第11話 街道の魔物と、深紅の炎
まずい、非常にまずい。
ローゼルは唇を噛みしめた。
あれだけ晴れていた空は、いつの間にか暗雲に覆われ、今すぐにでも雨が降ってきそうな気配だ。
やけに土の湿った匂いが強くて、じっとりとした重い湿った空気が身体に纏わりつく。
とても不愉快だ。
息は荒く、汗が滴り落ちる。
ローゼルは激しく肩で息をし、滴る汗を手の甲で拭った。
あぁ、こんなに激しく身体を動かしたのはいつぶりだろう。
兄が留学する前に手合わせした剣術の練習以来か。
兄が留学して以来、女が男の真似事をするのは「はしたない」と継母から禁止されて、剣すら握っていない。
(だとしたら五年振りかしら)
こんなに力も魔力も限界まで削られるなんて。
その時、生臭さと死臭が入り混じる人の形をした魔物が、ローゼルに覆いかぶさるように襲い掛かった。
(ヤバい、出遅れた!)
魔法詠唱をしてももう間に合わない。
物凄い速さでローゼルの前を横切る屈強な体格の赤髪の若い男が、魔物をなぎ倒した。
「大丈夫ですか?」
赤髪の男は、剣を目の前に現れた魔物に構えたまま、ローゼルに尋ねた。
「は、はい……」
内務官が扱う書類は国家機密を含むものが多い。
今回ローゼルがゴルマン伯爵に届ける書類も、皇帝の玉璽付きのため極秘扱いになる。
そういう場合、万が一、途中で狼藉者に襲われる可能性を加味し、内務官の出張に付き添う馬車の御者は、元剣士や元軍人などの剣豪ばかり。
どうやら、この彼もまた過去凄腕の冒険者だったらしく、剣の太刀筋に迷いがない。
(これって、王宮魔術師がいないとピンチの状況じゃない?)
任務や向かう先に応じて、さらに護衛を増やし、王宮魔術を伴う場合がある。
だが、今回ローゼル自身が多少の水属性の攻撃魔法が使えるのと、日帰り出来る距離だったため、魔術師や護衛は同行していない。
けど、まさかこの距離で、しかも真っ昼間から魔物が街道で出るなんて――。
運が悪い。
だからといって、ここで悲観してまんまと魔物にやられるほど、私はやわじゃない。
大事な書類は、まだ馬車の中だが、「王宮内務官出張マニュアルガイド」にあるように座席の下の二重底のところにしまってある。
だから、誰かが勝手に持ってしまう可能性は低い。
「協力して、とにかく無事に帰りましょう」
ローゼルが肩で息をしながら、剣を構える御者に言った。
御者は、一瞬驚いたような顔を見せるが、次には口角をにっと吊り上げた。
「もちろんです」
そう、この場を逃げ切って、二人とも五体満足で王都に帰る。
それを目標としよう。
ローゼルは息を整え、改めて目の前の魔物の群れを睨みつけた。
見れば見るほど、不気味な連中だ。
人型の魔物のようだが、これがとにかく気持ちが悪い。
毛むくじゃらで、歯が顎まで垂れ下がっていて、腐敗した皮膚と血走った目。
中にはカビの生えた皮膚や突き立った耳の魔物も入り混じっている。
腐臭も凄まじく、目の奥が灼けるように痛み、こちらの呼吸さえ苦しくなる。
たぶん、これは「グール」という魔物なのだろ。
けど、何か不可解だ。
ローゼルが以前魔物辞典で読んだ知識では、「グール」という魔物は、死肉を食べ、生き肉は好まないはずだ。
それなのにコイツらときたら最初に無抵抗の馬車の馬を一斉に襲い、食い殺した。
(その違和感は元冒険者だった経験値豊富な御者なら、私以上に感じているはず)
「この魔物たち、何かおかしいですよね?」
ローゼルが御者の剣士に問いかけると、男は剣を振り払いつつ答えた。
「女官殿も気付きましたか?
コイツら、動きが速すぎるし、群れで狙いを定めています」
低い声には緊張が滲んでいた。
「俺が文献で読んだグールは、こんな集団で襲いかかってくることはありません」
「ええ、私の知識も同じです。
知能があったとしても、連携が取れる五、六頭で行動しています。
だいたい、こんなに集団で行動したりしません」
「そうですね。
奴らは、それ以上の数になると統制が取れないからです。
こんなにうじゃうじゃ現れるはずがありません」
ざっと数えたところで、まだ二十頭はいる。
「はい。まさにそのとおりです。
特にグールは生きた獲物は好まないはずです。
これでは、まるで東方の国に伝わる食屍鬼そのもの。
集団で襲いかかってくる点はゾンビと同じです」
ローゼルの声に御者も大きく頷いた。
「確かに、外見の特徴はゾンビの方が当てはまる点は多そうですね、女官殿」
それでも、しっくりこない。
(新種の魔物なのかな? 何かが違う)
「疑問はつきませんが、悩むのは後にしましょう。
まずは、女官殿のおっしゃるとおり、生きて帰ってからです」
御者が元気づけるように言って剣を構え直す。
「はい、同感です」
御者の華麗な剣捌きとローゼルの水魔法の矢で、三分の二の魔物の群れは退治できた。
けれど、まだ残り三分の一残っている。
ここは生きて帰ることが大前提。
運のいいことに私たちはまだ無傷だ。
その時、痩せた出っ歯の魔物たちが涎を一斉に垂れ流し、悲鳴のような咆哮を上げた。
それを皮切りに、魔物たちは二人に襲い掛かった。
「清き流れよ、鋭き刃となり射抜け
――水矢連射!」
唯一使える攻撃魔法――水の矢を同時に五本放つ。
その間に御者が剣を振りかざして、何体かのグールを切り倒す。
本来グールは、光か火属性の魔法しか有効的に効かない。
けれど、このグールは外部攻撃に弱く、水魔法でも倒せた。
ローゼルの水の矢に当たった魔物は瞬く間に魔素となり、黒い煙のようなものをあげて塵となった。
だが、さすが人外なるものだ。
力は人間より圧倒的に強い。
魔法が使えなかったらきっとひとたまりもなく、今頃食われていただろう。
数が減ってほっとしたのも束の間、むっとよりさっきより強烈な腐臭が漂い、ローゼルと御者は同時に顔をしかめた。
何か巨大なモノの気配があった。
引きずるような音。
重たい物体。
のっしり、のっしり、のっしり。
かすかに、しかし確かに森の向う側からこっちに近付いてくる。
得体の知れない歩き回る不気味な魔力の生きモノが――。
まだ他にも魔物がいるのか。
ローゼルと御者は顔を見合わせた。
心臓がどくんどくんと音をさらに立て始める。
やがて、街道端の森から、蠢く巨大な影が見え、森の鳥たちが一斉に空へ飛び立つ。
その瞬間、肌を刺すような凄まじい魔力量に戦慄が走った。
不気味なほど漂う莫大な魔力。
全身が粟立つ。
(この魔力は魔物じゃない、それを超越したバケモノだ……!)
やがて、腐敗臭を振り撒く“それ”は、森の茂みから姿を現した。
ぞっとした。
血も凍るような不気味さがある、とてもグロテスクな有機体だ。
複数の人間の頭のようなものが一つの身体にくっついて、赤黒く腐乱臭を漂わせる。
黒い丸太のような胴体に、おかしなところから二本の腕や足が飛び出し、いくつもの人間のパーツを継ぎ接ぎした異様な姿。
二本足で立っていられるのが不思議なほど、奇妙なバランスで動いている。
「ひっ……!」
思わずローゼルは悲鳴を上げた。
皮というものがすべて剥がれ落ちて鈍く赤く黒光りしている。
なんとおぞましい生き物だ。
声を出していないと気がおかしくなりそうなほどだった。
その声に気付いて、“それ”がゆっくりとこちらを向く。
鼻がもげて、半分砕けていた顔には血と脳漿を垂れ流している。
窪んだ漆黒の淀んだ眼。
白目はなく、吸い込まれそうな闇が広がっている。
目が合ってしまった――。
その瞬間、“それ”は、大きな口を開け、ローゼルに向かってにっと嗤った。
歯が真っ赤に染まり、隙間にはなにやら細かい肉片のようなものが挟まっていて、唇からも赤い糸に似たものが垂れていた。
ローゼルは慌てて自分の手で口を覆って、悲鳴を飲み込んだ。
後ずさろうとした足がもつれ、尻もちをついた。
それでも “それ”から一切目が離せなかった。
ドクドクと耳元で血が波打ち、喉元まで熱いものが込みあげて来る。
“それ”はローゼルを見つめ、嗤いながら、ゆっくり向かってくる。
(やだ、来ないで。逃げなきゃ)
それなのに動けない。
不意に、視界から“それ”が消えた。
否、“それ”がそれまでの鈍い動きから考えられない凄まじいスピードで、ローゼルに飛び掛かるように襲い掛かってきたのだ。
シュンっ、と空を切る音が聞こえた。
横から飛び出てきた御者がローゼルの前に立ちはだかって、“それ”の頭のひとつを勢いよく切り落とした。
切断された頭の一つがぽろりと地面に転がる。
御者が“それ”と対峙するように、改めて剣を構え直した。
だが、“それ”はすぐに態勢を立て直す。
ぐるりと他の複数の頭を回転させて、違う一つの頭を体の正面に位置付けた。
今度の正面を向く新しい顔には、目玉がない。
ぽっかり開いた底なし沼の眼窩。
つうっと赤黒い血が一筋流れ出す。
新しい顔が御者と向き合う。
口は裂けたまま開いていた。
こちらを嗤って見下ろした。
否、そんな気がした。
歯がぽろりと零れ落ちる。
その歯に気を取られていた刹那、突如“それ”の腕が大きく振り上がり、御者が構えた剣を横に真二つに折った。
カキーンと甲高い音を立てて地面に落ちる。
「くそっ!」
御者は驚愕と憤怒に顔を歪めた。
次には、ゴツッ、という鈍い音がした。
“それ”が御者の剣を折った反動で、もう片方の腕を振り下ろし、御者の身体を地面に叩きつけた。
御者は不意打ちをくらった形で、無防備に地面に投げつけられた。
彼の頭は、石畳に強く打ち付けた。
石畳の上にじわじわ血の水たまりが広がり、やがて御者は動かなくなってしまった。
それまで様子を窺うようにしていたグールもどきの口角が一斉に、にやりと奇妙に吊り上がる。
嗤った。
全身が恐怖で凍りつく。
魔物たちがのっそりと御者に近寄り、口を開けて食らいつこうとする。
だめ、だめ、だめ!!!
ローゼルはありったけの魔力を込めて詠唱し、水の矢を放った。
矢は御者に群がるグールを貫き、次々と倒す。
目の前に立ちはだかる “それ”にも矢は刺さった。
突然、がくんと身体が揺れ、大きくかしいだ。
倒せた!
歓喜は一瞬、すぐに絶望へと変わった。
“それ”は崩れない。
水に打たれた部分の“それ”から一部どろりと肉片は腐り削げ落ちるだけ。
あばら骨から体内の奥が透けて見える。
内臓が、ちゃんとある。
けれど、その場所はちぐはぐだ。
心臓は下腹に、肺はその上にひとつだけ。腸や胃も出鱈目な場所に詰め込まれている。
ぽたぽたと水と赤黒い血が“それ”の全身から地面に落ちた。
全身が、凍りつく。
解剖図とはまるで違う、歪んだ構造。
“それ”が、一歩前へ出た。
ローゼルに鈍く光る顔のおぞましい生き物の陰が覆う。
逃げなければ。ここから逃げ出すのだ。
そう強く思うのに、地面に縫い付けられたように動けない。
ぴしゃんと水と血が混じったものが、手を伸ばす“それ”から飛んできて、ローゼルの足元に落ちる。
全身に鳥肌が立った。
胃に酸っぱいモノがこみあげて吐きそうになる。
息を止め、もはや呼吸すらできなくなった恐怖に呑まれる。
(が、頑張れ、私!
なんとかして、あと一発だけでも……)
ローゼルは、なんとか自らを奮い立たせた。
だけど、目が霞んで、眩暈がしてきた。
その刹那、巨大な火の玉が目の前に落ちてきた。
ローゼルを覆おうとしていた“それ”は、たちまち全身が炎に包まれた。
地面に勢いよく倒れ獣のような咆哮をあげて転げまわる。
まるで生きている人間が火だるまになってのたうちまわっているようだ。
周囲もいつの間にか炎に包まれ、グールたちは一瞬で炭と化している。
断末魔のような叫び声。
何が起きたの?
茫然とするローゼルの前に、上空から重い音を響かせて、大きな男が現れた。
石畳がその反動で大きく揺れた。
男はローゼルに背を向けて立ち、舌打ちをする。
「ちっ、しぶといな」
「深紅の焔よ、天より降り裂け
――深紅業火!」
深紅の炎の矢が、天から転げ回る“それ”に容赦なく降り注いだ。
いくつもの炎の矢が突き刺さり、“それ”はやがて動かなくなった。
(この人……)
ローゼルは自分の鼓動が耳に響いたのを自覚した。
震える指先を胸に押さえながら、その男の大きな背中を見上げた。
炎を背景にやけに男の輪郭が濃くなる。
鼻を突く死臭と、焼け焦げた匂い。
それらが一瞬で熱風にかき消された。
しんと、周囲は静まり返った。
炎は自然に沈下し、視界を埋め尽くしていたおぞましい怪物が炭と化した。
「大丈夫か?」
男がゆっくりローゼルの方へ振り返って歩み寄り、屈みこんだ。
「よくここまで頑張ったな、イースティリア女官殿」
「あっ……」
ローゼルは、ようやく声が出た。
呟くようなかすかな声だった。
助かった……。
ほっとして視界が滲んで揺れる。
無意識のうちに、身体が立ち上がろうと動いた。
だけど、足がもつれて転びそうになる。
それを男がさっと太く逞しい腕で受け止めた。
ローゼルは縋るように、その腕にしがみつく。
その温かみに涙が溢れた。
顔がぐちゃぐちゃになる。
「あ、あの……クレインバール卿……」
「どうした?」
「御者の人……」
ローゼルはルシアン・クレインバールにすがりつくように声を必死で絞り出す。
「わ、私を助けようと、したの。だから……」
いつの間にか大勢の騎士たちがやって来ていて、御者に一人の騎士が駆け寄っていた。
彼はその御者の首元を触り、脈を測る。
生存確認だ。
「生きてます。治療魔法を施します」
脈を測った騎士がその場で詠唱を唱え、御者の頭と心臓部に両手を翳し、治癒魔法を施し始めた。
「生きてる、よか……った」
安堵と疲労が一気に押し寄せた。
ローゼルは目の前が真っ暗になってそのまま意識を失った――。




