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幽霊の僕が彼女に恋をしてしまったら  作者: 白波さめち【カクヨムコン11 受賞】


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四話 三葉の危機


「うう……なんか頭痛いかも」


 その日、バイトから帰った三葉は辛そうに顔を歪めていた。重く沈んだ声の後、湿気を含んだ咳が三葉の肩を揺らす。


 時刻は深夜一時。

 いつもより帰ってくるのも遅い。


 脱ぎ捨てられた靴。

 力無く地面に落とされた鞄。


 額に手のひらを当てながら、彼女はキッチンでコップに水を入れた。水の入ったコップを持って居間に入った彼女は、ふらつく足取りで収納棚を漁り始めた。


 その小さな引き出しには、彼女が引っ越しの時に持ってきた僅かな私物が入っている。


「頭痛薬ないや……」


 熱のこもったため息を漏らして、三葉はその水を飲み干した。そして寝巻きに着替えようと、ズボンを下ろす。


 おい、黒いモヤ。

 三葉が体調を崩してる時くらい、視線を外す配慮くらいしろよ。


 透明なので意味がないことは分かっているが、黒いモヤと三葉の間に立ってみた。


 僕の意識だけは全力で黒いモヤに向ける。

 三葉の着替えが終わるまで、目玉だけを見続けるんだ。


 着替え終わった彼女は、力無い足取りのままで今度はクローゼットに向かった。


「ダメだ……しんどい。夏風邪かな……」


 三葉は衣装ケースから、あの男物のカーディガンを取り出した。部屋にかかったカレンダーを見ると。今は六月。


 湿気が纏わりつくような季節にカーディガンは暑すぎるだろ。


 そう思ったが、三葉は寒いらしい。腕を抱きしめるようにさすりながら、ベッドに倒れ込んだ。薄い掛け布団を隙間なく身体に巻きつけながら、眠りの底に沈んでいく。


 シャワーを浴びるのも辛いみたいだ。

 一人暮らしで風邪を引くと辛いよな。


 僕は鍵をかけ忘れた玄関をそっと施錠し、居間に戻った。机の上にあるリモコンを押して、常夜灯に切り替える。

 

 最初はペンを転がすことすら一苦労だったが、三葉にちょっかいをかけるうち、どんどんこの身体の使い方が分かってきた。


 実体のあるものを動かすのは非常に疲れるけれど、このままにはしておけない。


 ただでさえ、この部屋では一人の人間が解体されてる。


 誰にも知られていない不吉な事故物件だしね。


 三葉の呼吸は、夜が更けるにつれてどんどん浅く、荒れていった。何度も寝返りを打ち、小さく震えながら自身の身体をさする。


 僕はただ、その姿を静かに見守る事しかできなかった。


 カーテンの隙間から朝日が差し込んでしばらくすると、鞄の中でアラームの音が鳴り響いた。

 小さく呻き声を漏らしながら三葉がベッドから起き上がる。


「朝かぁ……」


 のっそりとベッドから出た彼女の顔は、一目で熱があると分かるほど赤い。焦点は合っているのかと聞きたくなるほど、瞳は力無く溶けている。


 おい、まだ寝てろよ。

 今日は休め。


 僕の声にならない言葉を無視して、三葉は鞄からスマホを取り出し、震える指でアラームを止めた。


 一瞬悩むようなそぶりをした後、小さくため息を漏らす。


「大学……行かなきゃ」


 いや! 無理だろ!

 寝てろって! 絶対、熱あるから!


 僕の祈るような叫びは届くことなく、三葉はふらふらとした足取りで準備を始めた。


 朝食を諦め、お弁当も諦めたのに、何かに急かされるように動こうとする。


「お風呂は……無理かも。着替えて、あとはえっと……」


 自分の姿を見てみろよ!

 絶対無理だって。自殺行為だ。

 というか熱測れよ。


 ――そこで気づいた。


 きっと体温計を持ってないんだ。 


 僕はキッチンからベッドのある居間を見渡した。

 

 部屋の突き当たりには、クローゼットと狭いバルコニーに続く窓がある。


 右側にはベッド。

 左側の隅には黒いモヤ。

 その隣にテレビ台、本棚、収納棚だ。

 

 記憶を辿れ。僕は地縛霊だ。


 意識が鮮明になったのが最近だというだけで、前の住民の生活をこの部屋で見続けてきたはずだ。


 どこだったっけ、体温計……!


 意識を集中して、あるはずもない脳から記憶をほじくり返す。


 ……そうだ。

 収納棚の上から二番目の引き出し!

 あの中だ!


 引き出しの取っ手に僕の全ての意識を集める。

 怯えさせるのはわかってるけど仕方ない。

 外で倒れたりなんてしてみろ。僕は助けることすらできない。


 イメージはこの実体のない身体を、『存在』するかのように強く念じることだ。曇った鏡面に字を浮かび上がらせるのとは次元が違う。


 全神経を集中させて起こす、幽霊だけに許された――『怪異』

 

 ガタリと音を立てて、僅かに引き出しが開いた。その隙間から、プラスチックの体温計が顔を覗かせている。その隣に並べられているのは市販薬だ。運よく一緒に入っていた。


 クローゼットの前で服を選んでいた三葉は、びくりと身体を震わせて収納棚に視線を向けた。


「……こんな時に……音、立てないでよ」


 その声には恐怖よりも、やるせない悲しみが籠っていた。


 驚かせようとしたんじゃないって!

 ほら! ここを見ろよ!


 意識を集中させて、もう一度カタリと引き出しを動かした。完全に開くことはできなかったが、確かな音が部屋に響く。


「もう……やめてよ。お願いだから」


 泣きだしそうな三葉の声。

 唇を噛み、ふらふらの身体で寝巻きを脱いだ。


 汗ばんだ肌がここからでも分かって、あるはずもない胸がぎゅっと軋む。


 ちょっかいをかけてるんじゃない。

 同居人を心配しているんだ。


 それが言葉で伝えらないもどかしさ。


 窓は曇っていない。洗面台の鏡面も。

 僕はテレビの上の真っ白な壁を見据えた。

 伝えるには……これしかない。


 『いくな』


 意識を尖らせて、自分の存在をインクのように壁に叩きつける。


 全てを描き切った瞬間、背後から「ヒッ」と息の根が止まるような音が聞こえた。


 我に返って壁を見ると、僕の目の前にあったのは、おぞましい血文字だった。真っ赤な血が壁にどろりと浮かび上がり、重力に従って幾つもの筋が垂れている。


 いや! 怖すぎだろ!

 どう読んでも「いくな」に見えねえ!

 なんなら殺害予告に見える!!


 ふらついた三葉の背中は、壁にぶつかった。

 大きく見開いた瞳は、真っ直ぐに血文字を捉えている。


 先ほどの火照りは一瞬で消え失せ、その顔は真っ青だ。震える唇は、悲鳴を上げることさえ出来なくなっていた。


 やばい。

 やばいやばいやばい!

 完全に!

 やりすぎた!!


 見開かれた瞳から光が消え、身体がぐらりと揺れた。全ての力が抜けた三葉の身体は、重力によってフローリングに引き寄せられる。


 ――ダメだ!


 咄嗟に彼女の身体を受け止めた。

 触れた瞬間、感じたことのない程の心地よい温もりが僕の身体に染み渡るが、今はそれどころじゃない。

 

 普段ならすり抜ける、実体のないこの身体。

 その『理』に反して、無理やり受け止めているんだ。

 

 収納棚の引き出しを開けたり、鍵を閉めるのとは比較にならないほどの負荷が、僕の意識を削った。


 まるで幽霊を構成している魂そのものが消えていくみたいだ。


 粒子の一つ一つが悲鳴を上げ、視界が狭くなっていく。 


 部屋の隅の黒いモヤ。奴はこんな時ですら、二つの目玉で三葉を見つめていた。


 おい! 見てるだけじゃなくて助けろよ!


 叫んでみるが、黒いモヤは動かない。

 下着同然の三葉を見つめているだけだ。


 くっそ……!


 落とすわけにいかない。

 どんどん削れていく意識を必死に繋ぎ止めながら、三葉の身体を引きずるようにしてベッドに運んだ。


 あとは、掛け布団……!


 鉛のように重たく感じるそれも、ずるりずるりと引きずって三葉の肩まで被せる。


 僕の視界は、どんどん黒い闇に塗りつぶされていく。もう、限界だ。

 

 収納棚の前に戻った僕は、最後の力を振り絞った。引き出しを開けて、中から風邪薬と体温計を引っ張り出す。コトン、カシャン、と音を立てて、その二つがフローリングの上に転がり落ちた。


 流石に、これなら気づく……よな?


 ひどく疲れた。

 本当に、ひどく、疲れた。


 僕は少しずつ顔色を取り戻す三葉を見届けながら、深い闇の中へとそっと意識を手放した――


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