プロローグ
事故物件ミステリー
完結してから投稿をしておりますので、安心してお読みください。
透明な指先を、彼女のうなじに触れないギリギリの距離でそっと滑らせる。
意思を持って凝縮させた僕の冷気。
それをふっと柔らかな産毛に吹きつけた。
その瞬間、彼女はビクリと肩を震わせて、うなじを手で覆い隠す。不安げな表情を浮かべながら、キョロキョロと誰もいない周囲を見渡した。
「何……? 今の」
僕からの『下を穿け』というメッセージだ。
ロング丈のTシャツ一枚で部屋をうろうろするとかやめろ。
床に座り込む彼女の白く細い太ももの境界線から、淡い色の下着がチラチラと見えている。
本当に心臓に悪くて、目のやり場に困ってしまうのだ。
まあ、僕にはもう心臓も瞼もないけれど。
視線を部屋の隅へ滑らせると、テレビ台の影に身を寄せるように『黒いモヤ』が不気味に蠢いている。
その塊の隙間から覗く目玉も、さっきからずっと彼女を捉えていた。
さすがにガン見しすぎだろう。
まあ、気持ちは分かるけど。
この部屋の主――
神崎三葉は、一つに縛っていた髪を解いた。
彼女が首を振っただけで、柔らかくて艶のある黒髪がふわりと揺れる。
もし僕に鼻があったら、髪から香るシャンプーのいい匂いに当てられていたかもしれない。
「隙間風かなぁ……」
そんなわけないだろ。
僕が呆れ混じりのツッコミを入れても、声を失った僕の言葉は彼女に届くことはない。
三葉は億劫そうに立ち上がってクローゼットへと向かった。衣装ケースをゴソゴソと漁って取り出したのは、厚手の男物のカーディガンだ。
この部屋に、前住んでいた男の遺留品。
それを丁度いいとばかりに羽織る三葉。
下着がかろうじて隠れる長さのTシャツに、だぼだぼの男物のカーディガンだと!?
「これでよし!」
なにもよくねぇよ!
上の防御力だけ上げてどうすんだ!
足元は相変わらず丸出しだろ!
しかも前の持ち主が誰かも分からない服をそのまま着るんじゃない!
せめて洗濯してから着ろよ!
もどかしさに耐えきれなくなった僕の意識がクローゼットに向いた。その瞬間、僕の意識に呼応した衣装ケースの引き出しが、ガタリと突き上げられたような音を立てる。
三葉の身体が硬直し、視線が再びクローゼットに戻った。その顔には明らかな緊張が滲んでいる。
「……何か引っかかってたのかな」
その無駄なポジティブ精神に僕は頭を抱えた。
まあ、抱える頭なんてないから比喩だけど。
視界の端にいる黒いモヤの目は、衣装ケースの引っ掛かりを確認する三葉の背中を這うように見上げたままだ。
彼女の起こすどんな行動も見逃さないというように。
下心丸出しの幽霊め。
地面にへばりついているんだから、そりゃパンツもバッチリ見えるだろうけどさ。
僕は家賃も払っていない居候の身として、意識だけでもパンツから目を逸らそうと頑張ってるのに。
ローテーブルの前に移動した僕は、先程まで彼女が飲んでいた湯気の立つココア入りのマグカップを見据えた。
その表面に、冷たい僕の感覚をそっと沈める。
三葉が戻ってきたタイミングで、そっとココアの前から移動した。
元の場所に座り直した彼女の太ももは、さっきのカーディガンのおかげで少し隠れる面積が増えていた。
マグカップを手に取った彼女は、ふうふうと息を吹きかけてから唇をその縁に寄せる。
「んっ……冷たっ……」
裏切りにあったかのように驚きに染まった三葉の顔。淹れたての温かいココアが、ほんの一瞬で冷めてしまったのだから当然の反応だ。
ほら、いい加減気づけよ三葉。
君が住んでいるこの1DKの小さな部屋に──
二体も幽霊がいることに。




