第122話 雨の回廊の告白の結末と、背後に立つ軍師
——ローゼル。
俺のもとに来い。
大事にする。
突然のネイトからの告白。
ローゼルの手を優しく包むネイトの手が、驚くほど熱を帯びている。
ドクドクと耳の奥で自分の心音が大きく響く。
ローゼルの手よりも一回りも大きな骨張った手。
指にある剣ダコ。
けれど、この手を見て思い出すのは、目の前のネイトの手じゃない。
そう思ったら胸がちくちくと痛む。
城に出仕する前。
毎朝、庭園で剣の素振りをするルシアンの姿が思い浮かぶ。
鋭い風を切る音。
無駄のない洗練された動き。
彼のはっきりとした強い輪郭が、胸に刻み込まれている。
私はやっぱり――
「ネイト、ごめんね」
ローゼルは、手をスッと放した。
「せっかくのお誘いだけど、決めたから。
私、あの人について行くって」
清々しい笑顔で言うローゼルに、ネイトはサッと身体を強張らせた。
「駄目だ。
ローゼルは実力で官吏の皆に優秀と言わしめた女官だ」
ネイトがローゼルの肩をつかんだ。
「あえて辺境伯の妻になる必要なんてない。
これ以上、自分の人生を犠牲にしなくてもいいんだ。
レオーネの野郎、ローゼルは散々貶めて、今世紀最大の悪女なんて噂を流して……。
俺は地位も金もない。
だけど、絶対にローゼルを泣かせない。
だからさ――」
「嬉しいなあ、そう言ってもらえて。
でも私は――」
首を振るローゼルの双眸をネイトはぐっと覗き込む。
「マジで嫌なんだよ。
離れて行かないでくれ」
その表情は複雑だった。
青ざめているようにも、赤く染まっているようにも見える。
「俺、仕事はきつくても、なんだかんだ毎日同期のみんなと会えるのが楽しみだったんだ。
特にローゼルに会えるのがすごく楽しみで……。
それなのに、俺の側からいなくなってしまうなんて……」
ネイトは余裕なく吐き捨てる。
言葉の最後は雨に溶けて消えた。
(ネイトが私を大事に想ってくれている……)
それはありがたいことだし、嬉しいと思う。
誰かが自分のことを大切に思ってくれて、心配してくれるのはすごく幸せなことだ。
だからこそ、嘘をつけない。
真剣なネイトの気持ちを無下にできない。
「初めてだったんだ」
ローゼルはぽつりと言葉を紡ぐ。
「え?」
「本気で『私じゃないと嫌』と言って、家と家の約束を壊そうとしてくれた人」
「家と家の約束……。婚約破棄か」
「うん。……そりゃあ、ゴルマン卿は何度も求婚してくれたよ。
好きだって毎日言ってくれた。
でもね、実際に、父に話を持ちかけることはなかった」
好きだ、結婚しよう。
そう言ってくれるけど、どうせ口先だけでしょ?
誰も本気で、婚約を破棄してやろうなんて意気込みのある人はいない。
政略結婚を個人の好き嫌いで投げ出すことは、契約不履行になり、社会的信用を失うにも等しい。
ましてや女の私は何も望めない。
望んではいけない。
貴族令嬢の役割は、家のために嫁ぎ、そこで子どもを産み育てること。
そこに当事者たちの恋愛感情は関係ない。
「正直に話すと、レオーネがいろんな女の子と遊び歩いていたのはね、やっぱりそれなりにショックだったんだよ。
結構傷ついてたし。
今世紀最大の悪女という噂も……薄々気づいてた——レオーネが流していたって」
ただ、認めたくなかった。
そこまで彼に嫌われている私を――
「何で私はレオーネの家門に選ばれたはずなのに、肝心の彼からこんなに疎まれているんだろうって、一時期ものすごく悩んだ」
私と婚約する羽目になっちゃって、本当にごめんね。
さっさと婚約破棄して、解放してあげたかったんだよ。
そう思う一方で、いつかレオーネが私を望むんじゃないかって期待をしていた――
だから、彼に冷たくあしらわれても、頑張ってお仕事をした。
そうすれば、そんな雑念に心を煩わせずに済むし、なによりも家の借金を少しずつだけど返済はできる。その上、なけなしの残金で美味しいお酒を飲め、そこに甘味があれば最高だ。
な〜んて、ずっと言っていたけど、本当は自分の惨めさを隠すため。
そうやって、すべてに絶望して、毎日誤魔化して生きていた。
ふいに、ローゼルはルシアンのぬくもりを思い出し、胸が甘くときめいた。
こんな私に新しい道を切り開いてくれた。
ようやく心が落ち着いた先——
「クレインバール卿に、こんなにも強く存在を求められて――
私ね、すごく嬉しかった」
情事の後、彼の胸に顔を埋めるローゼルにルシアンは語る。
――俺があげられるものは全部ローゼにあげる。何が欲しい?
え? 欲しいものがない?
じゃあ、一緒にローゼが欲しい物を探していこう。
これからお互いをもっと知って、そうやってこの先も一緒に歩こうな。
喧嘩しても最後はハグして仲直りして笑って終わろう。
あの人は、ずっとずっと先を見ている。
二人で寄り添って生きていける筋道を常に考えてくれている。
ルシアンと生涯を共にしたい――
「さっき、彼の魔力過多の体質を聞いて、私が助けたい。
私で役立つなら、ずっと傍にいたいって強く思ったの。
私たち、最高の夫婦になれるって」
「でも、娼婦のところに通っていたんだぞ?
嫌じゃないのか?」
ネイトは不可解なモノを見るかのような目つきで、ローゼルを見た。
「そりゃあ、嫌だよ。
でも、それは過去の話であって、今は違う。
二人の団長さんたちもそう言っていたじゃない」
「そうだけど……」
ネイトは口を噤んだ。
「私なんか、現在もまだレオーネの婚約者だよ。
それでも良いって受け止めてくれるの」
「——後悔しないか?」
一瞬、間があってからネイトが確認するように尋ねた。
「しない」
ローゼルは、はっきりと返事をした。
驚いたネイトの顔。次に、傷ついたような表情になった。
ローゼルの胸に鈍い痛みが走る。
「そりゃあ、ネイトにとって、私は頼りなく見えるのかもしれないし、私自身も自分は弱いと自覚している」
気負って男社会で女官をやっているけれど、常にプレッシャーに押しつぶされそうで、いつもネイトに愚痴を聞いてもらっていた。
それでも頑張り続けている限り、緊張の糸が切れなければ、どこまでも走り抜けれる。
そう慰めてもらっていた。
けれど、ルシアンに触れられたところから、心と身体が柔らかな熱に溶かされていく。
「私はもう独りでは生きていけない。
あの人と共にいるだけで得られる幸福感を知ってしまったから。
あの人は、私にとっても何にも代えがたい宝物なんだ」
そう言い切ったローゼルは、ふと、自分が涙ぐんでいるのに気づいた。
ネイトは痛みに耐えるように顔を引きつらせた。
ローゼルは指先でさっと涙を拭う。
「今、とにかく私はあの人と共にいられることが幸せなんだ」
ローゼルは、ぱっと華やぐように、にっこりと笑った。
次の瞬間、ネイトの目線がローゼルの背後で何かを捕らえた。
そして大きく目が見開かれた。
驚き。
恐怖。
ローゼルは後ろを振り返った。
口元に柔らかな笑みを湛えた大きな軍服の男――ルシアン・クレインバール。
「ルシ様……っ!」
ローゼルは驚いた。
なにせ一回り以上ある大きな体なのに全然気配を感じなかったのだ。
腰に手を当て、笑顔なのに、なんとなくピリピリした雰囲気を漂わしていた。
「やあ、ローゼ。先日の魔法騎士をボコった件の事情聴取は終わったようだな?」
ルシアンは凄味のある笑顔でローゼルに尋ねた。
一瞬気圧されながら、あえてローゼルは拗ねたような顔でルシアンを見上げる。
「……えっと、ボコったって何度も言わないでください。
それに、ここ、王城です」
愛称呼び、禁止です。そう仄めかす。
口をすぼめるローゼルに、ルシアンから尖った空気が霧散していく。
「あはは、イースティリア女官、すまない。
いつもの癖でね。
で、終わったの?」
ルシアンの肩の力が抜けて、いつもの優しい笑顔を浮かべた。
ローゼルはそっと胸を撫でおろした。
「はい、終わりました。
というか……クレインバール卿。急に後ろに立たないでくださいよ。
びっくりしましたよ」
わざと明るくローゼルが言うと、ルシアンは、さらにはにかむように笑った。
***
ネイトは不気味なものを見るような面持ちでルシアンを見た。
ローゼルとにこやかに会話をするルシアン。その姿に背筋がひやっとした。
(この男、いまの話を聞いてた?)
それに、今、ローゼルがあの軍師を愛称呼びをした。
素直にそこにも驚いた。
軍師がローゼルを「ローゼ」と愛称で呼んでいるのは知っていたが――
「もう、クレインバール卿がそう言うから、ケリークロノム卿から『ボコったの?』なんて何度も聞かれちゃいましたよ」
「ああ、やっぱりか。
俺が豪快にローゼがボコって倒したって話したからね」
「ひどい。
私はクレインバール卿のお手伝いをしただけですよ」
「メインはローゼだろ?
お手伝いは俺だよ。
なにせイースティリア女官が先陣切って殴りに行ったからな」
「先陣って。
あれは正当防衛ですよ、口を出したのは私ですけど、手を出したのはあっちです」
不服そうにローゼルが頬を膨らませると、ルシアンは豪快に笑った。
「あはは。そうだったな」
ルシアンもたちまち打ち解けた空気を漂わす。
さっきまで殺気さえ纏っていたくせに、ローゼルには驚くほど優しい笑顔を浮かべる。
どういうことだ?
ネイトはいまだに目の前の光景に戸惑っていた。
この男ルシアン・クレインバールは、まさに知略に長けた冷血漢だ。
行使できる全権力と縁故と情報網を駆使して、ローゼルを手に入れようとしていたのは確かだった。
ネイトの中でてっきり力尽くで、敵を弄ぶようにローゼルをじわじわと追いつめ、しかし退路だけ残す。そして、その退路の先にローゼルを囲う。そう思っていた。
だけど、実際どうだ?
ルシアンが現れた途端、ローゼルの顔が上気するのが分かった。
薔薇色に染め上げた頬に、きらきらと輝く瞳。
ルシアンとローゼルが交わす視線に、甘い柔らかさが覗く。
(なんだよ、この甘ったるい空気感。
だいたい、二人の距離感が近すぎやしないか?)
ネイトは行き場のない怒りを抱えていた。
嫉妬と憎悪。
身を焼かれそうになる。
負の感情は真っ黒い塊となり、どんどん胸の中で重量を増す。
二人を見なければいいのに、ネイトの目は自然と微笑み合う二人に吸い寄せられていた。
「びっくりしたでしょ?」
急に背後から声が掛かる。
ネイトは、びくっと肩を震わせた。
声の主を探すと、第2魔法騎士団長アラン・リックランスがいた。
にっこりと人懐っこい笑みを浮かべている。
すべてを見透かしたような笑顔。
それは楽しんでいるようにすら思えた。
「お疲れ様です」
ネイトは小さく頭を下げた。
(この人はクレインバール卿以上に気配がないんだよなぁ)
「お疲れ様。
事情聴取を終えたイースティリア女官のお見送りかな?」
「はい。そうです」
端的に答えるも、この人にもさっきの告白を聞かれていたかもしれないと思うと、たちまち恥ずかしくなって一気に身体が熱くなった。
「いやぁ、若いって素晴らしいですね」
ぼそっとアランが言って、腕を組んだ。
ネイトは、ちらっと恨みがましくアランを見た。
「若いって……リックランス卿と俺は三つしか年齢違いませんよね?」
「そうだね。三つだけど、俺が君の年齢の時はすでに結婚していたからね。
こういう甘酸っぱい経験をしてこなくてね。羨ましいよ」
ねっとりとした視線をアランから注がれ、ネイトはたじろいだ。
皮肉なのか、はたまた素直な感想なのか。それが分かりにくいからこの人はどうも苦手だ。
「ところで、ネイト・ファーヴァ書記官」
改まった声でアランが名前を呼ぶ。
ネイトは反射的に姿勢を正し、アランに向き合った。
「君、その片想いの熱意。
新たな任務に向けてみないかい?」
「はい?」
アランの言っていることがどうも理解できず、ネイトは首を傾げた。
でも、今、アランは「片想い」と言った。
(やっぱり聞かれていたか!)
穴があれば入りたい衝動に駆られつつも、必死で平静を取り繕う。
「……一体どういった任務でしょうか?」
「ふふ、詳細はルシアン様の執務室で話すけれど、要は出世できる仕事をしてみない?っていう勧誘だよ」
アランの声はどこか弾んでいた。
「子爵の息子でも出世できるんですか?」
「身分は関係ないよ。
やる気があるかないか」
「つまり、命懸けの仕事ですか?」
ネイトは率直に尋ねた。
アランはネイトを一瞥し、雨降る庭園に視線を投げたまま和やかな口調で話す。
「うん、そう。
これは書記官というよりも、我々騎士に近い任務だ。
どちらかといえば、軍部寄りの……、う〜ん、分かりやすく言えば、レイノルドと同じ仕事をしてもらいたい」
「レイノルドと?」
「うん。単刀直入に言えば、レイノルドと調査して欲しい場所があるんだ。
しかも、これはイースティリア女官を大事に想う信用できる君にしかできない任務なんだよ」
アランの表情はにこやかだ。
まるで、晴れたらピクニックにみんなで出掛けよう、そう提案しているような穏やかな声音。
だけど、発するその言葉の意味の重さにネイトは顔を強張らせる。
「どうして、そこにローゼルが出るんでしょうか?」
用心深くネイトは聞いた。
嫌な予感が胸を掠めたからだ。
「今朝、捕縛した『外部人材』のミレイユ・カーネルからとんでもない供述を得たんだ。
しかも——イースティリア女官の命にも関わることだ」
「ローゼルの命?」
ネイトはひやりとした。
それがどういう意味なのか推し量ることができない。
だが、罪人からローゼルの命に関わる新供述が出たとあっては、その「出世できる仕事」とやらは、穏便では済まないはずだ。
しかも、騎士ではなく、書記官に任せるということは——
「それじゃあ、ローゼ。いや、イースティリア女官。
お仕事、頑張って」
その時、ルシアンがこちらに身体を向けた。
どうやら話が一段落ついたらしい。
「あ、待って」
ローゼルが去り際のルシアンの服の袖をつかんだ。
「えっ、と……。
ご、ごめんなさい」
ローゼルはぱっと手を離した。
どうやら、無意識につかんでしまったようだ。
自分のしたことに驚いている。
ルシアンは「どうした?」と優しい声でローゼルに近づく。
ローゼルはもじもじしながら、潤んだ眼差しでルシアンを見上げた。
その瞬間、ネイトは息が詰まった。
ローゼルは自分の前ではお転婆、ちょっと生意気な弁の立つ令嬢だ。
それなのに、ルシアンの前ではいじらしく恥じらう表情を見せ、恋する可憐な女性に変貌した。
華奢な首筋、ひとつに結い上げた柔らかそうな髪の後れ毛。
あどけないぽってりとした桜色の唇。
俺の前にいるときよりも、遥かに可愛い、感じのいい娘。
やがて、ローゼルはそっと自分から近づいてルシアンに耳打ちをする。
ルシアンもおもむろにローゼルに身を寄せて、耳を傾ける。
何を話してるのか分からない。
だけど、耳打ちを終えた二人の視線が絡み合うと、互いに柔らかな笑みが零れた。
周囲の空気が優しく温かく染まる。
ネイトは胸に楔を打たれたような痛みを覚えた。
愕然とした。
あんな笑顔、俺には引き出せなかった。
一緒に酒を飲み交わしても、互いに仕事の愚痴を言い合い、ローゼルの好きな甘味を一緒に食べて、街中を同期のみんなと歩き回った日も、ローゼルはあんな顔を見せなかった――
ネイトは、そのまま身動きせず、二人を見続けるしかなかった。
途方もない敗北感が漂う。
俺はあの子を幸せにしてやれない——
「わかった。じゃあ」
「すみません、お引き留めして」
恥じらうローゼルにルシアンは、柔らかくはにかむ。
ローゼルはルシアンを、それからネイトとアランを見て、軽く会釈して執務塔へ戻って行った。




