第116話 断罪の果ての命乞いと、忍び寄る影
「彼女が欲しかった情報は、赤ファイルの棚の中身以外は全部手に入れたからいいの」
ミレイユは勝ち誇ったような笑顔を浮かべた。
そう、これであたしはすべての恩を返したもの。
「それに、赤ファイルの契約書の肝心の内容が全部分からなくても、赤ファイルの契約書一覧があれば、どこの領主が何を扱っているのかくらいは簡単に読み解けるわ」
ミレイユはなんだか愉快な気分になってきた。
奇妙な顔をする面々。
憮然とするくせに、みんな、あたしから目が離せない。
「それなのに、あの連中は欲張って、何かの情報が欲しいって言っていたわ。
ねえ、知ってた?
法務省のごく限られた人間の目の虹彩がキーになるんだって」
ミレイユはルシアンの顔を覗き込んだ。
「ああ。お前がおこなったのか?
男爵の目をくり抜いたのは」
「失礼ね。あたしじゃないわ、あの連中よ。
お高く留まっている『黒の杖』っていう連中。
平気で残酷なことができる野蛮な奴らよ」
ミレイユはフンと鼻を鳴らして、顎を反らした。
「でも、結局目玉だけではあの契約書の本棚に触れれなかったでしょ?」
ローゼルが青ざめた顔でミレイユを見た。
へえ。やはり、この女は秘密を知っている一人だったんだ。
昨日さり気なくこの女の行動を観察していたが、あたしが苦労してようやく開けたキャビネットを平然と開錠した。
そして、保管されている赤ファイルを触っていた——
その上、あの本棚に契約書を収納していた。
つまり、選ばれた法務省の人間だ。
ミレイユは、ローゼルを睨みつけた。
(どうせなら、この女の目玉を抜き取ってやれば良かった)
澄んだ綺麗な蜂蜜色の双眸。
まるで宝石のような瞳が発する、見たこともないような強い光。
さっさとこの女を生贄に捧げていれば、話が早かったんだ――
ギリッと歯軋りをする。
やがて、ムカムカと嫉妬に似た怒りが込み上げてきた。
納得いかない。
こんな女がどうして選ばれ、大事にされているの?
「あんたはどうして触れたのよ」
ミレイユは食って掛かる勢いで、ローゼルに尋ねた。
ローゼルは一瞬、きょとんとして、肩をすくめる。
「そりゃあ、法務省の官僚だもの」
「は? 単なるお手伝い女官の間違いでしょ?
だいたい、秀才の集まりに女がまともに仕事ができるとは思えない。
どうせ、ズルをしたに決まっている」
毒づくミレイユに、ローゼルは顔を歪める。
「あのね、女官もその辺の官僚と同じ官吏登用試験を受けるのよ。
そこで合格しないと女官にだってなれやしないんだから」
「へえ、バカっぽそうだから色仕掛けで女官になったかと思った」
ミレイユは小馬鹿にしたように嘲笑った。
怒ってムキになるかと思いきや、ローゼルの反応は冷ややかだった。
ヒンヤリとした瞳。
どことなく肌がざわつくのを感じた。
「そう思いたいなら思っておけば。——とりあえず話を戻すね。
あの本棚に触れる鍵は、その瞳を持つ人物の生体反応だけ。
瓶に保管した目玉だけでは意味がないの」
「へえ、じゃあ、殺し損だったわけね」
へへへ、馬鹿みたい。
そう自嘲するミレイユにローゼルは憐憫の眼差しを向ける。
なに、その目。
ムカつくんだけど。
「――そうやって、身体の一部だけ切り取って、鍵を解除するような無法者がいるから、王城で最も結界術に優れている魔法使いが五体満足なのを前提にした警備システムを作ったのよ。
残念だったね、殺人までして肝心の情報を手に入れれなくて」
「別に」
ローゼルの嫌味に、ミレイユはさらりと流した。
「そうよね。詳細内容は漏洩しなかったけど――エルド男爵のシャツ。
それがあれば、裾の刺繍が鍵になるキャビネットが開くからね」
ローゼルは低い声で恨みがましく言い放つ。
「けれど、忘れないで。
あなたは赤ファイルの情報を転記し、奴らに手渡した。
みんなが長年一生懸命守っていた情報を――重罪よ」
今にも泣き出しそうな顔。
陶磁器のように白い肌が怒りで赤く染まる。
形の良い赤い唇を噛みしめる。
睨みつける表情すら、どうしてこんなに可愛く見えるんだろうか。
あぁ、本当悔しい。
「そんなもん、しっかり統制が取れていなかった方に問題があるんじゃないの?
なにが法を重んじる法務省よ。
所詮、性欲に塗れた男たちばかりだったじゃない」
ミレイユは腕を組み、開き直って口角をニッと吊り上げた。
(ふふん、この期に及んで高尚ぶってるんじゃないわよ)
「そういえば、あなた、今世紀最大の悪女なんて呼ばれているのよね?」
ミレイユは意地悪な笑みを浮かべた。
「男たちに尻尾を振って腰振りまくっているのはどっちかしら。
ご立派な婚約者だっているくせに、他の男に色目使って。
麗しの騎士様から求婚されたからって、いい気になんな。
クソったれ」
一瞬だけ、ローゼルがぎくりとした。
ふうん。
ミレイユから獣が歯を剥き出して笑うような表情が広がった。
見つけた。この女の隙。
弱点とも言えるもの——
奪ってやる。
この女を奴らの生贄に差し出すんだ——
ゆったりとした動作で、ミレイユは髪飾りを抜き取った。
髪の毛をしっかりと留めるために、掌ほどの長さと絶妙な反りを持たせた銀細工――。
一見すれば、職人技が光るおしゃれな花柄の髪飾りにしか見えない。
ただ、留め具にしては妙に重く、芯が通っている。
「あたしにあれこれ説教すんなよ。
この売女がっ」
ミレイユがそう、吐き捨てた。
次の瞬間、彼女は勢いよく髪飾りの柄を引き抜いた。
剥き出しの刃が顔を出す。
全員がハッとした顔になる。
(だけど、遅いよ)
ミレイユは嗤って、ローゼルに飛び掛かった。
目玉を、血液を、みんなに愛されているポジションを、あたしにすべてを差し出せ!
だが、それは一瞬だった。
ミレイユは動きを封じられた。
騎士たちにぐるりと取り囲まれていたからだ。
ミレイユの首元には、ルシアンとノーランの剣先が当てられていた。
ローゼルの前にはエレナが頑丈な防御壁を張った。
レイノルドの手のひらからは、雷のビリビリとする球が光って見えた。
他の騎士たちも剣を抜いて、ホキアンは木箱の蓋を盾にしてローゼルを庇う。
一歩踏み出せば、間違いなく殺される。
ヒンヤリとした冷や汗が背中を伝う。
(信じられない。俊敏すぎよ)
だけど、これがこの国随一の武装魔法使い——魔法騎士団。
「減らず口も大概にしろ。ミレイユ・カーネル」
ルシアンから漏れ出た声は、まるで深い闇の底から這い出してきたようで、ミレイユを震え上がらせた。
「窃盗、転売、風紀違反、薬物犯罪に殺人。
その上、国家機密漏洩と国家転覆罪。
個人の倫理違反から国家反逆に至るまで非常に重いものだ。
これは死刑の大罪に相当する」
死刑。
鋭い衝撃が走って、ミレイユは絶句した。
すぐさま騎士たちがミレイユから短剣を奪い、跪かされ、力尽くで両腕を後ろに回されると魔法の鎖で拘束された。
「……くっ! 痛い!
もっと優しくしてよ」
「うるさい、黙れ」
全然麗しくない筋肉ムキムキのごっつい石みたいな顔の騎士が一喝する。
どうしてこういう時、美しい騎士ではないの?
どうせなら、恐ろしくても彼のような——
ミレイユはすがるような目でルシアンを追った。
だが、ルシアンがミレイユに興味を失くしたように目を逸らし、剣を収めた。
「ノーラン。
エルド男爵夫人と子どもたちは無事に保護したか?」
「はい。ショックを受けてはおりますが、気丈に振る舞っているご様子。
夫人は彼女たちの行った狼藉をすべて証言すると約束してくれましたし、男爵の遺体もすぐ引き取りたいとのこと」
「そうか。
とりあえず、それは達成したな。
当然、物的証拠も問題ないよな?」
「はい、ぬかりなく。
すべて揃えております」
「ならいい。
——ローゼ、大丈夫か?」
ふいにルシアンは、ローゼルの元に駆け寄る。
ローゼルは、驚愕のあまり硬直していた。
ルシアンがそんなローゼルの両肩を触って、彼女の視線に合わせるように屈む。
「ローゼ?」
そう呼ばれた途端、ローゼルは弾けるように顔を上げて、何度も瞬きをする。
「は、はい。あ、ありがとうございます。
すみません、油断してました……」
ローゼルはどこか呆然としていた。
今頃になって自分が襲われそうになった、周囲がすかさず助けた。
その事実をようやく受け止めた、そんな感じだ。
徐々に青ざめる。
しまいには、そんな自分を恥じるように悔恨の念を示す。
「いや、大丈夫ならいい」
ほっと安堵するルシアンの声。
すっと離れるも、彼はローゼルの頭をぽんぽん優しく叩いた。
なによ、あれ。
たちまちカッと頭に血が昇った。
なにせ、ミレイユには、そのすべてがローゼルの計算された演技のように見えたからだ。
なんて忌々しい女……。
「ふざけんじゃないわよ、澄ましやがって……!
中身なんてどうせあたしと同じ、男に媚びて上のポジションを掠め取った売女のくせに!
あたしは悪くない、あのスパイ女に唆された被害者なんだからね!」
ミレイユは叫んだ。
騎士たちがミレイユの頭をぐっと床に押さえつける。
「黙れ!」
ルシアンがゆっくりとミレイユを見下ろす。
何度見てもそのご尊顔は麗しい。
どうか、そこの女に微笑みかけたようにあたしにも笑って見せて。
ミレイユは猫なで声で、語りかけた。
「ねえ、ルシアン様、こんな地味で薄汚い女のどこがいいの?
私を選べばもっと気持ちよくさせてあげるわよ。だから、助けて」
そんな女よりもあたしの方が、断然女として可愛げがあるし、男を悦ばせるテクがある。
だから、ねえ——
ルシアンは無表情だった。
冷徹な空虚。
瑠璃色の瞳の底の深淵な闇。
吸い込まれそうな——濁流に呑み込まれてしまいそうな——。
心臓の鼓動が耳の奥で轟く。
鋭い棘に貫かれたような戦慄が走って、自分が激しく脅え始めているのに驚いた。
「この女をさっさと地下牢に連れて行け」
ルシアンが短くそう言った途端、「はっ!」と、一斉に屈強な騎士たちがミレイユの両脇を抱えた。
***
大声で騒ぎ立てるミレイユに容赦なく騎士たちは猿轡を嵌めた。
「黙れ、この大罪人が」
ミレイユは瞬く間に、廊下に連れ出された。
ローゼルはきゅっと唇を一文字に結び、拳を握り締めた。
「ローゼル、大丈夫?」
エレナがそっとローゼルの肩に手を置いた。
「……うん。エレナ、いろいろありがとう。
私、ほとんど何もできなかった」
あの子が殺意を剥き出しにした目を向けた時、襲いかかってくると分かっていたのに、何もできなかった。
ただ、それを静かに眺めていた。
ローゼルは襲い掛かってきたミレイユの血走った目を思い出すと、息が詰まった。
「何言っているのよ。
わたしは、ものすご〜く助かったよ。
ずっとあの子に嗅ぎまわれてて、結構迷惑だったんだから。
ようやくスッキリできた感じ」
エレナはにこっと笑った。
「そんなに酷かったんだね」
「うん。
しかも、あの子だけじゃなくて、本当に本当〜に迷惑万全っていうか……」
大きくため息をつくエレナに、ローゼルは目を瞬いた。
「え? それって全部ランス絡みとか?」
「そっちもあるけど、厄介だったのは、魔法省の情報を入手しようとする『外部人材』の子たちだよ」
「魔法省の情報を……」
魔法省の情報といえば、この国の最新魔術や、代々受け継いできた研究のノウハウが詰まっている国家機密だ。
ローゼルは自分の顔が恐怖に歪むのを感じた。
「そう。
色仕掛けで魔法省官僚を篭絡しようとしている子、魔法省の塔にコソコソ忍び込んでくる子。
で、極めつけがあの子。
だからね、前々からレイノルドにそのことを相談していたの」
エレナがちらっとレイノルドに視線を投げた。
「ああ、それでレイノルドがエレナの研究室に頻繁に足を運んでいたね」
ローゼルは合点がいって、口元に手を当てた。ちらっとレイノルドを見た。
「だから、言っただろ? 仕事だって」
ぎろりとレイノルドがローゼルに視線を投げた。
ローゼルはたちまちばつが悪くなって、愛想笑いを浮かべる。
「あはは、ごめん。
横恋慕なんて言って」
「まったくだ。
ちゃんと仕事してるぞ、俺だって」
レイノルドが憮然として腕を組んだ。
「だから、ごめんねって」
罪悪感が込み上げたローゼルは、手を合わせて拝むように必死で謝った。
「まあ、分かってくれればいい。
今後はそういう『外部人材』は間諜容疑で見つけ次第、積極的に捕縛していく予定だと父上が、いや総帥がおっしゃっていたしな」
どこか安堵した色を覗かせながら、レイノルドは後頭部を掻く。
視線の先は去っていく魔法騎士団員たちだ。
その一瞬、ルシアンが振り返って、ローゼルに微笑みかけた。
どきっとした。
ほんのり胸が温かくなった。
「いいのかい?
すんなり戻ってるけど。
怖い目に遭ったんだから、もう少し一緒にいたらいいのに」
ホキアンがそっと囁いた。その目には、からかいの色と心配が入り混じっていた。
「うん、大丈夫。
ちゃんと昨晩お話したから」
「お話?」
エレナが首を傾げた。
「正式に婚約するまでは、王城で接触し合うのはなるべく避けようって」
「今更? あれだけ派手に求婚劇をしたのに?」
ホキアンが呆れたような声を上げた。
「そうよねえ。
昨晩話したわりには、頭ポンポンもしていたし」
エレナも追随した。
そう言われると、ローゼルはいたたまれない気持ちになって、恥じらいの笑みを浮かべるしかない。
「そうなんだよね、今更。なんだけどね。でも……」
ローゼルは苦笑を浮かべ、去っていくミレイユと騎士団たちの後ろ姿を見送る。
「あの子みたいに婚約中であることを口実に言いがかりをつけられたり、あるいはクレインバール卿が気にかけている女官というだけで、狙われるかもしれない。
今後も王城の情勢が不安定だし、彼の足を引こうとする勢力が動くことだってありうる。
だから、双方のためにも、王城内では距離を置こうって――。
私からそう提案したんだ」
「――確かに。今はそれが賢明かもしれない」
レイノルドが顎を撫でながら同意した。
「えー、レイノルドも冷たいなぁ。
僕は武官は苦手だけど、クレインバール卿がローゼルを大事にしている、って凄く感銘を受けたよ」
ホキアンは、興奮を滲ませた。
「わたしも思ったよ!
あの子、ローゼルのこと、すごい目の敵にしていたみたいだけど、クレインバール卿は何かあれば斬りかかるつもりの目だったもんね」
エレナが声を上げると同時に、そのローブのポケットから小次郎が顔を出して、「キキィ!」と前足を上げて共感するように鳴いた。
「だからだ」
慎重なレイノルドの声が一段と低くなる。
「実は、昨日ローゼルが異国の傭兵たちの事前レクリエーションを見に来たんだが——
あのあとオークレー次官が『あの女官は何しに来たんだ?』と矢継ぎ早にローゼルに関する質問ばかりぶつけてきたんだ」
「そうだったの?
ごめんね」
ローゼルは眉をひそめた。
「いいや、ローゼルは悪くないから気にするな。
けど、どうやら俺とローゼルが一緒にいたのが気に食わなかったみたいで、ずっと何か企んでいるんじゃないかって疑って来て面倒だったんだ」
はあ、とレイノルドはため息をつく。
「あまりにもしつこいから、咄嗟に思いついた『外部人材の衛兵の契約解除について、どうすれば法律に抵触せずに穏便に解雇できるのか』という相談で俺が呼び出したっていうことにした。
一応次官も筋の通った説明だと思ったんだろうな。
それ以上追求しては来なかったが……悪い。
今度、改めて相談にのってくれ」
ローゼルはゆるゆると首を振る。
「ううん。お安い御用だよ」
「目を付けられたね、ローゼルも」
苦虫を噛み潰したような表情でエレナが呟いた。
「だよね……」
ローゼルはうなだれた。
できれば、あの御仁とはあまり接点を持ちたくなかった。
というか、持ってはいけない——そんな直感があった。
「あの人、父も厄介な人物だって言っていたよ。気をつけて」
ホキアンまで慎重な声を出した。
「うん、ありがとう」
ローゼルはやんわりと微笑んだ。
その一方で、昨晩のことを思い出していた。
資料室での大捜索後、宰相やライアナース卿、総務大臣のバーンズリー卿、ルシアン、第2と第4魔法騎士団含め、夜遅くまで打ち合わせは続いていた。
絨毯だけでなく、魔法発動を隠匿するカーテンの出現まであったこと。
ミレイユの私物から出てきた証拠品の数々。
それから、宰相の予言どおり、といえばいいのか——何者かが侵入しようとしていたこと。
問題は山積みだった。
まず、どうやって王城にあの絨毯とカーテンを持ち込んだのか。
どれだけ記録を探しても、搬入した形跡や履歴、申請は一切残っていなかった。
それから、あの絨毯に魔法陣を描いたのは、皇族会議でローゼルが見つけた銀髪の男で、ほぼ間違いない。
だが、肝心の絨毯の魔法陣の内容については、複雑な魔術式が幾重にも重なっているため、解析まで少々時間がかかるらしい。
そんなこんなで、疲労困憊で帰路についた。
令嬢を家まで送る名目で、ルシアンとローゼルは同じ馬車で帰宅することになり、エレナはエレナで、レイノルドにお屋敷まで送ってもらうことになった。
ガタゴトと規則正しく揺れる馬車で、ルシアンは王城を出ると向かいの座席からローゼルの隣へと移動する。
――ローゼに悲報だ。
あのオークレー次官がローゼに興味を持ち出した。
どうやら、法務省資料室の一件で、ローゼが真相にたどり着いたのを快く思っていないようでね。
うんざりしたようなルシアンの声が、耳元で響いた。
――でも、何があっても守るから。俺の元から去らないで欲しい。一緒にいてくれ。
そのままルシアンはローゼルの細い腰を引き寄せた。
引かれたカーテンの隙間から街灯の光がかすかに差し込み、ルシアンの輪郭を照らした。
けれど、その表情はどこか切なげで苦しそうだ。
そうか、彼も不安なんだ。
そう思ったら、胸の奥から柔らかな熱が込み上げ、ふと微笑みが零れた。
――どこにも行きません。
私の帰る場所はルシ様のところだけです。
ゆるゆると首を振って、そっとその双眸を覗き込んだ。
車内を流れていく街灯の光。
互いに見つめ合い、静かな呼吸が重なり合った。
ついばむような口づけは、貪るような官能に満ちたものへと変わっていく。
その時、馬車が大きく揺れた。
その拍子に、ローゼルの身体は軽く浮き上がって、態勢を崩す。
そのままルシアンの胸に飛び込む形で、すっぽり収まった。
ルシアンの心臓の音。
石畳を走る馬蹄の音よりも大きい。
すごく聞こえる。
ルシアンはぎゅっとローゼルの身体を抱きしめた。
どこにも逃がさない、という強い意志が感じられた。
相手がルシアンだからだろうか、それがものすごく嬉しい。
——ルシ様。
オークレー次官のこともありますし、いっそのこと王城で業務以外で接触するのは避けませんか?
私はルシ様の足枷になりたくない。
それだけは絶対に嫌なんです。
ローゼルから口火を切って、抱きしめ返した。
束の間ルシアンは逡巡しながら、長い指でローゼルの髪を結っていたリボンを器用に抜き取って、呟く。
——気は進まないなぁ。
手入れされた栗色の髪がさらさらと零れ落ちた。
その髪を指先で愛おしげに遊びながら、ルシアンは不貞腐れたような顔つきになった。
車輪が激しく石畳を鳴らす。
しばらくして、ルシアンは大きくため息を吐き出して、ローゼルを持ち上げるようにして膝に乗せた。
——だが、今は屋敷に帰ればローゼがいるもんな。
——そうです。
お屋敷に帰れば、人目を気にすることはありません。
ルシアンは少し寂しそうな表情を浮かべながら、ローゼルの顎に手を掛けた。
瑠璃色のルシアンの瞳が、銀色の光を弾いている。
——致し方ない。
明日の午後もトーマスから招集がかかって刑部省に来るんだっけ。
十分、気をつけろよ。
あの御仁が何か突っかかってくるかもしれない。
——はい。……っ。
言い終わるなり、ぐっと顔が近づいて唇を塞がれた。
深く、嬲るような口づけ。
たちまち身体の力が抜けていく。
ローゼルの心には、払拭できない不安が押し寄せていた。
どうか、この甘い幸福が奪われませんように。
そう祈りながら、やがて彼からもたらされる痺れるような快感に陶然となって、何も考えられなくなった。




