第118話 琥珀色のお茶と、知らない過去
ナディア・グロウディーナ公爵令嬢を追い返したローゼルは、胸の奥に残る高揚感を押し隠し、落ち着くために深く息を吐いた。
次に待つのは魔法騎士団による事情聴取だ。
ローゼルが刑部塔に入るなり、視線を感じた。
受付のところに、長身の美麗な男がじっとこちらを見ている。
同期のネイト・ファーヴァだ。
彼は爽やかな笑顔で、ローゼルに手を振った。
「ネイト」
「よう。見てたぜ、あれ」
くっくっと肩を震わせて笑って、近づいてくる。
「見てたって、さっきのグロウディーナ公爵令嬢の?」
少し気まずく思って、ローゼルは顔を歪ませた。
「ああ。いいねぇ、やるじゃん。
あの問題令嬢に一発かますなんて」
「やだなぁ、もう。
どこから見てたのよ」
「ああ。一部始終ね。
俺も胸がすく思いがしたよ」
ローゼルの目の前に来たネイトは大袈裟に胸をさすった。
「あれ?
ネイトも彼女に不快な思いをさせられたことがあったんだっけ?」
「そりゃあね。
彼女、自己主張が凄くて、はーーーーーーーーー」
かつてないほどの大きなネイトのため息にローゼルはびっくりした。
「彼女のクレインバール軍師閣下への執着心はすごくて、軍部全体がいい迷惑していたんだよ。
この前のオークレー次官と強行お茶会をしたことも然り」
ネイトはうんざりしたような表情を浮かべた。
「あぁ、あれね」
ローゼルは先日見た珍妙かつ不穏な御一行を思い出す。
オークレー次官がナディアを引き連れて、ルシアンの執務室に乗り込もうとする、まさにその直前だった。
「他にも彼女はいろいろやらかして、彼女の父親の公爵が総帥から直々に厳重注意を受けているほどなんだよ」
ネイトの声には非難の響きがあった。立腹しているようですらある。
「直々に注意って……」
ローゼルは口ごもった。
これは想像以上に、彼女のせいで軍部全体が痛い目に遭っているようだ。
「さっきだって、ローゼルをいまだに子爵令嬢だと思い込んでいたんだろ?」
「そうだよ。
あれはちょっと——なくない?」
ローゼルは、あえてその話題に便乗して口を尖らせた。
「だよなぁ、四大公爵家の娘なのに」
同感だと言わんばかりに、ネイトはあからさまに不快な顔になった。
「でしょ?
本当にそうなんだよね。
中級貴族以下は、じわじわ知れ渡る感じはやむを得ないけど、家の威信維持のためには、上級貴族は最新の肩書を把握していないといけないでしょ?
お茶会とかでも、爵位を誤るのは致命的だし」
「まあな。
それは大いに同感する」
そう言いながらネイトは、自分の顎を撫でながら、ローゼルをじろじろと見始めた。
「っていうかさ」
「え? なに?」
「爵位が上がると、やっぱ違うもんなんだな」
「何が?」
「肌艶も良ければ、髪の毛もツヤツヤ。
黙っていれば、すげぇ美少女令嬢だ」
ネイトは感心したように声を上げた。
「黙っていればは、余計よ。
けど、爵位が上がったのはお父様よ。
私は全然何も変わっていないって」
ローゼルは肩をすくめた。
「いいや。
なんか雰囲気が変わったぜ、ローゼル」
「そ、そう?」
一瞬、ローゼルはどきっとした。
前回ネイトと顔を合わせた時は、貧乏貴族女官のローゼルだった。
けど、今は、ルシアンという見目麗しい軍人と一つ屋根の下に住んでいる。
しかも、めちゃくちゃ毎晩、その殿方に愛されているローゼルだ。
見た目はもちろん、心情的にも全然違う。
男女が睦み合うと、互いの魔力も混じり合う――。
だからこそ、ローゼルはウルーム伯爵と継母シャルルの不倫関係を見破った。
ひょっとしてネイトも、自分とルシアンが深い関係なのを勘付いたのかもしれない。
(まずい。今はまだ婚約者のいる身。
このままルシ様との関係が明るみになれば、ルシ様の名誉に傷がついちゃう)
内心穏やかでないローゼルに対し、ふいにネイトはニカっと歯を見せてあどけなく笑った。
「なんか上等で上質な令嬢に生まれ変わった感じだ」
「上等……」
それはそうだ。
クレインバール邸で最高級品に囲まれて過ごしたのだから。
「し、失礼ね。
まるで今までが瑕疵品みたいな言われようだわ」
わざと怒った口調でローゼルが言うと、ネイトは楽しそうに笑った。
「いいね、その口達者さ。
中身は、俺の知っているじゃじゃ馬令嬢ローゼル・イースティリアだ」
「もう、じゃじゃ馬なんかじゃないし」
ローゼルは、気を悪くしたような素振りで、ぷいっとそっぽを向いた。
けれど、そんな仕草がネイトにとってツボだったらしく、急に吹き出した。
ローゼルもつられて「あはは」と声を上げて笑ってしまった。
「まあ、良いんじゃないの?
こういう他愛ない会話ができるローゼル、俺、結構好きだぜ」
ネイトは鼻を掻いた。
「ありがとう。私も楽しいよ。
結局さ、私の中身まですぐに上級貴族令嬢に変身できるもんじゃないからね」
ローゼルは腰に手を当て、ふふん、と自慢げに言った。
「んだよ、それ、得意顔するとこかよ。
まあ、俺はちゃんとローゼルが素敵な淑女で、立派な女官だと思っているぜ。
——午前中もお疲れさん。
かなり大活躍したらしいじゃんか」
改まった口調でネイトが言って、ローゼルの頭を撫でた。
ローゼルは褒められて、心がほっこりする。
ネイトは、こういうところがうまい。
上手におだてて、女の子をすっかり骨抜きにする天才だ。
「うん。すご~く頑張った。
褒めて褒めて」
甘えるローゼルに、ネイトは、「はいはい」と雑に返事をした。
「っていうか、契約書の情報を盗み出す手助けをした犯人は『外部人材』の女の子だったんだって?
度胸あるよな。
あれだけ厳格でお堅い部署の資料室でさぁ」
「度胸もあったけど、かなりひねくれていたよ」
フンとローゼルは鼻を鳴らした。
「ひねくれて……。
ああ、道理で。
『あたしは悪くない』って地下牢に入ってもずっと騒いでいるらしいぜ」
「はあ、なんか予想できる」
「ローゼルも本当によくトリックを見破ったよな。
俺、ちょっと感動したもん」
「まあね。
エレナとかレイノルド、ホキアンの協力もあったしね」
「それ。気に食わねぇなぁ。
今度はそこに俺とモレーノも仲間に入れろよ。
俺たちだけ同期で蚊帳の外ではつまらん」
「つまらんって。
ふふ、そうだね。
——でも、もうこんな事件、勘弁かも」
すっとローゼルが真顔になると、ネイトも真面目な顔つきになる。
「だろうな」
「後味悪いし……」
「そっか、そうだよな。
官僚が一人殺害されたんだもんな。
しかも、同僚」
「うん」
そこまで親しくなくても同僚だ。
しかも真面目に働く先輩。
そんな彼が痛ましい事件に巻き込まれて亡くなった。
ショックでないわけがない。
「悪いな。
こんな時にあれだけど、さらに巻き込まれたという……いや、自分から巻き込まれにいった事件。
騎士たちワンパン事件」
ネイトがばつが悪そうに、眉をひそめた。
「もう。ワンパンって言わないでぇ。
やっちゃった感が半端ないじゃない」
わざと明るい声をローゼルは出した。
「あはは、間違いない」
悪戯っぽい目でネイトがローゼルに視線を投げ、手をスッとローゼルの前に差し出した。
「改めて。
——お忙しいところ、事情聴取にお越しいただき、ありがとうございます。
お部屋を案内いたします、イースティリア伯爵令嬢」
「はい、よろしくお願いいたします」
ローゼルは、ネイトの手を取り、取調室へ向かう。
二階にあるという取調室。螺旋階段を上る。
ちらほら点在する窓の景色は、曇り空だった。
色彩をなくした灰色の世界。
「なんか久しぶりだな。
こうやって二人で歩くのって」
ネイトの声は心なしか弾んでいた。
「そう?
この前ピージャンス女官に捕まったとき、助け出してくれたじゃない」
ローゼルは、窓の景色からネイトに視線を戻した。
「ああ、そんなこともあったな。
でも、あれはここまで心穏やかじゃなかったっていうか。
あの女官に取って食われる前に脱出しないといけなかったっていうか」
まるで苦虫を噛み潰したように、ネイトは顔をしかめた。
「取って食われるって。
ひどい言い草だなぁ」
ローゼルは小さく笑った。
「だってそうだろ?
あの女官、最近追い込まれているっていうか、男漁りがすごいぜ。
彼女を見たら、大概の騎士も書記官も一目散に逃げるね」
ますますネイトの表情は曇った。
「そんなに切羽詰まってる感じなの?」
「ああ、ひどいもんさ。
あの人にもう少しローゼルとかエレナみたいな可憐要素があれば、こちらとしても、だいぶ心境は変わってくるんだけどなぁ」
「可憐。
あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない」
「当然だろ。
俺の同期は仕事も有能。容姿だって端麗だぜ。
モレーノなんか『アライグマみたいで可愛い』なんて王宮の侍女たちに言われているらしいし」
「ふふ、確かに。
モレーノはほのぼのとするよね」
ローゼルはクスクスと笑った。
モレーノは、磊落さのある丸っこいぬいぐるみのような見た目をしている。
二人は階段を上り終え、廊下を歩く。
それから、ネイトはローゼルの気を紛らわすかのように、他愛ない世間話を始め、ローゼルはそれに相槌を打つ。
本当にネイトはおしゃべりがうまい。
女性たちが喜ぶような美辞麗句をさらりと言っては喜ばせる。
逆に、敵愾心を向ける男性たちには、雄弁に堂々と物怖じせず意見を言い、果敢に立ち振舞う。
それなのに、いつの間にか、みんな、ネイトの持ち前の明るさと人懐っこさで仲良くなる。
そんなネイトだからこそ、常に令嬢たちの人気が高い。
だけど、彼には不思議とずっと婚約者がいない。
入省前はいろいろ浮名を流していたけれど、官僚になった途端、恋人らしい存在も作っていないという。
(たぶん、ネイトには心に決めた令嬢がいるのだろうなあ)
それが誰かは知らないけど、いつかその想いが実ることを密かに祈っている——。
*
ネイトに案内されて、武官用の会議室に入ると、そこには第3魔法騎士団長トーマス・ケリークロノムと第4魔法騎士団長ノーラン・ターラントが出迎えてくれた。
部屋はこじんまりとして、中央にぽつんとシンプルに大きなテーブルと椅子四脚があった。
テーブルの上には分厚い資料がたくさん。
たぶん、ここは貴族専用取調室として使っている部屋なのだろう。
部屋の端にはさらに質素なテーブルと椅子があり、羊皮紙と羽ペンにインク。水差しと木製のコップが用意してある。
どうやらそこが書記官の席らしく、慣れた仕草でネイトは腰掛けた。
「イースティリア女官はこっち。忙しいところ、ごめんね」
トーマスが手招きをして、奥側にある椅子を引く。
「ささっ、座って」
「ありがとうございます」
ローゼルは促されるまま座った。
そこへすかさず、ノーランがローゼルの目の前に、マフィンをのせたお皿を差し出す。
「お疲れ様。
大したものじゃないけど、エルド男爵殺人犯の逮捕協力のお礼だ」
「えっ、いいんですか?」
ローゼルは目を輝かせた。
「ああ、食べながら聴取に応じてくれればいい。
これ、王都でわりと人気のケーキ屋のだから」
硬い表情だが、ノーランの声音は優しい。わずかに口元も柔らかい。
「うわぁ、感激!」
「ちょっと、二人とも。
俺の時と全然対応が違いませんか?」
不服そうにネイトがぼやいた。
「俺は男に厳しいんだ」
むすっとしたノーランは、ローゼルと対面の席にどかっと音を立てて座った。
「あはは、ノーラン、違うだろ。
イケメンと悪人に厳しいの間違いだろ」
トーマスもケラケラ笑いながら、ノーランの隣に腰かけた。
「フン。当たり前だろ。
イケメンは何やってもカッコいいんだ。
ちょっとぐらい割を食ってもバチは当たらん」
「殺生な。
軍師閣下やモラレス卿に比べれば俺なんて全然ですよ」
ネイトが口を尖らせた。
「うわぁ、その発言、むかつくなぁ。
そういうときはケリークロノム卿の名前も付け加えておいてくれよ」
トーマスは、笑って資料をペラペラめくった。
思っていたよりも打ち解けた雰囲気に、ローゼルは面食らいながらマフィンに手を伸ばす。
ちぎって口の中に入れると、マフィンとドライベリーの味が広がる。
「美味しい〜」
ローゼルが小さく呟くと、ノーランの口元がたちまち緩んだ。
「お口にあったようで良かった」
「はい。ありがとうございます。
これ、すごく、好きな味です」
「よかったな、ノーラン。
あっ、お茶は今用意するから。
なんでも、ルシアン様お勧めのお茶があるそうで、今マルスクが持ってくるって」
そうトーマスが言っている間に、扉がノックされ、マルスクがティーカートを押して入って来た。
「失礼します」
「おっ、噂をすればなんとやら」
マルスクはローゼルと目が合うと、にこっと人懐っこい笑みを浮かべてお茶の用意をし出した。
湯気とともに立ち上るのは、甘く芳醇な茶葉の香り。
(あ、この香りは)
どうやらローゼルが好きなお茶を用意してくれたようだ。
温かいお茶がマルスクから全員に提供され、ふわりと心地よい香りが部屋を包み込む。
「では、イースティリア女官。
早速始めようか。
よろしく」
しばらくして、トーマスとノーランが改めてローゼルを見据えた。
マフィンをもぐついていたローゼルは、慌ててごくんと飲み込む。
騎士団長としての厳格な顔つきの二人に、ローゼルは異様なまでに緊張して、無意識のうちに肩に力が入った。
姿勢をしゃんと正す。
「は、はい。
よろしくお願いしまふ」
お辞儀をしたはいいが、つい語尾を噛んでしまい、ローゼルは焦った。
トーマス、ノーラン、ネイトの三人が同時にぷっと吹き出した。
「どんだけ気合い入ってるんだか」
「いいね、噛み噛みでも頑張る姿」
くすくすと小さな笑いが起こり、ローゼルはたちまち赤面した。
穏やかな雰囲気で取り調べは始まった。
二人から当日に起きたことの質問をいくつか受け、言葉を選んでローゼルは返答する。
ネイトが羽ペンで羊皮紙にサラサラと書く音が響く。
お茶のおかわりをマルスクが注ぐ。
熱を帯びた琥珀色の液体。
ふいに、トーマスが両肘をテーブルにつき、指を重ねた上に顎を乗せてローゼルをまじまじと見た。
「いやぁ、昨日も思ったけど、本当可愛くなって」
口調がずいぶんと砕けたものに変わった。
「え?」
ローゼルはきょとんとした。
「先日の平民女性に乱暴を働こうとした問題騎士の三人を捕まえた時もさぁ、ルシアン様と一緒に呑んでたんでしょ?」
「えっと……まあ……」
あからさまなトーマスに、ローゼルは語尾が小さくなる。
「しかも、イースティリア女官が三人をボコったんだよね。
すごいなぁ」
「いえ。
ですから、私は二人しかボコってないです」
ローゼルがすかさず訂正すると、ノーランとトーマスが顔を見合わせた。
ネイトは、またぷっと吹き出して、小さくクスクスと笑う。
時間差でトーマスが豪快に笑いだした。
「あははは!
やっぱ、すげぇなあ。
どう考えても、ありえないって。
この細腕で二人もボコる!」
「くっくっ。
うん、ルシアン様と目撃した民衆の供述通りだ。間違いない。
ご令嬢が武装魔法を使いこなしている時点でも表彰ものなのに、アイツらをボコったんだもんなぁ」
ノーランも手元にある書類を確認しながら、肩を揺らして笑いを噛み殺している。
「すごいよね、三下とはいえ魔法騎士の男をボコるなんて。
想像しただけで、俺たちがスカってするよな。……ひーひぃひっひっ」
堪えきれないと言わんばかりに、トーマスは盛大に腹を抱えて笑い続けている。
(ボコる。連発しすぎですって……)
もじもじしながら、ローゼルは視線を床に落とした。
「いやぁ、でも、最初話聞いた時、俺たちのことをみんな騙そうとしてるんじゃないかって疑ったんだよね。
でも、本当なんだもんね。うんうん」
トーマスは笑いすぎて出た目尻の涙を指先で拭きながら言った。
「はい、すみません。
……どうしても魔法騎士様でも許せなくて、お酒の勢いもあってつい手が出ちゃったんです」
感心されているのか、皮肉を言われているのか、ローゼルはよく分からないけれど、無性に恥ずかしくなって身を縮こまらせた。
「まあ、今回のは正義の鉄槌になってちょうどいいんじゃないか。
状況的に奴らの方が悪いんだし」
ノーランが肩をすくめ、ローゼルをフォローした。
「そうだね、まさか女の子に拳を食らわされるなんてね。
女を舐めるなって、奴らにはちょうどいいお仕置きになったと思うよ」
トーマスは頬杖をつき、気を取り直したように、にっこりと微笑む。
その傍ら、ノーランは書類をペラペラめくった。
「これで聴取を終わりだ」
ノーランはそっけなく言った。
「え? もう?」
ローゼルは拍子抜けした。
「ああ。おおかたの話はルシアン様から聞き終えているし、とりあえずイースティリア女官がボコったっていう証言だけ欲しかったんだ。
重複の質問にもブレる感じはなかったし」
「まあ、マフィンの残り、食べちゃって。このお茶もなかなかだね」
トーマスがティーカップを手に取った。
「うん。これはいい茶葉だ。うまい」
ノーランも頷いて、お茶を飲み始めた。
なんとなく沈黙になって、みんな思い思いにお茶を堪能する。
「ついでにさ、聞きたいことがあるんだけど」
そのうちトーマスが躊躇いがちな声を出した。
「はい、なんでしょう?」
「結婚祝い何がいい?」
「……っ!」
思わずローゼルはお茶を噴き出しそうになって、ぐっと堪えた。
喉に詰まって、コホコホと咳き込む。
ネイトとノーランが、ちらっと何か物言いたげにローゼルを見た。
「あぁ、ごめんごめん。
大丈夫?」
トーマスがティーカップを置いて、立ち上がった。
「コホン……大丈夫です。
ちょっとび、びっくりしただけです」
「そう? 驚かせてごめんね」
再びトーマスは椅子に腰掛けた。
「いえ、平気です」
「まあ、遅かれ早かれ――。
そりゃあね、いまはウルーム伯爵が行方不明で婚約破棄できない状況だけど、いわゆる二人は公然の恋人同士なんだし。
午前中のエルド男爵殺害事件解明のときも、ちょいちょい甘い空気があったって言うじゃん?」
「こ、こ、公然って……!
あま、甘いって……」
ローゼルは困惑した。
甘いって、頭をぽんぽんされた時だろうか。
でも、さっきもネイトに頭を撫でてもらったけど。
「何を今更恥ずかしがってんの。
みんな知ってるよ」
混乱して顔を真っ赤に染めるローゼルにトーマスは愉快そうに続けた。
「ルシアン様が君に食堂で求婚して、その後二人でどこか姿を消したって。
いいじゃん、夜に呑みに行くような間柄なんだし」
「え、え、え……」
「あの人、相当、浮足立ってるよ。
あんなルシアン様、俺、初めて見たよ。
で、直上官の総帥とかからは、ルシアン様に結婚祝いは『何がいい?』って、定例軍法会議の最中に聞かれているぐらいだからね。
あれ、ちゃんと総帥にも報告している感じだよ」
「え……。
そんな上の方にまで知れ渡っているんですか?」
ローゼルはぎょっとした。
「そりゃあそうだろ。
あれだけの美形のくせに、ずーっと、ずーっと、令嬢に見向きもしなかった人だよ」
「そうだよな、情報収集と称して娼婦館に深く入り浸っていた人が豹変したんだ。
今じゃあ、一人の令嬢にぞっこん。しかも、これが皇族会議のテロを未然に防いだ功績のある女官だ。
そうなれば、当然、上も騒ぐ」
ノーランがお茶に視線を落としたまま、冷ややかに言った。
どこか棘のあるような口調。
「え? 娼婦?」
ローゼルは息を呑んだ。
知らなかったルシアンの過去。
頭の中が真っ白になって、ローゼルの胸の奥に冷たいものが広がった。




