第124話 隠しきれない焦燥と、不意打ちの熱
「ローゼは?」
ルシアンは夜遅くに屋敷に帰宅するなり、玄関広間で出迎えた侍女のケイトに尋ねた。
「はい、先程まで旦那様のお帰りを一緒に待っていたんですが、お疲れのご様子でしたので、寝室に向かわれました」
雨でしっとり湿度を含んだルシアンの外套を受け取りながら、ケイトは答えた。
「そうか。
今日は朝からいろいろ盛りだくさんだったからな」
ルシアンは寝室に視線を投げた。
ミレイユ・カーネルの逮捕協力に、問題騎士たちの聴取。それから……。
――俺は、ローゼルがもう他の男のものになるのが嫌なんだ
ふいに昼間目撃したネイトの告白が脳裏を横切る。
なんて率直で若さ溢れんばかりの台詞なのだろうか。
あの危なっかしい若い熱量。
曇りのない眩しさ。
ルシアンの胸の奥に、ざらりとした感情が広がった。
(俺はあの時、息が止まりそうだった)
雨が降る回廊で、ローゼルとネイトが真剣に話をしていて、やがてネイトがローゼルの手を取る。
まるで恋物語の挿絵から切り抜いたような絵になる男女。
ネイト・ファーヴァ書記官は、入省前から容姿端麗な令息として有名であり、妙齢の令嬢たちの間でも人気だ。
彼の生家の爵位がもう少し高ければ、女たちの熾烈な争いの格好の的であっただろう。
逆にローゼルは悪評があっても、あの可憐な容貌は人目を惹く。
本人が自分の容姿に無頓着だからこそ、計算された胡散臭さや虚構じみた可愛さがなくて、より魅力的に映るのだ。
一時期、年齢も近い彼らが「恋仲なのでは」と噂になっていた時があったらしい。
それくらい周囲も認めるほど、親密なふたり。
悔しいが二人はお似合いだ――
湿った風が身体の中を吹き抜け、雨の匂いが満ちた。
ルシアンは読唇術ができる。
多少距離があっても、ネイトの唇が紡ぐ言葉は、すぐ読み解けた。
もちろん、ローゼルの唇も、読もうと思えば読めた。
だけど、怖くてそれができなかった。
ローゼルが俺を裏切るわけがない。
分かっているのに、急に胸の奥がざわついて、居てもたってもいられなかった。
じわじわと冷や汗が滲んできた。
このままでは、俺は疑心暗鬼に駆られておかしくなってしまいそうだ。
――アラン、決めたぞ。
彼をレイノルドの相棒にしよう。
気づいたらそう口に出していた。
まさにあの場で思いついた人選だった。
アランは驚いたような表情を浮かべるが、すぐに姿勢を正した。
——いい案ですね。まさに彼ならうってつけです。
イースティリア女官にあそこまで肩入れしている彼であれば、彼女を救う任務を固辞するとは思えません。
それに、書記官ですけど、彼の剣の腕前は騎士に匹敵します。
ルシアンの隣で、アランはすぐに賛同した。
アランはあの時、同じ男としてどう思っただろうか。
その時、急にざあっという強い風が吹き抜け、雨が横殴りになった。
雲はすごい速さで流れていく。
インクを流したような渦が空をますます暗く覆い、みるみる形を変えていった。
ルシアンはすぐさま彼らのもとにつかつかと歩いていく。その後ろにアランが付き添う。
ローゼルの華奢な肩が徐々に近づく。
いち早く二人に気づいたネイトの顔に、驚愕の表情が浮かんだ。
恐怖。
驚き。
後ろめたい者たちが必ず醸し出す闘争本能に似た身構え方。
ネイトからの突然の告白。その余韻が残っていたせいか、ローゼルも気まずそうにしていた。
必死に取り繕う笑顔がとても痛々しくて、一瞬腹立たしいとさえ思ってしまった。
ますます嫉妬心が湧き起こって、目の前が赤く染まる。
自分で制御できないほどの独占欲にまみれる。
ローゼルをどこにもいかせない。
このまま女官なんて辞めさせて、屋敷に幽閉し、俺の腕の中だけで、俺がいなくては生きていけないようにしたい。
そんな身勝手な庇護欲と、歪んだ欲望が交錯する。
いや、駄目だ。
そんなことをしたらローゼルが怖がってしまうし、閉じ込めてしまったらせっかくのローゼルの良さを殺してしまうだろう。
歪んだ欲望に蓋をする。
それでも、優越感を滲ませ、ネイト・ファーヴァに見せつけるように如才なくローゼルとの他愛ない会話を楽しみ、とにかく彼を牽制する自分がいた。
ああ、今思えばなんと幼く、情けなく狭量な自分だったのか。
ルシアンはすっかり身綺麗になって、遅い夜食を取り、そっと部屋に入った。
「おかえりなさい。ルシ様」
ルシアンはハッとした。
ローゼルはもう眠っている。
そう思っていたけど、まだ寝室は明るかった。
寝椅子に座っていたローゼルは、さっきまで読んでいただろう分厚い魔術書をぱたんと閉じて、テーブルに置くと、立ち上がってルシアンのもとに駆け寄った。
「遅くまで、お疲れ様でした」
「ただいま、ローゼ」
ルシアンはにっこり微笑む。
その一方で、ローゼルのボディラインがくっきり出て妙に艶めかしい薄いシルクの寝衣姿に、どきりと胸が高鳴った。
「まだ起きていたんだな。
すまなかった、いろいろあって遅くなった」
ルシアンは、側に来たローゼルを抱き締め、その頭にちゅっと音を立てて口づけをした。
すっかりツヤツヤになった栗色の髪からは、花の石鹸のいい匂いがする。
「いいえ。私が待っていたかったんです。
それに、王城の回廊で約束しましたよね?
『どれだけお帰りが遅くても起きて待ってますね』って。
忘れちゃいましたか?」
ローゼルはルシアンを見上げた。
はにかんだような、ふにゃりとした笑顔。
「そうだったな」
堪らなくなって、ルシアンは抱き上げた。
自分よりも一回り以上も小柄な彼女の身体は軽い。
「うわぁ」
ローゼルは慌ててルシアンの肩にしがみついた。
「ありがとう。
待っててくれて」
ルシアンは小さく笑って、その顔を覗き込んだ。
「いいえ。私がどうしてもお話したかったんです。
そうしたら、ルシ様ったらお昼、『積極的な夜のお誘いだな』っていうんですもの。
もうびっくりしちゃいましたよ」
ローゼルは顔を真っ赤にして、口を尖らせた。
「夜のお誘いに間違いないだろ?
なんだ?
ローゼはあの昼間から俺と睦み合う想像でもしていたのか?
やらしいなぁ」
「なっ……!」
ますます熟れた林檎のように赤面をしたローゼルにルシアンはクスクス笑った。
こういういまだに初心な彼女の反応は、たまらなく愛おしい。
ローゼルはむすっとして、しばらく押し黙った。
「悪い、からかいすぎた。
機嫌を直してくれ」
首を傾げて、もう一度ローゼルの顔を覗き込んだ。
目が合うと、ローゼルは両腕を伸ばしてルシアンの頬に触れる。
スベスベした温かな感触。
「仕方ありませんね。
特別に許してあげます」
怒り口調なのに、その目には愛情が溢れていて、ルシアンはやけに満ち足りた気分になった。
「あの、ルシ様」
不意にローゼルが思い詰めた眼差しで、ルシアンを見た。
「ん? どうした?」
「好きです」
「うん。
俺も好きだよ」
なぜ急にこんな愛の告白をしてくるのか。
そう疑問に思う一方、ルシアンは満面の笑みで即答した。
だが、どこかローゼルは不服そうにして、ぐいっとルシアンの顔を引き寄せた。
それから、そっと唇を重ねた。
意表を突くようなローゼルからのキス。
甘くて柔らかな感触。心地良い。
ルシアンは目を瞬いた。
なにせ、初心なローゼルから、口づけをしてくるなんてかなり貴重なことだ。
「あの……、私とのキス、気持ちいいですか?」
おずおずと唇を離したローゼルが、恥ずかしそうに尋ねた。
ルシアンは面食らった。
気持ちいいか。ローゼルから飛び出したとは思えないほど、積極的な質問だ。
「ああ、もちろんだ。
なんだ?
やっぱり、夜のお誘いか?」
ニヤニヤしながらルシアンが言うと、ローゼルは急に黙り込んで視線を逸らした。
深刻そうに眉をひそめた。
あれ? なんだか様子がおかしい。
やがて、何かを思いつめたようにローゼルは、熱に浮かされたような眼差しをルシアンに向けた。
潤んだ蜂蜜色の双眸。
吸い込まれそうな感覚に陥る。
「もう娼婦館に行かないでください」
「ん!?」
ルシアンはぎょっとした。
「聞いたんです、ルシ様の魔力過多の話。
女性と交わるとルシ様の体調が落ち着くから、娼婦館に通っていたって……」
「えぇ?」
そういえば、マルスクが取調室の内容をこっそり教えてくれていたことを思い出す。
(あぁ、しまったぁ……。
ネイト・ファーヴァ書記官がローゼルに愛の告白をするところを目撃したせいで、すっかり気が動転して忘れていた)
娼婦館に通う理由をトーマスとノーランがローゼルに伝えているとはいえ、通っていたのは事実だ。
こういう水商売に関しては、同性の女性の方が、殊に貴族令嬢は嫌悪する人が多いと聞く。
ルシアンが黙ったままでいることに、ローゼルは不安が募ったのか、ますます切羽詰まったような顔つきになる。
「その、私は確かにそっち方面にすごく疎いし、初心者です……。
手練手管っていうんですか。
殿方を悦ばせる技を持っていません……」
殿方を悦ばせる、という言葉を口に出した瞬間、ローゼルの顔が羞恥の色に染まった。
「ルシ様にご満足いただけるように勉強するし、練習するから――。
だから、行かないで」
ローゼルの縋るような心許ない眼差し。
ルシアンは息を呑んだ。
「でもね、考えようによっては、私たち、最高の組み合わせなんですよ。
ルシ様の膨大な魔力を受けることは全然やぶさかでないですし、むしろ、魔力を失いつつある持病を持つ私はルシ様にとって、格好の受け皿だと思うんです」
ローゼルの声には、どこか憂えた含みがあった。
「受け皿?
……ちょ、ちょっと待ってくれ」
ルシアンは、慌ててローゼルを抱きかかえたままベッドに座らせた。
「あのな、ローゼ。
勘違いしないでくれ」
ルシアンはローゼルの視線に合わせるように、ベッド下に敷いてある絨毯の上に膝をついた。
「俺はローゼを俺の体調を整えるための魔力の受け皿とも思っていないし、それこそ娼婦代わりだなんて断じて思っていない」
「でも……」
不安そうにするローゼルの顔を見つめ、ルシアンはその前髪を上げた。
それから、ローゼルの小さな手を取り、優しく握る。
「本当は、大事にして、大切にして、ローゼと正式に婚約してから関係を深めるのが理想だったと思う。
でも、俺はローゼが他の男に持っていかれるのが、すごく嫌だったんだ。
なにより、ローゼの初めてを奪われたくなくて、不甲斐なく、理性が欲望に負けてしまった」
噛んで含めるように話すルシアンに、ローゼルはどこか納得していないような顔をした。
(おいおい、なんだ、その言い分は。
これじゃあ、単なる欲求不満で、ローゼルを抱いたことになるじゃないか)
ルシアンは自分の説明下手に内心舌打ちをした。
ふだん、仕事ならどれだけでも腹黒い狸や狐たちをこの二枚舌で黙らせることができるのに、どうしてだ?
ローゼルに自分の心の内を説明できない。
歯がゆい自分に苛立つ。
「ルシ様の魔力過多と私の病気、相性が良かったからじゃなくて?」
ローゼルは恐る恐る尋ねた。
「確かに、ローゼの病と俺の魔力過多体質の治療に、睦み合いが有効的なのは事前に知っていた。
だけど、断じて、それ目的じゃないから」
そう言うものの、うまく言葉が出てこない。
どうすれば伝わる?
ルシアンはじれったい思いを抱きながら、苦虫を噛み潰したような顔つきになった。
いつか、自分から話さなくてはいけない。それは分かっていた。
娼婦館に通っていたのは事実だし、自分が発散しないと魔力暴走を引き起こす厄介な身体だと――
わずかに沈黙が流れた。
「じゃあ、もう通わない?」
ローゼルがそっとルシアンの顔を垣間見た。
「もちろん」
「でも、お仕事で顔を出したりするんでしょ?」
「大丈夫。
俺が行かなくてもいいように、ちゃんと後任者を手配してある」
「無理してない?」
ローゼルはルシアンを覗き込んだ。
「無理していない」
「我慢も?」
「我慢?
そもそも、あそこに足を運ぶ目的は情報収集だ。体調管理はそのついで。
いまの俺にはローゼがいる。
ローゼがいるのにあそこに足を運ぶわけがないだろ」
ルシアンは、ローゼルの頬に右手を添えた。
わずかに冷えたローゼルの頬。
どう反応していいか困るローゼルと視線が絡み合う。
「ローゼ。
俺はね、今すごく幸せなんだ。ローゼがこうして一緒に過ごしてくれて、時には睦み合ったりして、ローゼは俺の身体を――魔力過多なのを理解しようとしてくれて本当に嬉しい。
いつか俺から話さないといけない、そう思っていたのに――
すまなかった。
驚いたよな」
「はい。ショックでした」
ローゼルは口をすぼめた。
「でも、私、それでもルシ様が好きなんです。
狂おしいほど、ルシ様に夢中です」
桜色の唇。
そこから零れる慈しむような熱を帯びた声。
彼女の澄んだ蜂蜜色の双眸、透明感のある肌。
「俺もだよ」
「だったらね、ルシ様。
もっと、もっと求めてもいいんですよ」
「え? 求めても? これ以上?」
「はい。私の体内はルシ様の魔力で溢れているから、こんなに毎日元気なんですよ」
ローゼルがルシアンの頬にキスをした。
ルシアンは目を見開き、大きく息を吸った。
さっきまでの嫉妬と不安が一瞬にして消え去り、甘い熱に変わる。
艶めかしい女性らしいライン。
薄い寝衣のせいか、ルシアンはやけに落ち着かない気分になる。
ぞくぞくと身体の芯が震え、熱く脈打つのを感じた。
「そんなこと言うと、俺、今宵もローゼを求めるよ?」
「ふふ、いいですよ。
望むところです」
ルシアンはローゼルの隣に座り直して、唇を重ねた。
静かにローゼルもそれを受け止める。
ルシアンは軽く開いたローゼルの口の中に舌を侵入させる。
絡め合うように深く触れ合い、互いの唾液でぬるりと滑る。
貪り合う官能的な口づけだ。
雨の夜の静けさに濡れた音が響いた。
あぁ、なんて甘いんだろうか。
体の奥底の熱が沸き起こり、甘い吐息が互いから漏れる。
そんな吐息さえもルシアンは堪能した。
くちゅりと音を立てて唇が離れた。
ルシアンとローゼルは見つめ合った。
とろんとしたローゼルの潤んだ瞳。上気する頬。
あぁ、くそおぉ。
可愛すぎ。
どくんとルシアンは自分の身体が熱くなって、心がざわめく。
情欲が駆け巡った。
「俺はローゼ一筋だ。
だからね、ローゼ。
俺だけ見て、俺にしか触れさせないで」
「もちろんです。
ルシ様だけです」
唾液で濡れたローゼルの唇から漏れた言葉。
それだけで欲望が理性を凌駕する。
「あと、そういう顔を俺以外に見せないこと」
「見せませんよ」
「絶対な」
「はい、絶対です」
ルシアンはローゼルの寝衣の上から首筋に顔を埋め、その腰に手をぐっと廻し、自分の方へ抱き寄せた。
細い腰回りだ。
ローゼルの髪がさらりと頬を掠めた。
石鹸の香りがローゼルの甘い香りと混ざり合って、ルシアンの鼻を再びくすぐる。
「ルシ様こそ、局地的に色気を放出しないでくださいよ」
「なんだそれは。
俺はそんなもん放っていないぞ」
「いいえ、時々放ってます。
私だけドキドキさせられてばっかりで悔しいですもん」
「それはきっとローゼ限定だから。
問題ない」
「えー、なんか違う。
ルシ様は誰が見ても素敵だからなぁ」
ルシアンはローゼルをベッドに横たわらせ、その上に跨ぐように乗った。
欲しい、欲しくてたまらない。
今から起きることを期待するように下腹部が熱をさらに帯び始めた。
「他の女がいくら俺を素敵だと思ってくれても、俺はローゼだけが俺を見てくれれば十分だよ」
ルシアンがローゼルの耳朶を甘噛みした。
くすぐったそうにしてローゼルはルシアンの首に抱き着いた。
軽く眩暈がしそうなほどの幸福感がルシアンを襲った。
今では二人で過ごす夜にも慣れてきた。
だけど、今宵はいつもと違う。
ローゼルから積極的に求めてくれる。
もはや抑えようがない。
疼く身体が、熱い。
うっとりするような劣情に支配され、呑まれる。
窓の外では雨がしとしとと降り続き、二人の世界を静かに包み込んでいた。




