男が忌々しげに声を上げた。
「はい、申し訳ございません。
魔物に襲撃され、生贄様の乗っていた馬車が暴走してしまいまして……」
御者を務めていた男がへこへこと頭を下げた。
「あの辺は『魔力漂う地』だと再三言ったはずだ」
「ええ、そうなんですが、あの程度の人間の血で寄って来るとは思わず……。
運悪く、森狼の群れと遭遇してしまったんですよ」
御者は言い訳がましく口上を述べる。
「愚か者がっ!」
男は声を荒げた。
びくっとその場にいる者たちが身体を震わせた。
「――俺は言いましたよね」
それまで黙っていた男が口を挟む。
真っ白な開襟シャツに灰色のズボン。
秀麗な風貌の、青い目。
一斉に全員が押し黙り、場がさらに凍り付いた。
異様なまでの緊張感が走った。
シャツの男は御者の方へゆっくり歩き出す。
「あの騎士の魔力はまがい物。
人の魔力を使って人為的に作り出した魔力だと。
あの魔力の匂いは特に魔物を惹きつけるから気をつけて、とも付け足しました」
シャツの男が歩くと、強張った表情のままの一同がざっと彼に道を開けた。
「騎士のなり損ないを処分するにしても、場所には気を配るものが常識です。
そういった配慮がないから、こっちがせっかくお膳立てをしたのに無駄になったりするんです。
頭を使ってください」
シャツの男は、開いた一本道をスタスタと歩き、御者の目の前に立つ。
彼の凄まじい迫力に、御者は震え上がった。
「も、申し訳ございません……」
「いいですか、生贄様はもはやあのルシアン・クレインバールに囲まれていて、我々ではなかなか手が出せない状況なのです。
こちらの狙いにもあの男は気付いている節がある。
何が何でも今日、ここに連れて来なくてはいけなかった」
シャツの男は御者を指差す。
「今後、彼女を確保しにくくなりました。
すべてはあなたに非がある」
御者の顔が青ざめた。
周囲の白いガウンを着た彼らも非難するような目つきで睨みつける。
「まあまあ。皆さん」
そこへ黒の装束を羽織った男が現れた。
「済んだことを責めてもしかたありません。
問題は次をどうするかです」
「そんな悠長な!」
「そうです、あの方が待っておられるんですよ」
次々と責め立てるような声が白い装束の人々から上がる。
「ですから、次の手段を講じることにいたしましょうって。
慌てない慌てない。
こういう時こそ、冷静に。
そして、行動は迅速に」
黒装束の男は、シャツの男に視線を投げた。
「今日彼女を見て私は気づきました。彼女の体内には余計な不純物が混ざり始めてます」
「不純物?」
「ええ、その問題視しているルシアン・クレインバールの魔力ですよ。
あれは我々が長年築き上げてきたものをすべて無に帰してしまう危険物だ。
生贄様を手中に収める前に、それを一掃する必要があります」
「ほう、一掃とは?
何か名案でもあるのか?」
白い装束を着た者たちが興味を持って、黒い装束の彼に注目する。
「ええ。生贄様には血を流していただきましょう。
それも大量に。
彼女の体内にある不要な魔力を浄化するしかありません」




