五話 地縛霊、バレる
深い闇の底から先に意識を取り戻したのは僕が先だった。
視界が開けると、全く変わらない光景が広がっていた。体温計や風邪薬も先程と同じ位置で床に転がっている。
三葉、死んでないよな……?
ベッドを覗き込むと、三葉は掛け布団に顔を埋めながら静かに寝息を立てていた。まだ顔は赤いし、眉間には苦しげな皺が寄っているから、熱はありそうだけど……
その汗ばんだ額に、そっと触れてみる。
人の体温を『触覚』としては感じない。
代わりに、心臓が蕩けるような心地よい温もりが僕を包み込んだ。
これはさっき三葉を受け止めた時にも感じた温もりだ。ずっと触れていたいと思うほど、甘美で蕩けるような何かが心を満たしていく。
この温かさを僕はずっと望んでいた。本能的に求めていたと言い切れるほどの、抗いがたい多幸感。
……これはダメだ。
欲望を断ち切るように、三葉の額から手を引いた。
三葉は変わらず寝息を立てているが、彼女から大切なものを奪っているような気がする。それほどまでに、彼女に触れたことで得られた温もりは、抗い辛いほどの魅力に満ちていた。
まるで幽霊にとっての麻薬みたいだ。
『ダメ! 絶対!』の標語そのものである。
お前も三葉に触れるなよ。
部屋の隅にいる黒いモヤを睨みつけ、僕は欲望を振り解くようにフゥと意識を吐いた。
そして部屋を見渡す。
三葉が起きてくる前に、あのおぞましい血文字をなんとかしなきゃと思ったのだが、壁紙からは綺麗さっぱり消え失せていた。
どうやら幻のようなものだったらしい。
これが幽霊の起こす『怪異』ってやつかと思わず感心してしまう。
綺麗に消せるか不安だったから、幻で良かった。雑巾を絞るなんて複雑な動作、たぶん無理だしね。
三葉が大学に行くために着ようとしていた服を、部屋の隅に追いやった。その代わりに、開け放たれたクローゼットから彼女の寝巻きをズルリと引き出す。もちろん下も一緒に。
起きたらこっちに着替えろよ。
掛け布団は掛かってるが、その下の三葉は下着同然の姿なのだ。未だ残る疲労感に追い打ちをかける行為だったが、寝巻きの上下をベッドの横に積み上げる。
その後は、静かに三葉を見守った。
部屋に茜色が差し込み、影が長く伸びる頃、ようやく三葉は瞼を開く。
「あれ……私……寝てた?」
寝てた寝てた。
「じゃあ……あれは夢?」
夢だよ三葉。
熱にうなされて、悪夢を見たんだ。
今日はそれでいい。
恐る恐る壁紙に視線を向けた三葉は、血文字が消えている事を確認すると安堵の息を吐いた。
ポジティブ万歳。
ただ、この後バイトに行こうとするなら容赦なく部屋に閉じ込めるけど。
そう思ったが、三葉は休むことを選択したらしい。
重たい身体を引きずるようにベッドから起き上がった彼女は、スマホを鞄から取り出した。欠勤する事を何度も謝罪する三葉の背中は酷く心細げに見える。
「はい……はい……ご迷惑をおかけしてすいません。大丈夫です。なるべく早く治します。はい……」
通話を切った彼女はため息を吐いて肩を落とした。
「はぁ……やっちゃった。今月もピンチなのに」
仕方ないって。風邪なんだから。
命の方が何倍も大事だろ。
これに懲りたら、具なしうどんで食い繋ぐのはやめとけよ。
三葉は湿度のある咳をしながら、トボトボと居間に戻った。部屋の入り口に立った瞬間、彼女の足かぴたりと止まる。
ありえない物を見たというように、三葉の目は床に転がった体温計と風邪薬を捉えていた。
「え……どう……して……こんな所に……だって私、体温計なんて持ってない」
二つを拾い上げた三葉の目が、すぐ上の収納棚に向かう。
開け放たれたままの、二段目の引き出し。
やってしまった。
せめて閉めておくべきだった。
再び震える彼女の唇。怯えた瞳が、キョロキョロと周囲を見渡した。その視線が、部屋の隅にいる黒いモヤと、僕を通過していく。
「……やっぱり、誰かいるの?」
問いかける、掠れた声。
どうしよう、と僕は一瞬戸惑った。
このまま無視をしてもいい。
三葉はまた、無理矢理ポジティブに変換して何事もなかったように生活を続けるはずだ。
「ねえ……いるんだよね?」
僕が二度とちょっかいをかけなければ、これ以上怯えさせることもない。ただ静かに、ちょっと抜けている彼女との同居を続けるだけ。
「返事、できるでしょ?」
シンと静まり返る部屋――
閉め切った窓の向う側から、車の排気音と蝉の鳴き声が空気と調和する。
僕は、覚悟を決めた。
ゆっくりと彼女に近づき、その震える指先から、体温計を静かに引き抜く。
カシャン――
音を立てて、体温計は床に落下した。
ビクリと震える三葉の肩。
その顔は怯え切っていた。
でも、逃げようとはしない。
覚悟を決めたように、キッと誰もいない宙を睨みつける。
「……私、出て行かないから。養護施設で育ったの。親も、助けてくれる親族もいない。だから、ここを引越すつもりないから……!!」
震える声で、必死に啖呵を切る三葉。
僕は住民を追い出す悪霊かよっ!
体温計と風邪薬も出したのに!
僕はキッチンに向かった。
さっきの疲れがまだ残っているから、本当はやりたくない。でも、これで熱を出したまま外に飛び出されたら、今度こそ僕の心が罪悪感で潰れてしまう。
一番軽そうなエナメル製のカップを意識の腕で持ち上げて、シンクの中にそっと置いた。蛇口のレバーハンドルを静かに、優しく押し下げる。
ポタ……ポタポタポタ。
響く水の音に導かれるように、三葉がキッチンへと入ってきた。蛇口から滴る水が、シンクに置いたカップを優しく満たしていく。
「……飲めって事?」
三葉は、手に持ったままの風邪薬とカップを交互に見て呟いた。
レバーを上にあげて、水を止める。
最後の雫が、ポタンと音を立てて水面に落ちた。
そうだよ。
まずは熱を下げろ。
――話はそれからだ。




