四話 三葉の危機
「うう……なんか頭痛いかも」
その日、バイトから帰った三葉は辛そうに顔を歪めていた。重く沈んだ声の後、湿気を含んだ咳が三葉の肩を揺らす。
時刻は深夜一時。
いつもより帰ってくるのも遅い。
脱ぎ捨てられた靴。
力無く地面に落とされた鞄。
額に手のひらを当てながら、彼女はキッチンでコップに水を入れた。水の入ったコップを持って居間に入った彼女は、ふらつく足取りで収納棚を漁り始めた。
その小さな引き出しには、彼女が引っ越しの時に持ってきた僅かな私物が入っている。
「頭痛薬ないや……」
熱のこもったため息を漏らして、三葉はその水を飲み干した。そして寝巻きに着替えようと、ズボンを下ろす。
おい、黒いモヤ。
三葉が体調を崩してる時くらい、視線を外す配慮くらいしろよ。
透明なので意味がないことは分かっているが、黒いモヤと三葉の間に立ってみた。
僕の意識だけは全力で黒いモヤに向ける。
三葉の着替えが終わるまで、目玉だけを見続けるんだ。
着替え終わった彼女は、力無い足取りのままで今度はクローゼットに向かった。
「ダメだ……しんどい。夏風邪かな……」
三葉は衣装ケースから、あの男物のカーディガンを取り出した。部屋にかかったカレンダーを見ると。今は六月。
湿気が纏わりつくような季節にカーディガンは暑すぎるだろ。
そう思ったが、三葉は寒いらしい。腕を抱きしめるようにさすりながら、ベッドに倒れ込んだ。薄い掛け布団を隙間なく身体に巻きつけながら、眠りの底に沈んでいく。
シャワーを浴びるのも辛いみたいだ。
一人暮らしで風邪を引くと辛いよな。
僕は鍵をかけ忘れた玄関をそっと施錠し、居間に戻った。机の上にあるリモコンを押して、常夜灯に切り替える。
最初はペンを転がすことすら一苦労だったが、三葉にちょっかいをかけるうち、どんどんこの身体の使い方が分かってきた。
実体のあるものを動かすのは非常に疲れるけれど、このままにはしておけない。
ただでさえ、この部屋では一人の人間が解体されてる。
誰にも知られていない不吉な事故物件だしね。
三葉の呼吸は、夜が更けるにつれてどんどん浅く、荒れていった。何度も寝返りを打ち、小さく震えながら自身の身体をさする。
僕はただ、その姿を静かに見守る事しかできなかった。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでしばらくすると、鞄の中でアラームの音が鳴り響いた。
小さく呻き声を漏らしながら三葉がベッドから起き上がる。
「朝かぁ……」
のっそりとベッドから出た彼女の顔は、一目で熱があると分かるほど赤い。焦点は合っているのかと聞きたくなるほど、瞳は力無く溶けている。
おい、まだ寝てろよ。
今日は休め。
僕の声にならない言葉を無視して、三葉は鞄からスマホを取り出し、震える指でアラームを止めた。
一瞬悩むようなそぶりをした後、小さくため息を漏らす。
「大学……行かなきゃ」
いや! 無理だろ!
寝てろって! 絶対、熱あるから!
僕の祈るような叫びは届くことなく、三葉はふらふらとした足取りで準備を始めた。
朝食を諦め、お弁当も諦めたのに、何かに急かされるように動こうとする。
「お風呂は……無理かも。着替えて、あとはえっと……」
自分の姿を見てみろよ!
絶対無理だって。自殺行為だ。
というか熱測れよ。
――そこで気づいた。
きっと体温計を持ってないんだ。
僕はキッチンからベッドのある居間を見渡した。
部屋の突き当たりには、クローゼットと狭いバルコニーに続く窓がある。
右側にはベッド。
左側の隅には黒いモヤ。
その隣にテレビ台、本棚、収納棚だ。
記憶を辿れ。僕は地縛霊だ。
意識が鮮明になったのが最近だというだけで、前の住民の生活をこの部屋で見続けてきたはずだ。
どこだったっけ、体温計……!
意識を集中して、あるはずもない脳から記憶をほじくり返す。
……そうだ。
収納棚の上から二番目の引き出し!
あの中だ!
引き出しの取っ手に僕の全ての意識を集める。
怯えさせるのはわかってるけど仕方ない。
外で倒れたりなんてしてみろ。僕は助けることすらできない。
イメージはこの実体のない身体を、『存在』するかのように強く念じることだ。曇った鏡面に字を浮かび上がらせるのとは次元が違う。
全神経を集中させて起こす、幽霊だけに許された――『怪異』
ガタリと音を立てて、僅かに引き出しが開いた。その隙間から、プラスチックの体温計が顔を覗かせている。その隣に並べられているのは市販薬だ。運よく一緒に入っていた。
クローゼットの前で服を選んでいた三葉は、びくりと身体を震わせて収納棚に視線を向けた。
「……こんな時に……音、立てないでよ」
その声には恐怖よりも、やるせない悲しみが籠っていた。
驚かせようとしたんじゃないって!
ほら! ここを見ろよ!
意識を集中させて、もう一度カタリと引き出しを動かした。完全に開くことはできなかったが、確かな音が部屋に響く。
「もう……やめてよ。お願いだから」
泣きだしそうな三葉の声。
唇を噛み、ふらふらの身体で寝巻きを脱いだ。
汗ばんだ肌がここからでも分かって、あるはずもない胸がぎゅっと軋む。
ちょっかいをかけてるんじゃない。
同居人を心配しているんだ。
それが言葉で伝えらないもどかしさ。
窓は曇っていない。洗面台の鏡面も。
僕はテレビの上の真っ白な壁を見据えた。
伝えるには……これしかない。
『いくな』
意識を尖らせて、自分の存在をインクのように壁に叩きつける。
全てを描き切った瞬間、背後から「ヒッ」と息の根が止まるような音が聞こえた。
我に返って壁を見ると、僕の目の前にあったのは、おぞましい血文字だった。真っ赤な血が壁にどろりと浮かび上がり、重力に従って幾つもの筋が垂れている。
いや! 怖すぎだろ!
どう読んでも「いくな」に見えねえ!
なんなら殺害予告に見える!!
ふらついた三葉の背中は、壁にぶつかった。
大きく見開いた瞳は、真っ直ぐに血文字を捉えている。
先ほどの火照りは一瞬で消え失せ、その顔は真っ青だ。震える唇は、悲鳴を上げることさえ出来なくなっていた。
やばい。
やばいやばいやばい!
完全に!
やりすぎた!!
見開かれた瞳から光が消え、身体がぐらりと揺れた。全ての力が抜けた三葉の身体は、重力によってフローリングに引き寄せられる。
――ダメだ!
咄嗟に彼女の身体を受け止めた。
触れた瞬間、感じたことのない程の心地よい温もりが僕の身体に染み渡るが、今はそれどころじゃない。
普段ならすり抜ける、実体のないこの身体。
その『理』に反して、無理やり受け止めているんだ。
収納棚の引き出しを開けたり、鍵を閉めるのとは比較にならないほどの負荷が、僕の意識を削った。
まるで幽霊を構成している魂そのものが消えていくみたいだ。
粒子の一つ一つが悲鳴を上げ、視界が狭くなっていく。
部屋の隅の黒いモヤ。奴はこんな時ですら、二つの目玉で三葉を見つめていた。
おい! 見てるだけじゃなくて助けろよ!
叫んでみるが、黒いモヤは動かない。
下着同然の三葉を見つめているだけだ。
くっそ……!
落とすわけにいかない。
どんどん削れていく意識を必死に繋ぎ止めながら、三葉の身体を引きずるようにしてベッドに運んだ。
あとは、掛け布団……!
鉛のように重たく感じるそれも、ずるりずるりと引きずって三葉の肩まで被せる。
僕の視界は、どんどん黒い闇に塗りつぶされていく。もう、限界だ。
収納棚の前に戻った僕は、最後の力を振り絞った。引き出しを開けて、中から風邪薬と体温計を引っ張り出す。コトン、カシャン、と音を立てて、その二つがフローリングの上に転がり落ちた。
流石に、これなら気づく……よな?
ひどく疲れた。
本当に、ひどく、疲れた。
僕は少しずつ顔色を取り戻す三葉を見届けながら、深い闇の中へとそっと意識を手放した――




