第101話 解けない魔術式と、親友の婚約者を狙う受付嬢
資料室全体の絨毯の刺繍――模様だと思っていたそれは、巨大な魔法陣だった。
これ、見覚えがある。
まさに皇族会議で見つけた魔法陣と同じだ。
隠匿魔法――。
全身に冷や汗が噴き出してきた。
あの時と同じだ。
隠匿魔法の裏に違う魔法陣が隠されている。
ローゼルはごくりと唾を飲み込んだ。
落ち着いて、落ち着くのよ。
もう一度、絨毯に視線を投げた。
皇族会議の魔法陣と同じ設置の仕方。
でも、今回は違う点が二つある。
まず前回は魔法陣が天井に描かれていた。
あれは、発動したとき空気の流れをうまく利用して王宮を火の海にさせるのが狙いだった。
今回は違う。
床、いいえ、絨毯に刺繍の一つとしてカモフラージュするように描かれている。
そして、絨毯の上には、契約書を収納している本棚が整然と並んでいる——
それから二つ目。
前回は火属性の魔法が隠されていることはローゼルでも分かった。
(でも、違う。
今回は私の知らない種類の魔法が隠れている)
意識し出した途端、むっとする空気が身体を包む。
湿った匂い。
異様な圧迫感。
かなり天井は高いのに、どうしてだろう。
呼吸すら憚られる気配が漂ってきた。
まるで凶暴でどす黒い野獣のようなものが、身を潜ませているような——
ギシッと、椅子が軋む音が聞こえ、ローゼルはびくっと肩を震わせた。
警戒心を滲ませて周囲を見渡すと、受付で人影がゆっくりと動くのが見えた。
どうやら受付の彼女——ミレイユが居眠りから目覚め、椅子から立ちあがったようだ。
ローゼルは慌てて椅子から降りて、さりげなく元の位置に戻す。
それから、落とした古い契約書を拾い上げる。
「……っ!」
ピリッと、また静電気みたいな刺激が指先に走った。
ローゼルは驚いて、その契約書をまた落とす。
(どういうこと?
契約書を触ると、まるで魔法が流れている気がするんだけど……)
ローゼルは慎重にもう一度契約書を拾い上げた。
同じように魔法の波動を契約書から感じる。
ひょっとして、この契約書に魔法が仕込まれているとか?
ふとそう思ったけれど、ローゼルはブンブン首を振って、その考えを否定する。
まさか、そんなわけがない。
だって契約書は国が指定した用紙だし、ここに保管する時点で何か魔法が掛けられていても検閲の段階で検閲官が気づくはず。
ローゼルはぱらぱらと契約書をめくる。
サッと目を通す。
契約書の内容は、ある貴族の特産品を運搬する費用や、その材料調達に関して某商会と利益配分について記載してあるものだった。
よくある内容。
特段変な箇所はない。
ちゃんと法に則って作成した契約書だ。
最後のページをめくり終え、冊子の裏側を見た時、違和感を覚えた。
なぜか冊子の裏表紙が少し歪んで見えたからだ。
(私、疲れているのかな……)
ローゼルは目をこすって、何度も裏表紙を穴が開くほど、じっくり見た。
見た目は何もない。
だけど、やっぱり何か変だよ。
それは感覚的なもので、言葉では言い表しにくい。
何かが引っ掛かる——。
契約書を天井に向けていろいろひっくり返しながら、どうしてそう見えるのか、ローゼルはしつこく何度も何度も確認をする。
ふと、ハッと思いついたことがあった。
他の契約書の冊子はどうなってる?
ローゼルは収まらない鼓動をどうにかして抑え、違う契約書の裏表紙に着目した。
同じだ。
同じように裏表紙だけ何やら歪んで見える気がする。
傍目には表紙と同じキレイな厚紙で均一な長方形だ。
どうして裏表紙だけ変だと思ったのか。
ローゼルは首を捻った。
朝の雨の気配はいつの間にか消え、窓の外から日射しが差し込んだ。
どうやらこのまま晴れそうだ。
何気なくローゼルは、手元の契約書の裏表紙を日に透かして見た。
「……っ!」
ローゼルは目を剥いた。
嘘でしょ。
日に透かすと、裏表紙にうっすら魔法陣が浮かび上がった。
びっくりして、反射的に日陰に契約書をさっと戻すと、その魔法陣はスッと綺麗に消える。
どういうこと?
ローゼルは、今度は先程自分が収納したばかりの新規の契約書の裏表紙を確認し出した。
けれど、何も感じない。
当然だ。
さっきまで自分の手元にあった承認を完了したばかりのピカピカの契約書。
ついさっき自分が保管した契約書は除いて、ローゼルは本棚に保管されている契約書を適当にピックアップして裏表紙をチェックする。
嘘でしょ……。
絶句した。
なんと、全部魔法陣が描かれている。
しかも、最初に見たものと同じで、意図的にすべて日に透けないと見えないようになっている。
(っていうか、変だよ。
この魔法陣も)
ローゼルは恐怖と苛立ちを感じながら、首筋あたりを掻いた。
ふつう魔法陣は描くと、その人の魔力がほんの少しだけ宿る。
けれど、どれもこれも魔力が感じられない。
「これ、どういう仕組みの魔法陣なんだろう」
思わず声に出た。
それだけ自分が困惑しているのを感じた。
(駄目だ、想像以上に私、パニックに陥っている……。
こういう時、冷静にならないとよくない判断を下してしまう)
ローゼルは自分の心を宥めるために深く深呼吸をした。
胸いっぱいに息を吸い込んで、ふうーっと吐き出す。
それだけなのに、気分はほんの少しだけ穏やかになる。
(まずは、私ができることをやろう)
ローゼルは改まって、裏表紙の魔法陣を解読し始める。
大抵の魔法陣は、ぱっと読めてその意味が理解できるはずだ。
「……」
しばらくして、ローゼルは頭を抱え始めた。
(む、無理……。なにこれ)
こんな魔法をローゼルは知らない。
初めて目の当たりにする魔術式だ。
これでも祖父が「これぞ」と思った最新の世界各国の論文を送ってくれているから、この世の大半の魔法はなんとなく理解できる。
それなのに、この魔法陣は一体何のために描かれたのかすら分からない。
ローゼルは足元の絨毯に視線を落とした。
それを言えば、絨毯の刺繍の魔法陣も同じで、全然解読できない。
これ、どうすれば解決できる?
すぐにでも、このことを上官のライアナースへ報告するべきだ。
だけど、何の魔法陣なのかまったく不明な状態で上官へ知らせるのは、少々気後れする。
餅は餅屋。
そんな東方のことわざを思い出した。
そうだ。魔法は魔法に詳しい人に訊くのが一番いい。
そこで思いついたのは、同期のエレナ・ヴァービナスだ。
エレナは魔法のプロ中のプロ。
(うん、エレナに相談しよう)
それがいい。
ローゼルは一人、納得するように何度も頷いた。
その時、誰かが資料室に入って来た。
「あっ、ごきげんよう」
来客を出迎える受付の彼女、ミレイユの声が明らかに弾んだ。
ローゼルの時とは違い、甲高くはしゃいでいる。
資料室を訪れたのは男だな。そう直感した。
「お待ちしておりました。バーンズリー卿。
ご予約承っております」
え?
来訪者の名を呼ぶミレイユの声に、ローゼルは思わず反応して、カウンターをそっと覗き見た。
同期のホキアン・バーンズリーがいた。
「ごきげんよう。
えっと……まずどうすればいいのかな?」
ホキアンは初めてこの部屋に来たようで、周囲をしきりに見回していた。
「はい、総務関連の契約書の内容確認ですね。
恐れ入りますが、こちらの来客名簿にご記入をお願いしますぅ」
語尾に「♪」がつきそうなほど、一段と明るいミレイユの声が響く。
きゅるん、という効果音もついてもいいんじゃないかというほど、目を潤ませて上目遣いでホキアンを熱心に見ている。
ローゼルは眉をひそめた。
(この子、やっぱり男性相手になると分かりやすく態度を翻すタイプね)
呆れ顔でローゼルが本棚の隙間から覗く。
頬を上気させるミレイユ。
ホキアンはそんな視線を気にしていないのか、「ここに名前ね、うん」と言って相変わらずマイペースで記帳をし出す。
彼は温厚でお行儀がいい坊ちゃんタイプだ。
しかも、相手が美人で可愛い容姿に優れている女性であっても、また、お世辞にそこまで容姿を褒められない女性でも常に平等な対応をする紳士だ。
たぶん、ホキアン的に女性に対して執着していない。
先日の彼のお見合い騒動も、そういう彼ののんびりとした性格が災いして、彼の父親バーンズリー卿が暴走したのだろう。
「あのう、あたしのこと、覚えてます?」
ミレイユが期待に胸を膨らませた猫なで声で、ホキアンに尋ねた。
「え? 君のこと……?」
「はい、そうですよぉ」
身を乗り出すミレイユに、ホキアンは困ったように笑う。
「……えっと、ミレイユ・カーネル男爵令嬢だったよね」
「はい、そうです!」
ミレイユは目を輝かせる。
「でもぉ、そんな硬い呼び方止めてくださいよぉ。
あたしのことは、ミレイユ。って呼んでくださいね」
「いや、それはちょっと……」
「何でですかぁ?
ミレイユは、ホキアン様♡と呼びたいですぅ」
詰め寄る彼女にホキアンは気圧され、大きく後ろに体を反らす。
「いや、えっと、一応、こういうのはしっかり区別をつけないとね。
もっと仲良くなってからでないと」
ホキアンはやんわりと断る。
少々迷惑そうな声だ。
「そうですか……。
でしたら、お近づきの印にぃ――この前のお話、考えておいてくれました?」
「……ああ、僕の同期との食事会だっけ?」
「はい、そうです。
バーンズリー卿の同期は素敵な方が多いって有名なんです。
是非ともご一緒にお食事したいんです」
ミレイユは両指を組んで、左右にくねくねさせた。
「う~ん……そうだね、僕の同期はみんな素敵だよ。
でもね、同期人数は最も少ないんだよ。
どうせ飲み会をするなら、人数の多い子息に声を掛けた方がいいんじゃないのかな?」
「いいえ。バーンズリー卿の同期がいいんです」
可憐さを装う仕草でミレイユはホキアンを熱心に見つめた。
今日びの『外部人材』の女性たちは恋愛に積極的なようだ。
まあ、分からなくもない。
ああいう下級貴族令嬢たちの間では、官僚になった男性たちは将来を約束された優良物件そのもの。
うまく彼らの妻の座に収まれば、相手が嫡男でなくても一生安泰だ。
『外部人材』の業務に常に応募が殺到している、そう聞いたことがあったけれど、なるほど。そういうわけか。
自分の婿探しが目的。
(ずっと疑問だったんだよねぇ。
淑女としての経験値を稼ぐなら、王宮侍女になるのが最も手っ取り早いのに、何で給料の低い『外部人材』にわざわざ応募するのかって)
行儀見習いの侍女だって常に募集中の万年人手不足。
だけど、皇族と直接関わるので、厳しい審査がある。
今、王宮で働く侍女たちはそういった厳しい審査をくぐり抜けた選りすぐりの令嬢たちだ。
それに引き換え、外部人材に集まる令嬢はそこまで厳しい試験があるわけじゃないし、貴族の血統であれば問題なく、即採用。
だけど、お給金は王宮付き侍女の半分以下。
それでも人が絶えず集まるのは、彼女たちにこういった旨味があるから。
実際、夜会やサロンなどお酒の入った席で出逢うよりも、働くその姿をチェックできるのは大きなポイントだし、その人となりも確認できる。
(そりゃあ、ホキアンなんて最高級物件でしょうね)
ローゼルは困り果てるホキアンの横顔をじっと見た。
父親は現役の総務大臣で、将来は伯爵家を継ぐ嫡男。
優しいし、気立てもいい。
ルックスも悪いわけじゃなく、むしろ気品溢れる美があるキレイ系貴公子だ。
性格もいつも穏やかで、ちょこっとのんびりしているけど、生涯の伴侶にするにはうってつけ。
「ごめんね、たぶん僕の同期を集めるのは難しいかな。
みんな多忙だし、異国に出向いていたり、しょっちゅう出張で王都を離れていたりするんだよ」
ホキアンは遠回しにお断りしているのだが、受付の彼女はめげない。
「そこをなんとかお願いします!」
両手を拝むように合わせて頼み込んでいる。
「でもねぇ」
「あの方!
ランス・マクィーン卿が帰国された際には是非とも!」
ミレイユは身を乗り出す勢いで声を張り上げた。
それを聞いて、ローゼルはぎょっとした。
(えっ、ちょっと待って。ランスはエレナの婚約者だよ?
ランスを誘うなんてどういう神経してるのかしら)
ローゼルは憤慨を滲ませ、睨みつけるようにミレイユを見た。
ランスは今、西北のインリューラーク王国とその近辺の友好国との外交官として絶賛活躍中だ。
常に多忙を極め、そう簡単に帰国もできない状況だ。
婚約者のエレナだって全然会えていないと言っていたのに。
帰国した貴重な一日をあんな子たちの食事会で潰せと言うの?
ますます純粋にムカムカしてきた。
「あはは、無理を言わないでくれ。
ランスは難しいよ。婚約者もいるし。
あっ、でも同期がいいなら二人の女官の彼女たちも呼んでいいよね?
それなら、たぶんみんな集まると思うよ」
ホキアンは友好的な笑みを崩さずに言った。
「えー、別に女官の方は遠慮しておきますぅ」
ミレイユは、それが可愛いと思っているのか、わざとらしく唇を突き出した。
「そう? 彼女たちは気さくで楽しい子たちだよ」
「それでも嫌ですぅ。
だって、女官の令嬢って頭良すぎて何言ってるのか分からないし、とにかく偉そうなんですもの」
(はあ? なぁにが、頭良すぎて、だよ。
女官の私がまだ室内で作業していることをすっかり忘れて、おしゃべりに興じるような子に言われたくないんだけど。
っていうか、今仕事中だよ。
なに忙しい官僚に飲み会設定をお願いしてんのよ)
ローゼルは内心で思いっきり毒づく。
「だから、お願いですぅ。ランス・マクィーン卿に逢わせてくださぁい」
ミレイユは身体をクネクネくねらせながらお願いを続ける。
「あたしぃ、大ファンなんですよ、マクィーン卿に」
目薬でも使ったのかというほど、目をうるうる潤ませてミレイユはおねだりした。
(もう、何なのよ、あの子!
何でそこまでランスにこだわるわけ?)
ぷるぷるローゼルは怒りのあまり身体を震わせ、本棚と本棚の隙間から顔を出した。
確かに、彼女はお目が高いとも言える。
ただでさえ高水準の同期男性たちの中でも、ランスはかなりできた男だ。
語学堪能で見た目も良く、有能。
あのグロウディーナ公爵も実力を認めざるを得ない部下の一人。
そういえば聞いたことある。
外交官の妻というのは、令嬢たちからしてみたら花形地位にあるらしく、日々独身女官も独身外交官に少しでもお近づきになろうと熾烈な争いをしているんだとか。
外部人材の彼女も同様か。
(ひょっとして、あの子、エレナから横恋慕する気?)
ローゼルが目を三角にしていると、受付カウンターで困り果てていたホキアンと目がバチッと合った。
「ローゼル!」
ぱっとホキアンの顔が明るくなった。
次の瞬間、資料室の空気が一変した――。




