第99話 星月茶に込めた想いと、暴かれた総務省の闇
「いいですか。クレインバール卿。
くれぐれも順序を間違えないように。
物事には順序というものがありますからね、お願いしますね」
父が全てを打ち明け、帰りの馬車に乗る際。
ローゼルがいままで見たことないくらい穏やかな父が、静かな威圧感を滲ませた、それも凄味ある笑顔でルシアンに釘を刺した。
「もちろん堪えます。
……じゃない、お嬢さんを傷つけません」
ルシアンもさすがにと、愛想笑いを浮かべて約束をしていた。
――とはいえ、嘘も方便、じゃないけど。
ルシアンは上機嫌で、湯殿から上がったローゼルを寝室で出迎え、そのままぎゅっと抱きしめた。
「だからって、これはちょっと……」
ローゼルは苦言を呈する。
「気にするな」
ルシアンから香る石鹸の香り。
同じ石鹸の匂いだ。
「バレなきゃいいんだよ、こういうのは」
「だけど……」
「せっかく侍女たちが華やかに寝室を演出してくれたんだ。ほら」
ルシアンは両手を広げて、部屋を見渡す。
存在感のある重厚な造りのベッドには、ピンクのバラの花びらが散らされており、まさに新婚の床である。
歓迎ムードなのはとてもありがたいのだけれど、ここまであからさまだと逆に照れて緊張してしまう。
「やっぱり結婚までは別々のベッドにすべきじゃないでしょうか?」
「いいじゃないか。
すでに事は済んでるし。
俺の妻になるのは確定だ」
その時、扉がノックされた。
「ケイトか。入れ」
渋々ローゼルから離れたルシアンの呼び掛けに、ケイトがティーワゴンを引いて入って来た。
そこにはちょっとした焼き菓子とティーセットが載っていた。
「ご要望のものを持って参りました」
ケイトがお辞儀をした。
「ああ、ありがとう。そこに置いておいてくれ。あとはやる」
「承知しました」
ケイトはローゼルに、ニコッと微笑んでから部屋を出た。
「さて」
ルシアンはローゼルをベッドに座らせる。
「愛し合うにしても、さすがに婚姻前の妊娠はなにかと外聞が悪い。
避妊用のお茶は毎朝晩飲んでくれ」
ルシアンはケイトが用意したお茶をポットからティーカップに注いだ。
引き締まった体型と美しい姿勢。
上品な立ち振る舞いにローゼルは目が吸い寄せられる。
剣を握る騎士なのに、どうやったらお茶を淹れる姿がここまで凛々しくなるんだろう。
「はい、ゆっくり飲んで」
ルシアンは屈みこんで、湯気が立つカップをローゼルに手渡した。
「ありがとうございます」
「この茶は病気にも効果があるらしい。何よりも妊娠を防ぐと同時に、貧血にも効く。
女性に必要な栄養素が含まれた“星月茶”だ」
「え、それって確か『月の精霊』が宿る森でしか育たない特別製なんですよね。
いいんですか?
しかも、すっごくお高いお茶ですよ」
ローゼルは小さく息を吐き、湯気の立ち上がるティーカップに視線を落とした。
透明感のある緑色の液体。
青葉のように清らかな茶葉の匂い。
その水面に反射して映る自分の顔。
高額なものすぎて、怯えた自分の表情が少し滑稽に見えた。
「ローゼの病には欠かせない成分がたくさん入っているんだ。
ローゼの身体はこの世で一つ、唯一無二。
健康でいられるなら特別製だろうが全然構わん。
金に糸目を付けないよ」
ルシアンはひらひらと手を振った。
(お、お金持ち発言!)
ローゼルは心の中で叫ぶ。
そりゃあ、そうか。イースティリア家は伯爵位になったと言っても、まだまだ借金が残る貧乏貴族だ。
かたや、ルシアンは辺境伯位の嫡男で軍部の軍師閣下。
なおかつ、総魔法騎士団長となれば役職手当は無論のこと、危険手当諸々つく。
(本当に、玉の輿に乗っちゃうのね、私)
お茶の摘みたての葉を思わせる、瑞々しい匂い。
ローゼルはお茶を飲んだ。
渋みと甘みが口の中でじわっと広がった。
あまり飲んだことがない味だけど慣れてしまえば、なかなか癖になる。
ルシアンと目が合った。
優しく微笑んだ。
胃の中が温かくなると同時に、心もほっこりした。
ローゼルがお茶を飲んでいる間、ルシアンはローゼルの隣に腰を下ろし、まだしっとり濡れているローゼルの髪を丁寧に梳くように撫でた。
「——悪かったな。
結局、夕方買い物にいけなくなって」
すまなさそうに顔を歪めた彼の瑠璃色の瞳が揺れた。
「いいえ、大丈夫です。
あれだけ濃厚な話を父としていたんです。
でも、今日一日、側にいてくれただけで嬉しいです」
しかも、私の体をいたわるためだけなのに、わざわざお休みを取って。
その特別感が眩暈がしそうなほど嬉しい。
お茶が飲み終わる頃、ルシアンは上機嫌でローゼルの頬に、耳に、こめかみに、至る所にキスの雨を降らせた。
さりげなくローゼルの持っていたティーカップをサイドテーブルに置きながら。
「キスしすぎです……」
「気にするな。
いまさら恥ずかしがってもしょうがないだろ」
そう言われても慣れていないものはまだ慣れないし、ローゼルにとってキスする行為そのものが恥ずかしい。
思わず、寝る前に読もうと思ってサイドテーブルに置いてあった本に視線を落とした。
「それは?」
ルシアンが尋ねた。
「はい。この前、古書店で見つけた母の論文です。
水魔法のことがいろいろ書いてあったし――ずっと探していた本だったから、奮発して買っちゃいました。父が持ってきてくれたんです」
「へえ。亡きイースティリア夫人も水魔法の使い手だったのか」
ルシアンはその濃い青色の表紙をじっと見た。
「そうなんです。
私よりも全然すごくて、父の土魔法と融合させた農地改革の魔法とか開発していたんですよ」
「あぁ、それ。
その論文なら俺も読んだ。
あれはなかなか興味深かったな」
しみじみとルシアンは呟き、顎を撫でるように触った。
「ルシ様って博学ですよね。
軍事書だけじゃなく、様々なことをご存知というか」
「好奇心旺盛なんだよ。
なんでも知っておきたいんだ」
「それ、分かります。
じゃあ、今度ご一緒に古書店に行きましょう。
ルシ様オススメの本を紹介してください」
「いいよ、行こう」
ルシアンはローゼルの身体を抱きかかえ、自分の膝を跨ぐように座らせた。
艶めかしく触れ合う肌。
匂い立つような色香。
濃厚になっていく空気の中でローゼルはどきんとして、慌てて言葉を紡ぐ。
「それで、あの、ルシ様。
私、明日、遅くまでお仕事しますので——」
「あぁ、契約書の内容が漏れている件か……」
思い出したようにルシアンが呟いた。
「はい。それもありますけど、きっと契約審査室は大変な状況です。
ただでさえエルド男爵の代理で来た私が翌日から二日間お休みをもらっちゃったんで」
ローゼルは苦笑した。
「そうか……。そうだったな」
「駄目ですか?」
「いや、駄目とは言えない。
ただ、無理をするな。
それだけだよ」
ルシアンは、納得したような、していないような、そんな曖昧な笑みを浮かべた。
変な感じだ。
本来なら自分のやるべき仕事なのだから、わざわざルシアンの許可はいらない。
それなのに、心配をしてくれる彼には、ちゃんと許してもらいたいと思った。
つい少し前の自分なら、人にどう思われようが気にしない。
何が何でも仕事をこなそうとしていた。
この心境の変化は自分でも驚くべきことだ。
ちょっとずつだけど、自分の中にあった氷塊が溶けていく。
そんな感じがする。
「国家機密級の稀少な資源採掘関係で、軍事とも深く関わる鉱山資源を持つ領主が、次々と新種の魔物に狙われている。
だからこそ、明日こそ自分のやるべきことを全うしなければいけません。
これ以上、被害者を増やさないためにも私ができることを――。
そう思ったんです」
「そうか。
——では、ローゼルにひとつ、報告をしておこう」
「報告……。
はい、なんでしょう」
ローゼルは、ルシアンの顔を改めて見た。
彼の表情は、甘いけれど、どこか凛然として緊張感があるものだった。
「ライアナース卿が、王城強姦魔の被害に遭った女官の上官と共に総務省に抗議をしに行った。
無論、これは陛下としても見過ごせない案件だ。
宰相が間に入り、話し合いをしたところ、総務省大臣バーンズリー卿は事態を重く受け止めていたよ」
「そうですか。
問題の前総務大臣派閥の人たちは?
素直に受け止めましたか?」
「いや」
ルシアンは首を振った。
「そうですよね」
ローゼルは小さくため息をついた。
所詮、彼らにとって女性は安価で都合のいい消耗品なのだ。
「案の定、被害に遭った女性に非があると非難していたらしい。
むしろ、現職バーンズリー大臣の責任ではないのかと騒ぎ立て始める輩もいてね。
彼を罷免すべきだ、とね」
「うわぁ、やっぱりそんなことを言い出したんですね。
そもそもあの人たちが、わざとバーンズリー卿の耳に情報を入れなかったんですよね。
尻拭いだけさせるってひどい」
ローゼルは、軽蔑を滲ませて口をすぼめた。
「全くその通りだな」
ルシアンはローゼルの髪を一房手にとってキスをする。
「宰相は、衛兵が総務省の管轄に入ることを懸念していたし、バーンズリー卿も反対していたことを知っている。
だからこそ、宰相がそこでハッキリ言い切ったんだ。
『では、被害に遭った女官に責任を押し付けるなら、いっそ、女官に残業を任せるのは禁止しましょう』ってね」
「え? 禁止……」
それは困る。
夜間勤務の割増賃金は、家計を支えるローゼルにとって欠かせない収入源であった。
家の借金もあるし、屋敷の修繕だってまだやれていないところがたくさんあるのに。
「そんな顔するな。
実際困るのは奴らだ」
クスっとルシアンは笑った。ローゼルはまるで自分の考えが読まれていたようで急に恥ずかしくなった。
「ローゼルのように真面目に仕事がしたい女官がいるのは宰相もご存知だよ。
その前に、よく考えてみろ。
夜間の残業禁止になる、本来夜間稼働に紐づいていた女官業務の予算が削減されることと同じことだ。
そうなったら誰が困ると思う?」
ルシアンが面白がる目でローゼルを見た。
ローゼルは頭を必死で巡らす。
総務省は女官が最も多く、『外部人材』に限定すれば衛兵を除いた六割以上が女性だ。
「前総務大臣派閥ですね。
総務省が商会に支払う金額も、彼らへの手数料も両方減りますから」
「そう。正解。
で、俺のところにさっき来たほやほや情報なんだが、どうも前大臣派たちは、自分たちの夜の個人的な娯楽のために『外部人材』として雇っていたのが発覚したんだ」
ルシアンが勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「え……。それって、私的利用で女性を買っていたということですか」
ローゼルの顔が大きく歪んだ。
「ああ。ハッキリ言えば、性的相手や接待用の女だ」
「国家予算で娼婦を買っていた、と?
信じられない」
まさに公私混同だ。
あの様子だと、予算の余剰金もちゃんと管理されていたのかも怪しい。
ローゼルの表情がどんどん険しくなった。
「無論、このことは総帥から宰相、陛下の御耳にも入れておいた。
奴ら、まさか陛下に話が行くとは思っていなかったみたいで、かなり泡食っていたぞ」
くっくっとルシアンは肩を揺らして笑った。
「自業自得ですね。
血税をそんなことで使うなんて。
あり得ません」
ローゼルは憤慨した。
「だよな。
まあそんなこんなで、結論。
夜の護衛は本日から軍部に管轄が戻ったよ」
「よかった。
おめでとうございます」
「おめでたい……。
う〜ん、ようやくゼロ地点に立て直したって感じかな」
「あ、そっか」
「他の外部人材についても、宰相府の人事部の許可を得ないと雇用できなくなった。
採用するにも一気にハードルが上がるから、そのうち廃れていく制度になるだろう。
宰相は一年後あたりに撤廃しようかとも言っていたようだしな」
ルシアンは、やれやれと首を振った。
「ひょっとして夕方のお仕事って、その関連だったんですか?」
「えっ、ああ。そうだよ」
一瞬ルシアンは戸惑った素振りを見せた。
けれど次の瞬間、ローゼルを抱きしめていた。
彼から感じる鼓動と温もりに、思わず息を飲んだ。
「いいか、明日はなるべく早く帰って来いよ。
くれぐれも無理もするな」
「はい。気を付けます」
「そこは、無理しません、だろ」
ふっとルシアンが笑った。
釣られるようにしてローゼルからも笑みが零れた。
ルシアンはローゼルの耳朶を撫でるように触った。
ローゼルはくすぐったくて、ついつい笑ってしまう。
ルシアンがこつんと額と額を合わせた。
「俺はローゼがすごく好きだ。
好きだからずっと触れていたいんだ」
好き。ルシアンの低い声で言われるとまだ胸が異様なまでに昂る。
「私もルシ様をお慕い申してます」
一瞬、間があった。
「――はぁ、二日連続ローゼからそんな台詞が聞けるなんて」
ルシアンは大きなため息をついた。それから口元を緩ませる。
「俺は本当に幸せ者だ」
今度は歯を見せてルシアンは笑った。
ローゼルは甘く胸がときめいて、一瞬言葉が喉に詰まる。
——それは私もです。
そう言おうとするも、ルシアンの笑った顔が近づいてくる。
唇を塞がれた。
ほんの少し触れるだけのはずのキスが、やがて深いものに変わっていく。
身体が熱を持って疼くのが分かる。
もはやこうなってしまったら、何も抵抗ができない。不可抗力というもの。
静かな部屋に舌を絡ませる水音が響く。
甘酸っぱくふわふわとした感覚。
気持ちが高揚する。
身体の奥底の覚えたての淫靡な愉悦が湧き起こり、官能的な吐息が漏れた。
ルシアンが指を絡めてローゼルの両手を握って、そっと囁く。
「大丈夫。
何かあってもちゃんと責任取るって」
彼のこういう言葉にしてくれるところは嬉しい。
なんとなくふわりと胸が温まる。
「もちろん、そこは心配してませんよ」
いつの間にか寝衣が緩められていて、素肌の首筋に彼が顔を埋めた。
肌に、ちりっとした小さな痛み。
彼の頭が胸元の下りていく。
だが、そこにあるのは紛れもない快感だ。
ローゼルは、与えられる感覚を追うだけで精一杯だった。
なだらかな曲線を描く背骨を辿るように、ルシアンの手がゆっくりと下りていく。
彼がローゼルの寝衣に手を掛ける。
彼の朝の勢いは忘れられない。
なんとか彼に責任を感じてもらわないように、と思っていたけど。
それでも、ローゼルの性格上、正直、婚姻どころか婚約もしていない殿方とベッドを共にすることには抵抗がかなりある。
いくら男女の関係にあるとはいえ――。
ローゼルはちらっとルシアンの顔を上目遣いで見た。
その視線に気づいた彼は、蕩けそうなほど艶めかしい笑みを浮かべた。
(あぁ、もう。
この笑顔、ズルい)
私はもうこの人から逃れられない。そう本能的に悟った。
ゆったりとしたガウンの合わせ目からルシアンの肌が覗いている。
なんて逞しくて分厚い胸板なのかしら。
そっと顔を上げると、そこには瑠璃色の瞳がある。
とろりと微笑んだその瞳は、甘い。
再びルシアンに深く口づけられて、ローゼルの理性は霞のように揺らぐ。
キャンディを舐め合うような貪り合うキス。
ちゅちゅと音が漏れ、それが徐々に激しくなり、息が上がる。
どうしてかしら。
唇を重ね、舌を交えただけなのに、すでに気持ちが高揚する。
白い肌の上を、腰のくぼみで揺蕩った後、筋張った手が這う。
背を這う手が白い肌を薄紅色に染め上げていく。
今宵も甘美な陶酔の中へ沈んでいった——。




