十一話 【三葉視点】私の部屋に住む幽霊
ポニーテールの結び目が隠れるよう、私は洗面台に並べた数少ないヘアアクセサリーから一つを選んで挿し込んだ。
ショートパンツとタックインした白いTシャツに合わせるのは、この部屋の前住民『ハルさん』が残していったシャツだ。
程よいオーバーサイズ感。袖を捲り、手首を出して全体のバランスを見る。
うん、結構可愛くまとまってる。
「よし、準備できた」
鏡の前でふぅと息を吐き、自分に気合を入れる。使い古してクタクタになったキャンバス地のトートバッグを肩にかけ、私は玄関へと向かった。
底がすり減った三千円のスニーカー。
足先を入れたと同時に、キッチンからカチャカチャと軽い音がした。
視線を向けると、菜箸と二組の箸が水きりの中で戯れるように触れ合って音を鳴らしている。
そこから視線を少しずらすと、キッチンカウンターの上に取り残されたお弁当袋があった。そこには、今朝握った二つのおにぎりが入っている。
「あっ……! 危ない、忘れる所だった!」
養護施設出身で、奨学金を貰いながら大学に通う私は常にお金がない。お金があった試しがないと言った方がいいかも。
昼は学食を使わず、いつも大学の隅にある古びたベンチで一人おにぎりを頬張る。ただそれだけで数百円の節約ができるのだ。一ヶ月続ければ数千円という大金になる。
「教えてくれてありがと! 行ってくるね! 今日はバイトだから遅くなる!」
さっき音を鳴らした水切り近くの空間に向かって、私は手を振った。
目には見えないから、本当に彼がそこにいるのかは分からない。
でも――この部屋には間違いなく幽霊がいる。
その証拠に壁が一度、優しい音を鳴らした。
『いってらっしゃい』って言ってるんだろうな。
扉を開けて外へ出ると、夏の日差しと湿度のある熱気が私を包み込んだ。室内と温度が違いすぎて、思わず笑いがこぼれる。
「うん、やっぱり寒いよね私の部屋。クーラー入れてないのに」
カンカンカンと軽快な音を鳴らしながら、錆びた鉄製の階段を駆け降りる。目の前のアスファルトの上には薄く陽炎がゆらめいていた。
「神崎さんおはよう。今日も暑いね」
「大家さん、おはようございます!」
アパートの周りを箒で掃いていた大家さんに見送られ、ジリジリと焼けるような日差しの中、大学に向かう。
私の部屋がクーラーいらずなのは、『ユーレイ君』がいるせいだろうな。省エネ生活ならぬ幽エネ生活だ。
入居した時から異変は感じていた。
背筋が震えるほどの冷気が突然流れてきたり、背後から視線を感じたり。
極め付けは、部屋に響く奇妙な物音だ。
バンバン、コンコン、トントン。
私の部屋、オノマトペで溢れすぎ。
震えながらスマホで検索し、それが世にいう心霊現象の一つ『ラップ音』であることを知った。
オカルトサイトによると、『反応しない』ことが鉄則だと書いてあったので徹底的に私は無視をした。
どうせ出ていけるほどのお金なんてない。
退去する選択肢がない以上、あの部屋でやっていくしかないんだもん。
ペンが隠されても、勝手にパジャマが移動していても、窓の結露に絵文字のような怒りマークが書かれていても全部無視!
何度か、盛り塩でもしてみようかと思ったけれど、存在を認めたことになってしまう。
幽霊なんかに負けてたまるかと私は無視を続けた。
すると心霊現象はどんどんエスカレートし、悪化の一途を辿った。
極め付けは壁の血文字だった。
風邪を引いた時に、おどろおどろしい呪詛のようなものが壁一面に書かれていた。洒落にならないほど怖くて、心臓が止まるかと思った。
養護施設で、年上の子達がふざけて上映会をしたホラー映画。それで見た光景によく似ていたっけ。
結局、ユーレイ君に負けて私は話しかけてしまった。
「誰かいるの?」って。
それで分かったのは、ユーレイ君はただ自分の存在に気づいて欲しかっただけだということ。
彼に名前をつけ、コミュニケーションを取るようになった途端、彼は一瞬で少し風変わりだけど素敵な同居人に早変わりした。
忘れ物は教えてくれるし、頭も良さそうだ。
大学の課題に詰まっていたら、机の上にあった教科書から参考になるページを捲って教えてくれた。
私が落ち込んでいる時は、ティッシュを一枚お化けのように浮かせて笑わせてくれたりもする。
ユーレイ君って何者なんだろう?
どうしてあの部屋にいるの?
「あなたは誰?」と聞いた時の返事は二回のラップ音。
『いいえ』と答えたということは、ユーレイ君自身、自分が誰か分からないということだろう。
「外に出られないの?」と聞いた時は、迷うことなく『はい』と答えていた。
地縛霊ってことかな?
ユーレイ君の存在は謎のままだ。
もしかして……
前の住民のハルって人だろうか。
大家さんからは『夜逃げ同然の失踪』と言われたけれど、実は殺されていたりして。
いつしか私は、ユーレイ君と自分をどこか重ね合わせるようになっていた。
『境遇』に縛られた私と、『場所』に縛られたユーレイ君。自分ではどうしようもないことに翻弄されているという点で、私達はよく似ている。
私も自分が何者なのか分かっていない。
生まれてすぐの時から両親がいなかった私にとって、自分の『ルーツ』は空白だ。
この世界と繋がっている感覚が薄いっていうのかな。自分の存在自体が、ずっと宙ぶらりんであやふやな感じがする。
勝手に親近感を覚えているけれど、ユーレイ君も一緒だろうか。
「ちゃんと話せたらいいのに」
「誰と話せたらいいの?」
不意に声をかけられて、横を見ると海斗先輩が私に向かって微笑んでいた。




