第121話 死地の辺境伯領と、雨音の中の告白
回廊に出ると、柔らかく白く湿った空気に雨の匂いがした。
雨脚はいくぶん弱まったが、まだ、しとしと雨が降り続いていたからだ。
庭園の若葉を濡らし、回廊の石畳に淡い水の模様を描いていた。
せっかくケイトに整えてもらった髪も、この湿度で、ぼんっと膨らんでしまいそうだ。
雨粒が回廊の屋根を叩く音がじんわりと響く。
「明日、エルド男爵の葬式なんだよね」
ローゼルは回廊から空をそっと見上げた。
暗雲立ち込める灰色の空。
「でもこのお天気じゃあねぇ……」
ローゼルは不安になって呟いた。
「そっか。なんとか式の最中だけでも晴れるといいな」
ネイトも空を見上げた。
「うん。最後くらい暖かな日差しの下、お見送りしたい」
「だな」
失策で失われた官僚の命。
陛下は今回の事件に深く心を痛めていると聞く。
たぶん、エルド男爵の家族には国から多額の補償金が支払われ、今頃、この雨の中、彼の遺体は愛する家族の元に戻っているはずだ。
明日は、法務省総出でエルド男爵の葬式に参列する——
「まあ、これで問題だった『外部人材』システムは全面的に廃止になることは確実だし、国益を軽んじて私利を貪った奴らは一掃されるだろうよ」
ネイトは、まるで慰めるようにローゼルの頭をポンポンした。
「うん。そうなってもらわないと困る。
じゃないと、エルド男爵が報われないよ」
ローゼルは胸が詰まるような心地がした。
「ああ」
雨は静かに降り続けた。
ローゼルは、そろそろ仕事に戻ろうと思うのだけれど、近くの塔まで見送ると譲らないネイトが、なかなか話を打ち切ろうとしない。
すっかりネイトと刑部省を出た先の回廊の隅で話し込んでいた。
「なあ、ローゼル」
「なに?」
ローゼルは庭園を眺めながら返事をした。
「このままでいいのか?」
「ん? なんのこと?」
「だから……」
ネイトは強い口調で言いかけて、すぐにその先の言葉を呑み込んだ。
なんだろう、さっきから何か要領を得ない物言いだ。
彼にしては珍しくぐずぐずしている。
ローゼルは不思議に思ってその横顔を見上げた。
澄んだ双眸に、端正な顔立ち。
せっかくの美貌なのに、どこか不安そうな表情を浮かべている。
いつもこっちがびっくりするくらいハキハキしているのに、何か悩み事だろうか。
「あのさ」
「うん……」
しばらく間があってから、ネイトは意を決したかのように改まった声で尋ねる。
「このまま、あの人と結婚するのか?」
「あの人――って」
ローゼルは一瞬首を傾げる。
「ルシアン・クレインバール卿のこと?」
「そうだ」
何を急に言い出すかと思えば。
「どうしたの? 藪から棒に」
あまりにもネイトが真剣な顔なので、ローゼルは思わず小さく笑った。
「笑い事じゃない。
あの人と結婚するってことは、いずれ“死地”の辺境伯領の妻として行くことになるんだぞ」
はっきりとネイトは言い切った。
このまま生半可な気持ちで嫁いだらとんでもないことになるぞ。
ネイトが暗にそう釘を刺している気がした。
死地——クレインバール辺境伯領。
国境沿いのこの国北方の果て。険しいアイルー山脈に囲まれた地だ。
「そうだね。
あの地は華やかな王都生活をしていた令嬢には、あまりに過酷な環境だと思う。
けど、お生憎様。
私は雑草のように育ったからね、なんとかなるよ」
ローゼルは宥めるように、ゆっくりと答えた。
最近、侍女のケイトが身支度を整えながら、あの領地のことを教えてくれる。
森に入れば魔物が這い回り、冬になれば、降り積もる雪で閉ざされる。
よそ者を嫌う保守的な気質の民が多いのも、異国から侵略を何度も受け、闘い、そしてあの土地と血を守り抜いてきた歴史があるからこそ。
ルシアンが、ケイトをローゼルの侍女にしたのは、年齢も近いし、彼女が自身の故郷に誇りを持っているからだろう。
何気ない日常の会話から、少しずつローゼルに領地のことを知ってもらいたい。
そういうルシアンの意図が見え隠れしている。
「だいたい国境沿いの領地はどこも大変だよ。エレナの生家の南部も、国境沿いだからか魔物がウヨウヨしている森が点在しているって言っていたし」
ローゼルが雨を見ながら、ぼんやりと答えた。
「甘く見すぎだ。
辺境伯領は戦禍の絶えぬ地だぞ」
さっと、ネイトは顔を曇らせた。
戦禍の絶えぬ地。
「……そうらしいね」
ケイトは若い女の子なのに、何度も私兵団の一員として敵兵と闘ってきたことがあるという。
ローゼルから見れば、ふつうのおしゃれが大好きな世話好き侍女だ。
だけど、彼女はローゼルの想像を絶する数の屍を乗り越えてきた。
そんな圧倒される何かを時々感じたりする。
「でも、領民はその分結束が固いんだって。
一度仲間と認めたら、とことん大切にするというか。
国境の要衝の民って感じだよね」
「あのなぁ……」
軽く言うローゼルに、ネイトは前髪をくしゃっと掻き上げて呆れ返ったような面持ちになった。
彼のお小言が始まるのを察して、先手を打つようにローゼルはネイトの顔を覗き見る。
「それにしても、びっくりしたなぁ。
いつも毒舌全開のネイトがここまで心配してくれるなんて」
ローゼルはニッと笑った。
ネイトはぐっと言葉に詰まった。
ほんのり首筋が赤く染まる。
「あ、当たり前だ。
心配するに決まっているだろ」
ぷいっと雨降る庭園に視線を投げた。
「ふふ。そういうところだよ。
優しぃ〜」
ローゼルはますます軽口を叩いた。
それから、ネイトをまじまじと見つめた。
逆に、ネイトはローゼルから注がれる視線に堪えきれなくなったのか、自分の手で顔を隠す。
「やめろよ、なんか照れるだろ」
「ネイトが照れる!
うわぁ、本当だぁ、耳まで赤いね。可愛ぃ〜」
ますます調子に乗ってローゼルが一歩近づくと、ネイトは堪らずローゼルの両頬を軽くつねる。
少し屈み込んだネイトと、同じ視線の高さになった。
「くそぉ、この減らず口がぁ……」
「へへん、ネイトが急に妹扱いするからいけないんだよ。
大丈夫、ちゃんとやれるから」
頬をつねられながらも、ローゼルは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「別に妹扱いなんかしてねえって。心配しただけだ」
心外だな、と言わんばかりに、ネイトはローゼルの頬から手を離して腕を組んだ。
そんな姿をローゼルはクスクス笑った。
思い返せば、口は悪いくせにネイトはいつも気にかけてくれた。
落ち込んでいる時も、腹が立った時も、嬉しい時も、気づけばネイトが傍にいた。
(たぶん、私が頼りないからなんだろうね)
ネイトは妹や弟のいない末っ子。だからこそ、年下の私を可愛がってくれるんだろう。
そして、今も妹のように、将来を心配してくれている――
「いいか、決して楽な道じゃないんだぞ。
今ならまだ引き返すこともできる。
考え直せ」
急に真面目くさった顔でネイトが呟いた。
「そうだね。楽じゃないと思う。
そもそも輿入れ予定だったウルーム伯爵領地とは雲泥の差だもの」
「ああ、そのとおりだ。
分かっているじゃないか。
ウルーム伯爵領地は、山岳地帯があるといっても、あそこは年中比較的穏やかな気候だ。
それに広大な平地だし、温泉も湧き出て、まんべんなく栄えている」
「だよね。その点、辺境伯領は山脈に連なる土地だからか、なかなか作物も育ちにくい。
この国のどこの領地よりも生活するうえでかなり過酷だよね」
そして、下手したら戦火に巻き込まれる防衛の最前線。
「まあ、そう考えると不安がないわけじゃないよ」
「だったら、もっと穏やかなところに嫁いだ方がいい。
たとえば——そう、ゴルマン伯爵」
ネイトは名案だとばかりに手を叩いた。
「え」
だけど、ローゼルの顔は大きく歪んだ。
「乗り気じゃないかもしれないが、あの領地は温暖で王都にも近い。
ローゼルの生家のイースティリア領地からも近いぞ」
「あそこは、無理」
領地ではなく、エヴァン・ゴルマン伯爵と合わない。
「それなら、そうだなぁ。
ホキアンのところのバーンズリー家。
ほら、いまじゃあ大臣令息だ。
まだ大臣がローゼルのこと、諦めてないって。
ホキアンなら、ローゼルのことを大切にすると思うんだ」
「なにそれ。なりふり構わずって感じだね。
そこまで私、結婚したいと思っていないよ」
ローゼルは、思わずくすっと笑った。
「いや、そういうわけじゃあ……」
ネイトは言いかけてやめた。
雨音が大きくなった気がした。
「ネイト。ありがとう。
嬉しいよ、そうやって親身になってくれて」
ローゼルはふわっと微笑みかけた。
僅かにネイトの目が見開き、たちまちカッとまた顔が赤くなる。
「そりゃあ、ローゼルは俺の大事な仲間だから……」
頬を掻いて、調子が狂うとばかりにネイトは視線を逸らした。
「ふふ、いいねぇ。
持つべきものは仲間思いの同期だ」
あっけらかんと言うローゼルに、ネイトはなんともいい難い複雑さを滲ませた表情を浮かべた。
不意に沈黙が流れた。
屋根の端から滴り落ちる雨水が、ぽたりと石畳に広がり、回廊の静けさを震わせる。
「ローゼル……」
ネイトの真剣な声。
「なに?」
きょとんとして、ローゼルはゆっくりとネイトの顔を見た。
その瞳にはいつもの冗談めいた色ではなく、真摯な光を宿している。
潤んだ熱を孕んだターコイズブルーのネイトの瞳。
なんだろう。
どうして、そんな目で私を見るんだろう。
しばらく二人は見つめ合っていた。
「俺のところは?」
「え?」
ネイトの声が雨音に溶けるように低く響く。
「――俺がローゼルの夫になるっていうのはどうだ?」
ローゼルは頭の中が真っ白になった。
ネイトがずっと片思いしていた相手——
これじゃあ、まるで本当にネイトが私のことを——
「何を言っているの?」
ローゼルは口元には笑みを浮かべながらも、内心はひどく混乱していた。
「俺は――ローゼルが危険なところに嫁ぐのは嫌なんだ」
その声に、複雑な感情が覗く。
そして、ネイトが焦燥した様子であることに気づいた。
「俺は嫡男とはいえ、所詮、下位の子爵子息だ。
そりゃあ、クレインバール卿やウルーム伯爵家と比べれば全然贅沢できない。
きっと出世もできず、一生ヒラの官僚だと思う。
けど、実家に借金はないから細々と夫婦二人で暮らせば――」
ぐわっと急にローゼルの顔が熱くなった。
心が大きく揺さぶられ、息が詰まった。
「そうだな、子供二人くらいはなんとか生きていけるはずだ。
それに、こんなにウマの合う令嬢はローゼルしかいない。
友人夫婦。
そういうのも悪くないと思わないか?」
ネイトの栗色の髪に雨の湿り気がわずかに艶を与え、ターコイズブルーの瞳が曇天の下でひときわ鮮やかに輝く。
ネイトが私に好意を持っている——
今までそんな可能性を一度も考えたことがなかった。
時々、距離が近いなとか、いつも傍にいてくれるな、なんて呑気に思ってはいたけど、ここまではっきりとその意思を示されるとは思ってもみなかった。
美しい彼が、改まった顔つきで真っ直ぐローゼルに向き合うように立つ。
「ローゼル。
俺のもとに来い。
大事にする」
すっとネイトが手を差し伸べた。
「俺のところに来いよ」
もう一度ネイトはハッキリ言った。
ローゼルは心臓が止まりそうだった。
どうしよう。
目を逸らせない。
なんとか言わなくては。でもなんて?
「ちょっとちょっとぉ」
ローゼルは照れ隠しのつもりで、わざとはしゃいだような声を上げる。
「ネイト、悪ふざけしすぎだよ。
本気にしちゃうところだったじゃない」
だけど、ネイトは真顔だ。
身体が硬直した。
次にローゼルが思ったのは、狼狽だった。
ネイトのことは素敵だとずっと感じていた。
男性としても十分魅力的だ。
だけど、彼が選ぶ女性は自分よりもうんと上品で、清楚で愛らしい人。
まるでガーベラの花びらが揺れるような——
ふと、ネイトの瞳から甘い柔らかさが覗いた。
「そんなに驚くなよ。本気の本気だよ」
ローゼルの胸が、一瞬高鳴った。
ズルい。
こんな甘やかな声を出すなんて。
「で、でも、そんな素振り、全然なかったよ」
切なく光るネイトの瞳。
どこか傷ついたような表情。
「そりゃあ、ずっと隠していたからね」
優しく微笑むネイトに、ローゼルはなぜか不安になった。
ぎこちない沈黙が降りた。
変だ。こんなのフェアじゃない。
だって、なんと言えばいい。
どうやって、返事をするのが正解なの?
ただの気の合う友人。
親の爵位も、趣味も、話も、ノリも合う最高の同期仲間。
その枠組みが音を立てて静かに崩れていく。
「あはは、やだなあ、私、めちゃくちゃ気遣われてるじゃん。
そりゃあ、友人夫婦も素敵だけど――」
乾いた自分の笑い声が虚しく響く。
「ネイトはほら、モテるじゃない。
私に同情結婚しなくても、もっと素敵な女の子と恋して結ばれる可能性もあるよ。
ここで妥協する必要ないよ」
ローゼルは、伸ばしたネイトの手のひらを重ねるようにしてぽんぽんと叩く。
だけど、その瞬間、手首を掴まれた。
驚いて、ローゼルは弾けるようにして顔を上げた。
「確かに俺は一時期、気軽にいろんな女性のところを渡り歩いたよ」
いつの間にか雨脚が強くなっていた。
「けどさ、駄目なんだ。
しっくりこない。
その点、ローゼルは気を遣わない、っていうか、一緒に酒飲んで仕事の鬱憤を愚痴り合って笑い合えるっていうか……。
とにかく一緒にいて楽しいんだ。
別にローゼルを令嬢と思っていないとか女扱いしていないとか、そういうのじゃなくて――」
急かされているかのように加速するネイトの声。
「とにかく、一緒になるならローゼルが良いって初めて会ったときから思ったんだ」
「初めて? え?」
「そう。
一目惚れだったのかもしれない」
これまで見たことがないほどネイトは赤面をした。
彼につかまれた手首が熱く、痛い。
ローゼルはさっと視線を逸らした。
どうしよう。
ネイトの顔が直視できない。
気まずさの中に、雨に濡れた庭の薔薇がしっとりと香りを放っていた。
その香りと雨の匂いに包まれながら、ネイトは一歩近づき、ローゼルの手をそっと包み込むように握った。
ローゼルは思わず息を呑む。
冷えた指先に彼の温もりが重なる。
「……俺は、ローゼルが、もう他の男のものになるのが嫌なんだ」
ゆっくりとローゼルは顔を上げた。
視線が絡み合う。
「ネイト……」
「ローゼルのことがすごく特別なんだよ」
心が甘く震えた。
冷たい雨の匂いがする。
握られたネイトの骨ばった手。
ルシアンの手と同じだ。
毎日剣の訓練を欠かさない武官の手。
ネイトは書記官だけど、毎朝欠かさず剣術の練習をしているという。
再び雨音がやけに響く沈黙が流れた。




