二話 事故物件に入居した女の子
僕の記憶はとても曖昧だ。
気がついた時には、すでにこの1DKの部屋にいた。
不快な音に気づいたことが、意識がより鮮明になったきっかけだったと思う。
湿った何かが断たれる音。硬いものが軋む音。
視線を向けるとそこには異常な光景が広がっていた。
フローリングの上に敷かれた銀色のシート。
そこに土気色になった全裸の死体がうつ伏せに転がっていたんだ。体つきからして若い男性だった。
そして――
その亡骸に覆い被さるようにして、一人の人間が手を動かしていた。
家具を解体して処分する時のように淡々と。
その動きが『遺体を解体している』と理解した瞬間、僕の意識は完全に覚醒した。
分厚いダウンジャケットを着たその人物は、刃物やハンマー、釘のような物を使って、遺体の形を少しずつ、効率的に崩していく。
すぐこの部屋から逃げ出そうと小さな居間から飛び出し左奥にある扉へと向かった。しかし、扉と重なるように存在した透明な壁に阻まれて出ることができなかった。
何故か、ドアノブに触れることができない。
いや、自分の視界に、自分の『手』が映らなかった。
なんで。
なんでなんでなんで。
思考はすでに混乱の域をゆうに超えていた。
広すぎる視野の中、せめて凄惨な光景から目を背けたい。
そう願って初めて、自分に瞼が存在していないことに気づいた。鼻がないから血の匂いも感じない。
僕には――そもそも身体がなかった。
どうやら地縛霊というやつらしい。
というか、人の部屋で何してるんだよ!
いや、幽霊だから不法占拠してるのは僕の方だけど、まさか自分が住んでる部屋が殺人現場になるなんて。
冷たい肉塊の切れ込みから内臓が溢れ出した段階で喉が裂けるほどの叫び声をあげたが、当然のように空気を震わせることもなく音は出なかった。
それから――僕は玄関の扉にもたれかかる様にして、ただ震えていた。
意識だけは必死に扉に向けた。
僕の背後では、骨を砕き、肉を潰す音と水が流れる音が何度も何度も部屋を満たし続ける。
幽霊なんだから目の前の人物に殺される心配はないけれど、恐怖で身体が動かない。黙々と作業をする犯人の顔を覗き込む勇気なんて持てなかった。
ぐしゃり。
硬いものが粉砕する音と共に、ピンク色をした小さな塊が四方八方に飛び散った。
いや……マジで無理。
そこでようやく、僕の意識は真っ暗な闇に沈んでいった。
♦︎ ♦︎ ♦︎
次に意識が浮上した時、静まり返った空間だけが目の前には広がっていた。
まるで夢でも見ていたみたいだ。
遺体も血に濡れたシートも解体道具も全てが綺麗に消え去っている。
それほど広くない1DKの小さな部屋。
本当に夢だったとか?
いや、幽霊が夢を見るのか知らないけれど。
その時――変なモノと一瞬目が合った。
黒い煤が集まってできたような小さな塊。
そこに目玉が二つ浮かんでいる。
そいつは、ギョロギョロと目玉を動かしながら、部屋の隅で戸惑うように周囲を見渡していた。
ああ、お仲間か。
意識が途切れる前には、たぶんいなかったと思う。ということは、この部屋で解体されていた被害者の男性だろう。
そいつは部屋を歩き回れる僕と違って、部屋の隅から動けないらしい。そりゃ戸惑うよな。
それから、複数の人間がこの部屋を出入りした。
年配の大家と警察、さらに中年の女性が何度か部屋を訪れる。どうやら、この部屋の主は『自発的な失踪』ということで片付けられたらしい。
被害者の親族と思われる中年女性は、収納棚の引き出しから通帳と印鑑だけを持って足早に去っていった。
扉が閉まるその瞬間まで女性の背中を追っていた目の前の目玉に、憐れみの情が湧く。
身内を探そうとするそぶりすら微塵もなかったもんな。
それは誰にも気づかれず消えていく人間の、悲壮な最後を物語っていた。
そうして……少し慌ただしい日々の最後に、清掃業者がやってきた。
その日の午後、業者が大家に突きつけた見積書が部屋の静寂を荒く切り裂く。
「荷物を片付けるだけで十万円!? ちょっと勘弁してよ。こっちは家賃も滞納されたままなのに!」
「夜逃げですかね。服から生活用品まで全部残っちゃってますもん」
「若いから孤独死はないだろうと思って、連帯保証人やらの融通利かせたのに! 親にも、保証人じゃないことを理由に逃げられたんだ。……ここから清掃費用も上乗せでしょう?」
「そうですねぇ……」
頭を抱えた大家に、業者が憐れみの目を向ける。
大家さん……残念ですけど、ここ事故物件になってます。
犯人はここで遺体を解体してトイレやお風呂場に流していたようなので『肉片』なんて見つかったら、そんな見積もりじゃ済まないですよ。
そんな事を思いながら、険しい顔で唸り続ける大家の決断を僕は静かに待った。
「大家さん。いっその事、《《このまま》》次に貸し出しちゃうのはどうですか?」
「え?」
人差し指を口元に当てながら業者は大家に提案した。
まるで悪魔の囁きのようだ。
大家の顔が苦渋から驚きへと変わる。
「清掃なし。荷物もそのままで、次に貸しちゃうんです」
「……そんなことできるの?」
「大家さんにはずっとお世話になっていますから、口利きはさせてもらいますよ。ただ、訳ありの子になっちゃいますが」
「家賃さえ払ってもらえるなら我儘言わないよ! 孤独死は困るけどね」
大家の顔に希望の光が差す。
どうやらうまくまとまったらしい。
死体が転がっていたその場所で、大家と業者は固い握手を交わした。
そして数ヶ月後――
この部屋に新しい入居者がやってきた。
荷物は大きめのボストンバッグとダンボールが一つだけ。
長い黒髪に、小柄な身体。くりっとした目。
あるはずのない心臓がドキリと脈打つ。
可愛い――その言葉しか浮かばなかった。
「わぁ! 全然綺麗! 本当にこのまま使っていいんですか!?」
「いいのいいの。軽く掃除はしといたんだけど、荷物は全部残っちゃってるから。服や私物は君に捨ててもらわなきゃいけないけど」
恐縮する大家に、女の子は満面の笑みを向ける。
「そのくらいは全然! 古着も可愛かったら着ちゃうかも!」
「前住んでたのは男の子だけど……」
「気にしません! メンズライクコーデも流行っているので!」
気にしろよ。
その服の持ち主、この床の上で解体されてるんだから。
当然、僕のツッコミは届かない。
女の子は大家から鍵を受け取り、何度も感謝を述べながら部屋の扉を閉めた。
「ついに一人暮らしだー!」
歓喜の声を上げた彼女は、ボストンバッグを玄関に放り出して、靴と上着を脱ぎ捨てた。
ショートパンツに大きめのケーブルニットは卑怯すぎる。厚手で防御力がありそうなのに、無駄に攻撃力を上げている感じ。彼シャツの次に可愛いと思う。
ドキドキする僕の前を、彼女はさらに服を脱ぎながら通り過ぎていった。
「今日から私のベッドー!」
最終的に、彼女はキャミソール一枚になった。
キャミソールの肩紐に光沢のあるピンク色の紐が重なっている。
言わずもがな、ブラジャーの紐だ。
ごくりと唾を飲み込んだ。
唾はないけど飲み込んだ。
え、今日からこの子と同棲(?)するの?
僕、ドキドキして死んじゃわない?
って、もう死んでるけど。
それが、三葉と出会った日の、あまりに不謹慎で正直な「僕」の感想だった。




