第123話 背負えなかった覚悟と、禁足地への密命
ローゼル・イースティリアと初めて会った時のことを鮮明に覚えている。
同時期に受けた官吏登用試験で合格できたのは、七名。
そのうち女性は二名で、うち一名が社交界の噂では悪評高きローゼル・イースティリアだと聞いたときは驚いた。
なにせ、ネイトはローゼルの婚約者レオーネ・ウルームと友人であり、彼から散々婚約者の嫉妬にうんざりしている愚痴を聞いていたからだ。
マジかよ、最悪だ。
よりによって、最も関わりたくない令嬢と同期だなんて。
レオーネとは、なんとなく馬が合った。
彼の育ちの良さと時折見せる悪戯っ子特有のやんちゃさ、誰にでも好まれる陽気な性格。
ネイトはそんな彼に好感を持ったし、なによりもシガーの趣味と、ウィスキーの好みが合った。
服の趣味も悪くない、おいしい店もよく知っている。
友人として文句のつけようのない男だと思った。
とはいえ、レオーネの女癖の悪さだけはいけ好かなかった。
いくら問題点の多い婚約者とはいえ、相手がいる身。
それなのに、可愛い令嬢を見つけては片っ端から口説いて、興味がなくなったら捨てる。
男として最低な糞野郎だ。
だが、不思議なことに振られた令嬢たちは彼を決して悪く言わない。
いつも悪く言われるのは、アカデミーにも入学せず、滅多に社交界に顔を出すこともなかった彼の婚約者ローゼル・イースティリア嬢だ。
彼女たちは言葉を交わしたことのない令嬢を、さも目の前で見てきたかのように中傷する。
あまつさえ、彼女を馬鹿にして見下すことで憂さ晴らしをし、自らの安心を得ようとしているのも薄々感じられた。
そんな歪な社交界。
あの頃は、そんな違和感に向き合う勇気すらない青臭いガキだった。
――初めまして、ローゼル・イースティリアと申します。
以後、お見知り置きを。
登用試験後、合格者だけが集まる入省式。
ネイトは衝撃を受けていた。
同期として顔を合わせた挨拶の場で、本物のローゼル・イースティリアが美しいカーテシーを披露した。
完璧な所作。
全員息を呑んだ。
嘘だろ、噂と全然違うじゃないか。
男連中はみんな、いや、あの時点でもレイノルドは異質だったので彼は少々違うけれど、全員で無言の目配せをしあった。
(めちゃくちゃ可愛いじゃないか!)
派手でもなければ容姿が醜いわけでもない。
小柄で華奢で清楚、生来の品の良さを漂わせた透明感を持ついい匂いがする女。
むしろ彼女は、父イースティリア子爵や兄アルバート令息によく似た美しい顔立ちの、誰がどうみてもノーブルな美少女だった。
レオーネの話通りならば、豊満でグラマラスで下品な女、それでいて悋気も激しく、我儘。
次期伯爵夫人として不安なほど、社交界のマナーも教養も身に着けたがらない浅はかな愚者。
(おいおい、これのどこが下品なんだよ。
超難関な官僚登用試験を過去最高得点で合格した才女だぞ)
ネイトはローゼルの美貌に釘付けになり、内心興奮していた。
彼女と話をしてみて、さらに印象は大きく変わった。
彼女は美人だからとひけらかすような鼻に付く態度をしない。
それどころか陳腐な見え透いた美辞麗句も、女性特有の虚栄じみた会話だっていらない。
愛嬌があって、雰囲気を読む能力に長けているからこそ、こちらを否定せず、相手を尊重する態度を見せる。むしろ、彼女は自身の知識の深さからストレートな物言いをし、それにこっちがハッとさせられる。
そうかと思えば、時々飛び出す仰天天然発言で周囲の笑いを誘う。
ふと何気ない拍子に笑い合える関係性。
ネイトは実際の彼女に触れれば触れるほどその魅力に引きずり込まれていった。
***
ローゼルの背中が見えなくなるまで見送っていたルシアンが振り返った。
「すまない。待たせたな」
ルシアンはご機嫌だった。
さっきまでの一瞬流れた険悪な雰囲気は消えていた。
見たことがないくらいホクホクとした表情。
普段険しい表情しか見ていないせいか、ネイトにはやけに新鮮に思えた。
(この人は本当にローゼルのことが好きなんだな)
そう思うと胸が締め付けられた。
ふいにルシアンからの鋭い視線が注がれ、ネイトは一瞬たじろいだ。
「さて、ファーヴァ書記官。共に刑部省に戻ろうか」
「え、あっ、はい」
ネイトは慌てて返事をした。
刑部省へ戻る回廊で、ネイトはルシアンの顔をちらっと盗み見た。
彼から穏やかで柔らかな空気が流れている。
満ち足りている。そんな言葉がぴったりの表情だ。
「ネイト・ファーヴァ書記官」
ネイトの視線に気付いたのだろうか、ルシアンが見下ろした。
「はい。何でしょう?」
警戒心を滲ませてネイトは慎重に返事をした。
「貴殿から見てレオーネ・ウルームはどういう人物像だ?」
「え?」
思いがけない質問で、ネイトは目を見開いた。
ローゼルのことで何か咎められるのか、はたまた牽制されると思っていたのに。
全然違う方向での質問に肩透かしを食らった気分だ。
だけど、ここで答え方を間違えればとんでもないことになる。
そんな予感がした。
「それは、どういう意味でしょうか?」
ネイトは硬い表情で尋ねた。
「レオーネ・ウルームは虚像を作り上げるのがうまい。
現に女官になる前のイースティリア女官は、今世紀最大の悪女という虚像を作り上げられていただろ?」
「はい。そうですね。
渦中の人物があんなに剽軽なご令嬢とは思いませんでした」
即答するネイトに、アランはくすっと笑う。
「剽軽ね、確かに。
トーマスもノーランもなかなか有意義で楽しい聴取だったって報告に来てましたね」
「そうだな」
ルシアンも嬉しそうに口角を上げた。
「本物の彼女を知っている人は同じ感想を持ちますよ。
噂がいかに当てにならないのかって」
ネイトは肩をすくめた。
「そうですね。
彼女の入省当初、あそこまで違うとは思ってもいなかったです。
いい意味で裏切られました」
うんうん、とアランは大きく同意した。
「ですよね。
あんなに優秀で有能、それでいて子リス女官って揶揄されるほどマスコット兼小動物扱いされる個性。
そのくせ、案外、我慢強くて頑固者」
ネイトはわざと皮肉めいた口調で言った。
だけど、そこには愛情もつい含まれてしまう。
「頑固者……。
ぷはっ、確かに」
突如ルシアンが吹き出した。
「あの頑固さはすさまじい。
酒と甘味があれば猪突猛進だからな。
それがまたリスっぽくて可愛いんだが」
愉快そうに肩を揺らして、ルシアンは笑い続けた。
まさか、軍師がこんな砕けた姿を自分の前に晒すなんて。
ネイトは目を見開いて、無遠慮だと分かっていながらもじろじろとルシアンを見た。
ネイトの知っているルシアン・クレインバールは、軍師兼総騎士団長として君臨し、いつもポーカーフェイスで、怜悧だ。
時折見せる笑みは決して絆されることのない冷笑であり、常に放たれる莫大な魔力と存在感が、周囲を圧倒していた。
薄気味悪い笑いが混じり合うおどけた口調と白々しい言い回し。
皮肉交じりな台詞は、罪悪感ある者には恫喝が滲んでいるように聞こえ、まさに恐怖としか言いようがない。
その鋭角な棘がルシアンから綺麗に消え去り、老成した雰囲気すら漂わせる。
寛いだ表情。
(ああ、そうか。
ローゼルと良い関係を築き上げているから、クレインバール卿に今までにない余裕が生まれたのか)
次期辺境伯としてなんとしても妻を娶るのは必然だ。
そんな妻の条件は、死地で生き抜ける強さと、国家に忠誠を尽くしている由緒正しき名家の家柄の娘でなければならない。
そんな難解な条件をクリアした女性をようやく見つけ、そして、手に入れたのだ——
ふと、ついさっきルシアンが現れた時のことが、ネイトの脳裏を横切った。
彼が現れたことに驚きながらも、恥じらいの笑みを浮かべて頬を上気させたローゼル。
しっとり潤んだ瞳で、そっと恥ずかしそうにルシアンに耳打ちして、面映い表情を浮かべたローゼル。
胸に鈍い疼きを抱き、ネイトはぐっと拳を握った。
「イースティリア女官は、一見するとか弱そうなのに、案外切れ者ですからね」
アランが言った。
ルシアンも頷く。
「ああ。彼女が何も言わないのをいいことに、レオーネ・ウルームは自分のコンプレックスを押し隠すように、彼女を悪党に仕立て、『婚約者に束縛される可哀想な伯爵令息』を演じ、やりたい放題だ。
いまだに騙されている者もいるほど巧みにね」
ルシアンの表情が、険悪で厳しくなった。
「そうですね」
ネイトは同意しながら、二人に目をやった。
「あの噂は、レオーネが言い出したものです。
さっき、ローゼルも薄々そう感じていたと言ってましたから」
「ほう」
ルシアンのこめかみがぴくりと動いた。
「君がそう思った根拠は?」
ルシアンの声が一段と低くなった。
「彼女が女官になってから参加した、数回の夜会や舞踏会を見れば分かります。
ローゼルのドレスは、婚約者レオーネが彼女をなおざりにしている証拠です」
明らかにサイズのあっていないドレス。
デザインもひと昔前のものばかり。
最低限の小粒の宝石をあしらったアクセサリー。
それだけしか身に着けさせない。
化粧だって普段の王城勤めとほぼ変わらない。
あれでは、せっかくの美貌が台無しだ。
「それなのに、ファーストダンスを彼女と踊ることは欠かさない。
彼女には他の男とダンスすることを許さないくせに。
要は、彼女が自分の所有物なのだと周囲に知らしめようとしているんです」
ネイトはずっと思っていた。
レオーネは、ローゼルをとても気に入っている。
いや、気に入っているというよりも、あれは完全に惚れこんでいると言った方が正しいかもしれない。
レオーネのローゼルを見る視線。
憎まれ口を叩きながらも時々嬉しそうにはにかむ横顔。
自分がたくさんの令嬢とダンスを踊っていても、ローゼルは自分としか踊らないという優越感と独占欲。
レオーネはローゼルと結婚したら、一気に華やかな格好をさせ、まるで物珍しいアクセサリーを手に入れたかのように自慢して歩くのだろう。
(っていうか、あれはまさに、好きすぎて手が出せない男の典型パターンだよな)
レオーネの溢れ出る好意は、一種神格化されたものに近い。
「ふうん。つまり、レオーネ・ウルームはイースティリア女官が大好き。
だけど、恥ずかしくて、ついつい意地悪をしてしまう。
いわゆるまだケツの青いガキってことですか」
アランがさらりと言いのけた。
(ケツが青いって……)
ネイトは苦笑した。
アランは見ての通り、眉目秀麗な騎士だ。
なおかつ、公爵家の息子なのに、とんでもなく口が悪くなる時がある。
「なんとなくそんな気がするな。
ガキが好きな女の子を苛める構図だ。
とはいえ、自分は女遊びは止められない。
周囲から浮気を咎められないように、彼女の悪評を広め、自分の火遊びを正当化している。
盛りのついた猿より質が悪いな」
ルシアンも身も蓋もないことを平然と言い捨てた。
「……そのとおりです」
ネイトは、ちらりとルシアンに視線を投げる。
「ですが、なぜ私にそんなことを尋ねるんでしょうか?」
「なぜって、貴殿は官僚になる前、レオーネ・ウルームと交友があっただろ?」
「え?」
「官僚になってからは距離を置いているようだが、元は親しい友人関係だった。
違うか?」
ネイトは当惑した。
俺の過去、調べたのか?
背筋がひんやりとした。
「イースティリア女官は、官僚になる前の君が、彼女を悪役令嬢と貶めた世間知らずの貴族のお坊ちゃんの一人だったとは知らないようだけどね」
ルシアンから注がれる含みのある視線は、やけに冷たい。
バレている。
ネイトはカッと顔が熱くなるのが分かった。
「その貴殿が、レオーネ・ウルームという男をどう評価しているか知りたかったんだ。
一時期は彼と一緒にローゼを酷評し、罵倒していたんだからね。
さぁ、改めて忌憚のない意見を聞かせてくれ」
ルシアンは鷹揚に手を広げてみせるが、ネイトは冷や水を浴びせられたような心地になった。
非難めいた口調と、かすかにルシアンから漏れる冷笑。
覆いかぶさるように迫りくるルシアンの魔力にネイトは戦慄する。
今更ローゼルに色目を使うな。
そうルシアンに言われているような気がして、ゾッとした。
(なんだよ、さっき見せた余裕はどこ行ったんだよ)
ネイトは内心、舌打ちをした。
そこで、ハッとして気づく。
そうか。この御仁はわざと自分に罪悪感を植え付けるような言い方をしてるんだ。
(んだよ、全然余裕ねぇじゃんか)
じんわりと冷や汗を掻きながら、ネイトは薄ら笑いを浮かべた。
――クレインバール卿に、こんなにも強く存在を求められて――私ね、すごく嬉しかった。
ローゼルはあの時、どんな表情をしていた?
きらきらとした光が注いだように眩しくて、ネイトは真っすぐ見ることができなかった。
刑部省出入口でローゼルを出迎えた瞬間、ネイトは言いようのない不安と焦りが込み上げてきた。
なにせ、ローゼルはすっかり綺麗になっていたのだから。
何かに打ち込んで満足している自信と、充足感。一皮むけたとでも言うような、美しさが静かに溢れ出していた。
次に押し寄せてきたのは、どこかに置いていかれてしまった寂しさと焦燥感。
そして、途方もない怒りが湧いて来た。
ネイトはそっとルシアンの顔を見上げた。
ルシアンの鋭い目がこっちを見ている。
圧倒的な存在感。
屈辱に耐えるネイトにアランがぽんと肩を叩いた。
「あまり深く考えないでくださいね」
「え?」
「ほら、君も記録しながら聞いていたでしょ?
先程イースティリア女官がトーマスやノーランに供述したレオーネ・ウルームの人物像」
「まあ、はい。確かに的を射ていると思いました」
ネイトは苦笑した。
「そうですか。
婚約者の彼女と、友人のファーヴァ書記官がそう証言するなら、やはり少し捜査方法を変えなくてはいけません。
そう思いませんか? ルシアン様」
アランはルシアンに視線を投げた。
「そうだな。
――君に確認したかった理由は、イースティリア女官がレオーネ・ウルームの証言をする時、『彼とは十年来のずぶずぶの関係』と言っていたからだ。
もう一人くらい彼に近い人物が欲しいと思ったんだよ。
こういう証言は多い方が立証しやすくなるからね」
スッと魔力を引っ込めたルシアンは、涼しい顔で肩をすくめた。
「イースティリア女官は、今後ウルーム伯爵家とは断絶しても構わないという態度ですが、君は今後も付き合いが続くかもしれない。
だから、世間話として、君から見たレオーネ・ウルームを教えてくれればいいんですよ」
アランは軽い口調で言った。
「世間話……」
ネイトはふと視線を地面に落とす。
彼らが求めるレオーネ像というのは、ローゼルの同僚としてではなく、レオーネの友人としての意見だったわけか。
ぼんやりとネイトはレオーネを思い出す。
「私は――かつての俺はウワサの真偽を確かめず、信憑性の低い話を真実だと思い込むような愚かな男でした」
ネイトの目は遠くなる。
「その愚かな男だったときの友人がレオーネ・ウルームです」
まず前置きをする。
そう、友人だった過去の俺がどれほど愚者であったかを伝えねばならない。
それから、立場を明確にする。
「実際、悪女なんて噂をされているローゼル・イースティリア女官と仕事仲間として共にするようになって、自分の浅ましさに目が醒めた感じです。
なので、今から言う彼のことは、友人ではなく、元友人としての所感です」
皮肉めいた声音。それは自嘲だった。
「うむ。それで?」
ルシアンが静かに話の先を促した。
「あの男は自分を良く見せることには、とても長けていました。
いわゆる、人たらしでした」
「まるで新手の詐欺師みたいですね。
まあ、そんな人たらしの彼が言うからイースティリア女官の悪評が瞬く間に広がったんでしょう」
アランは静かに冷ややかに呟いた。
「そうだと思いますよ。
誰もローゼルの顔も、人となりも知りませんでした。
それなのに、俺たちは無責任に彼女を責めました。
『レオーネの婚約者は酷い女だ。お前は可哀想だ、よく耐え忍んでいる』って。
ですが、それこそがレオーネの社交界で生き抜く処世術だったんです。
被害者ヅラしていれば、自分は責められることはない。
彼はそれをよく熟知してましたよ」
「なるほど。
臆病だけど、そういった一面は実に器用な男。
ある意味、貴族らしい性格だな」
ルシアンは奇妙な笑みを浮かべた。
「ですが、それが通用するのは酒とシガーのある夜会やサロンという華やかな表舞台だけです。
裏を返せばそれは、それ以上仲が良くなる価値のない男でした。
取るに足らない、と言えばいいでしょうか」
ネイトは冷笑した。
「へえ、随分と元友人にしては辛辣だね」
ゆっくりとグレーな庭園の雨にルシアンは視線を投げた。
「ええ。類は友を呼ぶ、というでしょ?
かつての俺もそういう人間だったんです」
「ほう。過去の自分への皮肉も織り交ぜての率直な感想か」
「はい。
だからこそ、ローゼルの言う『臆病者で殺しなんて出来ない男』という評価に妙に腹落ちした感じはしました」
ネイトは苦笑した。
「ふうん、なるほどね」
ルシアンは考え込むような仕草で自分の顎を触って、しばらく黙り込んだ。
三人はなんとなく沈黙したまま、刑部塔に向かって歩く。
ネイトはちらっともう一度ルシアンの横顔を見上げた。
(結局、俺もレオーネのローゼルに対する振る舞いに腹を立てているくせに、自分が悪者になりたくないというズルい一面があったんだよな)
俺になかったもの。
それは覚悟だ。
本気でローゼルを好きになったからこそ、他の渡り歩いた令嬢たちのように甘い言葉で口説くことなんてできなかったけれど、もしローゼルに振られたら――
そう思ったら、怖くて、この心地いい関係を崩したくなくて二の足を踏んでいた。
ローゼルだって、伊達に婚約期間十年あったわけじゃない。
ローゼルは将来の伴侶となる男をちゃんと見極めていた。
それでも、ローゼルは覚悟を決めて、あの男と寄り添うつもりでいたのだ、ずっと――。
——初めてだったんだ。
本気で『私じゃないと嫌』と言って、家と家の約束を壊そうとしてくれた人。
彼のように、どんな手段を用いてもローゼルを手に入れたいという覚悟。
俺にはそれがなかったんだ——
*
雨足は強いままだった。
ネイトがルシアンの執務室に入ると、レイノルドが応接席に座って書類仕事をしていた。
レイノルドはネイトに一瞬目配せをすると、律儀に立ち上がって、ルシアンに深々と一礼をした。
「レイノルド、ご苦労」
「はっ」
相変わらず従順な奴だ。
レイノルドにとって、ルシアンは自分の兄よりも兄貴分で師匠のような存在らしいが、ここまで来ると崇拝という言葉がぴったりだ。
だが、そんな憧れのルシアンが、同期のローゼルにあそこまで惚れ込むとは思っていなかっただろう。
ふつうなら、崇拝しているような男が、自分と同じ立ち位置にいる女に惚れたらそれなりに反感を抱くものだが、この男は違う。
すっかり二人の恋の応援者でもある。
ただ、この男は生真面目で朴念仁、他人の感情の機微にひどく鈍感だ。
(四年間、一緒に仕事してきたけど、結局俺がローゼルに想いを寄せているって気づいていないんだもんなぁ)
「ルシアン様、今朝のミレイユ・カーネル男爵令嬢に関しての書類、すべて書き終えました」
「さすが仕事が早いな、助かるよ」
「いえ、とんでもありません」
「さぁ、ファーヴァ書記官も座って」
ルシアンはネイトに座るよう促し、ルシアン自身もレイノルドの対面の席に座る。
アランはその椅子の横に静かに佇み、詠唱を始めていた。
どうやら強力な防音結界を張っているようだ。
ただでさえ機密性がしっかりしている刑部塔。
その上官の執務室。
それなのに防音結界を施すなんて、よっぽど聞かれたら困る話なのだろう。
ネイトは椅子に腰かけると同時に、緊張と不安が込み上げていた。
一体今から俺は何を命じられようとしているんだ?
アランの詠唱が終わった。
アランが腰掛け、全員が椅子に座ったところで、ルシアンがおもむろに口を開く。
「今、我々はとんでもない窮地に立たされているのは気づいているだろうか」
全員が静かに同意するように頷いた。
外国籍の男――オークレー次官の就任から始まり、王城の治安維持に欠かせない衛兵たちがどこの馬の骨か分からない『外部人材』に置き換えられた。
そして、オークレー次官は、近々異国からの傭兵を国の精鋭軍隊に入隊させ、彼らのために新しい騎士団を新設しようとしている。
『外部人材』の衛兵の件は、ローゼルたちの活躍ですぐさま覆されるとはいえ、国家としてあるまじきことだ。
「これはまだごく限られた人間にしか話せていない内容だ。
心して聞いて欲しい」
ルシアンの口ぶりは随分と重たい。
張り詰めた空気が流れ、喉がやけにカラカラに渇く。
「ウルーム伯爵領地、正式名ウルーインダナビアム・ハーベストリム領。
そこのオーレイヴ荒原の禁足地。
ここを二人に調査してもらいたい」
ルシアンは端的に言った。
そして、その双眸は鋭く光っていた。
オーレイヴ荒原の禁足地――。
帝国民誰もが踏み入れたことのない聖域。
古の呪いの国の第二の都であり、帝国の記録にも一度として踏破の痕跡がなく、ただ伝承の中で語り継がれてきた謎に包まれた場所だ。
「そこにいる連中が、十中八九、戦争を起こそうと着々と準備を進めている」
ルシアンの声は穏やかだったが、その麗しい表情はやけに険しい。
「まさか……戦争だなんて」
ネイトは青ざめた。
胸にもやもやとした不安がわだかまる。
奇妙な沈黙が流れた。
ルシアンの重厚さを帯びた声が、かえって不穏に響く。
「ローゼが、戦争を仕掛けようとしている奴らに狙われているんだ」




