第130話 霧の街道と、生贄様
霧。
太陽の光はなく、空は重い雲で覆われている。
ローゼルを誘拐した馬車は、どんどん走り続けていた。
目の前に座る誘拐実行犯の小綺麗な貴族の青年に、ローゼルは、せめて名前だけでもと思って聞いてみたけど、あれ以来、何を言っても彼は無言を貫き通す。
今は、窓の外を不機嫌そうに眺め続けている。
気まずい沈黙。
ローゼルは渋々引き下がり、彼とは反対の窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
(あぁあ、ほんの小一時間前までは、法務省のメンバーと同僚の葬式に参列していたのが嘘みたいだよ……)
重い霧。
どんよりとした不気味な天気だ。
その薄暗い風景に、ぼうっと一筋の街道が浮かび上がって見える。
あれ?
前方に何者かの気配が漂っている。
影。
馬車の速度が徐々に落ちる。
「チッ、坊ちゃん。やべぇぞ。この先、検問がある」
御者の男の声が客車内に響いた。
「検問?」
彼は不審がってそっと窓から進行方向を覗き見た。
ローゼルももう一度目を凝らして見る。
分厚い霧の中に浮かび上がる幾つもの黒い影。
雨合羽を羽織った軍服の男たちだ。
(魔法騎士団だ!)
ローゼルは心の中で喝采を上げた。
彼らは街道を全面的に封鎖し、通行する馬車一台一台に声を掛けている。
「あれは魔法騎士団だ。
しかも第4の……。くそがっ」
彼は忌々しげに舌打ちをした。
「方向転換するぞ」
御者が言った。
「ああ、頼んだ。多少道が悪くても構わない。
今アイツらに見つかったら、あんな大勢の場で危険を冒して、この女を拉致した意味がなくなる」
ギロリと彼はローゼルを睨みつけた。
ローゼルは一瞬たじろぎ、ぎゅっと唇を噛みしめた。
(せっかく魔法騎士団が封鎖してくれたのにぃ……)
内心、地団駄を踏みながら、ローゼルは名残惜しい気持ちで、小さくなっていく影を窓から見送った。
馬車は方向を変え、深い緑の多い道へ突き進む。
踏み固められた灰色の土の細い道。
木々の合間を縫ったうねうねとした道を途切れずに走る。
ごとごとと揺れる馬車の車輪のせいか、ローゼルの不安はどんどんと膨張していく。
「ヤバいな、魔法騎士団の動きが想定よりも速すぎる」
相当イライラしているのか、彼は貧乏ゆすりをし始め、親指の爪を噛んだ。
やがて再び空から雨粒が落ち始め、窓にぱちぱちとぶつかる音が響き渡った。
外の暗さに比例してさらに薄暗くなっていくこの空間に、ますます息苦しさをローゼルは覚えた。
景色は、空をも覆い尽くすような鬱蒼とした森の中へと変わった。
(この辺って、確か「魔力漂う地」が近い森だった気がするけど……)
ローゼルは周辺の地図を思い出し、頭の中に描いた。
「魔力漂う地」は魔素が漂う魔物の発祥の地だ。魔物がいつ出没してもおかしくない。
ローゼルは、腕を組んで不機嫌そうに窓の外を見続ける彼を盗み見た。
腰には剣が携えてある。
魔物がもし出たら自分が闘うつもりなのかしら。
ふいにネイトとの以前の会話がぼんやりと蘇った。
――軍部ってどちらかといえば実力主義。
出自を問わない姿勢なんだけど、あの人が来てからちょっと変わったんだよ。
魔法騎士団の中でも底辺だった伯爵位や侯爵位の息子を一気に自分の側近として昇格させたんだよ。
(魔法騎士団の中で底辺って……。
実力が低いってことだよね。大丈夫かな?)
誘拐されたことでも不安なのに、さらに違う不安が掠める。
魔法騎士団に入団できるくらいなのだから、レオーネよりは剣術の腕は上なのだろう。
けど、遭遇した魔物が強力なものだったり、集団で襲ってくるような種族だったら?
ちゃんと闘える?
そもそも、目の前の彼からは魔力をまったく感じない。
いくらヴォイドクリスタルでできた馬車でももう少し魔力を感じるはず――
そういえば、彼、さっき、変なことを言っていた。
――魔力増強のエネルギー薬を注入
気になってはみたものの、その薬のことも聞けずじまいだった。
たぶん、違法薬物でもこの前、取調室で見せてもらったクスリとは違う別のものだろう。
(つまり、それを使って魔力が多いように装ってるってことよね?)
その時、馬車の速度が遅くなった。
ローゼルが不審に思って外を見ると、遠くに植物の蔦に覆われた小さな屋敷が見えた。
「ここ……」
「ようやく到着か」
彼は不遜に笑う。
「これであんたとも、この国ともお別れだ」
冷ややかに見下ろす彼に、ローゼルは平静を装って睨みつける。
だけど、一瞬にして恐怖に飲み込まれるのを感じた。
(いよいよ私を狙う人たちに引き渡されるのね……)
早鐘を打ち、呼吸がしづらくなる。
近づくにつれ、思いのほか古めかしい建物だと分かった。
整然と並んだ窓から漏れる明かりが、まるで獣が歯を剥き出して笑っているような錯覚に陥る。
まるで生きているような家だ。
一種グロテスクな嘲笑。
どうしよう、どうするべき?
なんとか逃げないといけないと。
けど、あっちは何人で来ているの?
どんな相手?
私の攻撃魔法で太刀打ちできる?
ローゼルは、焦燥感だけが駆け巡っていた。
こういうときこそ、冷静に考えないといけない、少しでも落ち着かないといけない、そう思うのに全然落ち着かない。
拳を握ろうにも指先が小刻みに震えた。
馬車が停車した。
外から馬のブルルと鳴く声が聞こえた。
御者が動き出して、地面に降り立つ。
外側からカチッという音がした。
客車の鍵を開錠したようだ。
「いいか、お前はここにいろよ」
ローゼルを指差して、彼は意気揚々と立ち上がった。
彼は客車の扉を開けた。
森の湿った土の匂い。ひんやりとした外の空気が入って来た。
質量を伴いまとわりついてくる湿気。
ローゼルはそっと外を覗き込もうとした。
その瞬間、一筋の鋭い影が走った。
彼の首が飛んだ。
文字通り、彼の頭部だけが宙を舞う。
え?
客車の入り口周辺が返り血に染まる。
首の上がなくなった胴体はそのまま横に倒れ、地面にどさっと音をたてて落ちた。
少し遅れて、宙に一瞬舞った頭部が球技で使う球のように無造作に地面に転がった。
辺り一帯鮮血に染まった。
ローゼルは息を呑んだ。
一体何が起きたの?
ただ分かるのはさっきまで一緒に馬車に乗っていた彼が殺されたということ——。
恐ろしいことが目の前で起きている。
その彼の前に立っていた髭もじゃの馬車の御者は、倒れ込んだ彼の遺体に目もくれず、不気味に口を吊り上げるようにして笑う。
灰色の目がこっちを見ている。
「生贄様にとんだご無礼を」
男がローゼルにそう呼びかけた。
びくっと身体が震えた。
「偉い貴族の息子だかなんだか知りませんが、どうも礼儀がなっておりませんで。同じ空間はいささか不愉快でしょうがなかったでしょ?」
へこへこと男は頭を下げる。
「名前も名乗ることなく、居丈高にねぇ。
まったくこれだから……」
御者の語尾がゴニョニョ小さくなって、異国の言葉でブツブツ文句を言っている。
どうやら御者の男は馬車の中での会話を一部始終聞いていたようだ。
不気味な男だ。
謙虚な態度だけれど、どこか横柄で不遜な雰囲気が漂う。
ローゼルはそんな御者に釈然としないアンバランスさを感じて、さらに恐怖を覚えた。
ふと、無造作に地面に転がる、ついさっきまで生きていた彼の身体と、繋がっていない首に思わず目が釘付けになった。
血が滲み、周辺が赤黒く染まる。
死の静寂。
さっきまであんなに生意気に喋っていた元騎士の青年。
なんでこんな惨いことをするのか御者に聞いてみたいのに、声が喉に貼り付いて出てこない。
息を吸い込もうにも血の鉄臭い匂いがむっと漂い、吐き気を誘う。
屋敷の扉が開いた。
中からたくさんの気配を感じた。
雨にも関わらず、続々と頭から白いガウンを羽織った人たちが現れた。
(あっ、あのガウン!)
ローゼルは思わず身構えた。
忘れもしない。
ローゼルが強姦魔に襲われた翌日、気分を晴らすために王都へ買い物に出かけたあの時、ずっと尾けてきた男たち二人がいた。
その彼らも全く同じ紋章の刺繍を袖口につけた白いガウンを羽織っていたのだ。
なんで、ここにもその白いガウンの人たちがいるの?
しかも数人ではない、ぞろぞろと出てくる。
軽く見積もっても三十人近くいる。
白い集団の男たちは、御者の背後から馬車の中のローゼルを一目見ようとしているのか、右往左往して、じろじろ無遠慮にこちらを見てきた。
無理矢理押しのけて、覗き込もうとする者もいる。
「生贄様」
彼らがそう口にする。
ぎくりとした。
生贄様。
そういえば、御者の男もそう言った。
生贄様。
その単語がぐるぐると頭の中で響いている。
どういう意味なんだろう。
ただ、「生贄」というからには、文字通り私は彼らの何かの犠牲にされるのだろう。
純然たる恐怖が襲う。
ぽたりぽたり。
彼の血が天井にまで飛び散っていたようだ。扉の縁に滞っていた血が地面に落ち始めた。
床にはちょっとした血だまりができて、笑みを浮かべたままの御者の顔を映し出す。
「あぁ、生贄様。
すぐにここをお掃除しましょう」
わざとらしく御者は、さらに口角を吊り上げてニタリと笑う。
その笑みに、ローゼルは悪寒のようなものが全身を走り抜けた。
「お手数ですが、そちらに座って少々お待ちください」
御者は、丁寧にローゼルに手を差し出して、座るように促した。
青ざめた顔でローゼルは、御者から目を離さないようにして、一番奥の座席に静かに腰掛けた。
なんとなく、彼から目を離したら後ろから、さっきの首を切られた彼のように襲われるのではないか、そんな気がしてならなかった。
殺人鬼。
不意にそんな言葉が脳裏を掠め、ローゼルは寒気を覚えた。
白装束の人たちもどこか異様だった。
体格から彼らが男だとなんとなく感じたのだが、ガウンのせいで、のっぺりと影になっていて風貌はおろか、どんな身分でどこの国の人なのか全然分からない。
浮世離れした奇妙な熱気と、不穏な雰囲気。
この人たちが私を――
そのうち、大柄な白いガウンの一人が、仲間たちに顎をしゃくって、何やら指示をしていた。
それから、御者に小声で苦言を漏らす。
「おい、殺すタイミングが早すぎだ。
せめて馬車から降りてからにしろ。
せっかくの生贄様が穢れた血で汚れてしまうぞ」
「問題ない。
生贄様にはかの地の泉で禊を行ってもらえばいいからな。
想像以上にお美しい生贄だ。
あの方もさぞかし喜ばれるだろう」
御者は満足気に笑って答えた。
まただ。
生贄様。
それに、あの方。
誰のことを言っているの?
「そうだな。
確かにあの方のおっしゃるとおり、美しいイロの魔力を帯びている生贄様だ」
白いガウンの男の一人がローゼルを見上げた。
そのうち、まじまじと興奮滲む眼差しでローゼルを見ていた人たちも拝むように両手を合わせ始めた。
「素晴らしい」
「あの御方の新しい器を生み、そして血肉となるすべての源だ」
「まさに待ち望んだ器であるぞ」
どこまでも昏く、果てしない虚無を抱えているのに、熱病患者のように爛々《らんらん》とする目。
あまりのおぞましさに、首の後ろに鳥肌が立った。
「ようやく我らの主の元へ連れて行けるんだ」
徐々に彼らの声が高くなってきた。
喉がやけにカラカラだ。
ローゼルは叫びだしたいような心地で、自分の両腕を撫でた。
一体、私はどこへ連れて行かれようとしているの?
***
陰鬱な雨。
昼間だというのに、闇夜のように鬱蒼としたこの森が、灰色になって地面に深く沈んで見える。
インクが混ざってしまったように、雨足が強まるほど暗さを増し、すべてのものの色が濃く濁っていく。
そこを黒い影が動く。
その時、影がぴくりと反応した。
気配がする。
血の匂いだ。
どこかで人が死んだ。
まずい、このままではアイツらが現れ、すべてを妨害されてしまう。
雨に打たれながら、男は走った。
影は暗い森の奥へ、さらに深く沈んでいった——。




