九話 お供え
カーテンの隙間から朝日が差し込んでしばらくすると、三葉は何事もなかったかのように目を覚ました。
「ふわぁ……よく寝たぁ」
熱はすっかり引いたらしく、透き通るような肌には健康的な生気が宿っている。
よく寝たじゃねぇよ!
バカ三葉!!
僕は音にならない声を荒げて、のんきな三葉を睨んだ。確かに体調は崩していたけれど、足元が覚束なくなるほどの眠気に襲われるなんて普通じゃない。
それに、昨夜のあの出来事。
夜の闇に紛れて、鍵のかかったドアノブを揺らした『誰か』の存在。
三葉が意識を失っている隙に、誰かがこの部屋に侵入しようとしていたとしか思えなかった。
僕がもう少し早くドアスコープを覗けていれば、その『誰か』が分かったかもしれないのに。
「ユーレイ君、おはよう。体調治ったみたい」
三葉は、僕がいるであろう虚空を見上げて微笑んだ。彼女は自分が薬を盛られたことにすら、全く気づいていない。
僕は何が起こっているのか分からなくて、一晩中、生きた心地がしなかったのに。
……まぁ、もう死んでるんだけどさ。
ドン――
この焦燥を伝える術すら持ち合わせていないことがもどかしい。つい、少し強めな音で返事をした。
「朝ごはんどうしようかなぁ……あっ! 海斗先輩、沢山買ってきてくれてる!」
ベッドから出た三葉は、冷蔵庫の中を確認し朝食やお弁当に使えそうな食材を次々に取り出した。
視線を向けると、少ない食材でスカスカだった冷蔵庫には沢山の食材が詰まっている。昨日、キッチンに立った海斗が詰め込んだ物だろう。
本気で一晩中看病するつもりだったのか。
僕は薬を混ぜられるような食材が紛れ込んでいないかと、急いで三葉の背後に周り、詰め込まれた食材を確認した。
しかし、ろくに確認もできないまま、無情にも冷蔵庫は閉じられてしまう。
――これは、もうすでに死んでいる僕の、勝手な不安だ。
昨夜、三葉を襲った異常な眠気が、誰かに盛られた睡眠薬によるものだとしたら?
それがもし、この部屋で起こった殺人事件に関連するものだとしたら?
犯人が戻ってきた?
それは何故?
ここには、もう死体はないはずなのに。
思考の海から浮上すると、眼前には見慣れた『ハル』の部屋が広がっていた。
三葉は、ハルの荷物をほとんど処分していない。というか、そのままだ。
失踪したとされる『ハル』がひょっこり戻ってくる可能性を考えたのかもしれない。荷物もほとんどなく入居した三葉は、なんだかんだ居候のようにこの部屋を使っていた。
もしかして……犯人にとって都合の悪い物がまだここにある??
たとえば――凶器とか?
昨日、三葉に薬を飲ませることができたのは、あの三人。
彼らの中に犯人がいるとすれば……
視界の端に、ふと黒いモヤが映った。
何故か、いつもより薄くなっている。
輪郭がぼやけているというか……
床に広がってる?
煤のような黒い粒子が、地面の上を這う植物の蔓のように細く伸びていた。その先を辿って後ろのキッチンを振り返る。
三葉――!
その瞬間、まな板の上に置かれていた包丁が、何かに引っ張られるようにズルリと動いて落下した。
真下には、三葉の足。
彼女の視線は、隣のコンロでパチパチと油を弾くフライパンに奪われていた。
カツン――
僕が急いで弾いた包丁は、三葉の足から少し横に逸れて、床の上に叩きつけられた。
「わ! 危なかった……ごめん。まだぼんやりしていたのかな。ユーレイ君、今助けてくれたんだよね? ありがとう」
驚きながら包丁を拾いあげた三葉は、それをシンクの中にそっと置いた。
今のは……?
黒いモヤを見ると、元の場所、同じ密度で佇んでいた。何事もなかったかのように平然と。
視界から消えた三葉を探すように、ギョロギョロと目玉を動かしているだけ。
でも、さっき僕は確かに見た。
床を這う粒子の蔓は、キッチンに向かって伸びていた。
意思を持って、三葉の方へと。
これはわざと?
それとも偶然?
「朝ごはんできたよ」
三葉の弾むような声に、不吉な思考が遮られた。彼女がトレイに食器を乗せて居間に戻ってくる。
何故か、そのトレイの上には、二人分の食器が乗っていた。三葉は自分がいつも座るローテーブルの向かい側にも、丁寧に皿を並べていく。
もしかして……
僕のための席?
食べられるはずもないのに、一瞬で胸が高鳴った。
湯気の立つ白いご飯にお味噌汁、卵焼きと焼かれたウインナー、ブロッコリーのサラダが三葉と同じ分量で盛り付けられている。
宙を見上げて少し照れたように微笑む三葉。
そして彼女は――
箸をそっと持ち上げて、盛られたご飯の頂点に、グサリと垂直に突き刺した。
「お供えって、確かこうやるんだよね?」
三葉ぁぁぁぁぁぁあ!
それ違う!
恩返しする小動物みたいな顔しないで!!
僕は呆れながら、トントンと二回音を鳴らした。すると三葉は「えっ」と戸惑ったように周囲を見回す。
「え。何!? 間違えてた?」
慌ててスマホで検索し「え! そうなんだ!」と一人で納得する声を上げる。
そして気まずそうに「ごめんごめん!」と突き刺した箸を引き抜いた。
「お葬式の時にしかやらないんだね。不吉なことしちゃった。でも、せっかく作ったから食べてみて」
死んでいる僕にはこれ以上の不吉なんて存在しない。
それは、まあ置いておいて……
食べてって言われてもなぁ。
向かい合わせの場所に移動すると、僕の目の前で三葉は「いただきます」と両手を合わせた。
こちらの様子を窺いながら、どこか楽しげな様子で彼女は自分の分のご飯を口に運び始める。
……どうしろっていうんだよ。
本当、調子狂うなぁ。
正解が分からないまま、そっとご飯に手を伸ばす。
すると、懐かしい香りが身体を包み込んだ。
失われた記憶の底から溢れるように、優しい素朴な味が蘇る。
そうだ、炊き立てのご飯ってこんな味だった。
誘われるように、隣の小さなお皿に盛られた卵焼きにも触れてみる。
すると今度は、ほんのりと甘い卵焼きの匂いと味が僕の意識に流れ込んできた。
なんだよこれ。
まるで、生きてるみたいだ。
以前、三葉が料理を作っている時に、食材の場所を変えるいたずらを仕掛けたことがあった。
でも……その時は味がしなかったはずだ。
『僕に』と、供えられたものだからだろうか。
「美味しい? 幽霊でも……分かるのかな」
ふと、三葉と目があった。
いや、本当に目が合ったわけじゃないけれど。
彼女は向かいの席に僕がいると確信して、優しく、温かく微笑んでいる。
ずっと欲しかった。でも一生手に入らないと諦めていた幸せが一気に降り注がれた気がした。
刺激も感動もない孤独な世界から掬い上げられたみたいな、名前がつけられない感情が胸を激しく締め付ける。
コン――
僕が答えられたのは、一度きりの小さな音。
その一音に込めた全ての想いを受け取ったみたいに、三葉は「よかった」と幸せそうに微笑んだ。




