はじめての会話
その日の午後。
ルイーゼは執事と数名の護衛を伴い、領内へ出た。
向かう先は、城から少し離れた丘陵地。
すでに防柵と見張り台の建設が始まっているという報告を受けていた。
そして 徴発が強引に進んでいるとも。
馬を降りた瞬間、土と木の匂いが強く鼻をついた。
人の声が飛び交い、木材を運ぶ音、杭を打ち込む音が絶え間なく続いている。
その中心に――
大きな塊、いや、カールがいた。
外套も脱ぎ捨て、兵と同じように泥にまみれながら、何かを指示している。
「そこは間隔が広すぎる! 馬で突破されるぞ!」
怒鳴り声ではない。
だが、逆らえない響きだった。
兵が慌てて動き直す。
ルイーゼは一歩踏み出した。
「ペルツ男爵」
声をかける。
カールは振り向いた。
ほんの一瞬、視線が合う。
だがそれだけだった。
「後にしろ。今は戦の準備で忙しい」
それだけ言って、再び作業に視線を戻す。
取り合う気がない。
その態度に、胸の奥がわずかに熱くなる。
だが、ルイーゼは引かなかった。
「後にはできません」
はっきりと言う。
「領地の防衛について話があります」
周囲の空気が、わずかに変わる。
兵たちの動きが鈍る。
カールはゆっくりと振り返った。
「……何だ」
声に、温度はない。
ルイーゼは執事から書類を受け取る。
「従士長に渡されたこの計画ですが」
紙を開く。
「領内の成年男子の三割を動員、さらに備蓄穀物の過半を消費する内容になっています」
周囲にざわめきが走る。
数字を明確にされたことで、現実味が一気に増した。
「このままでは、農作業が止まり、来季の収穫が大きく落ちます。仮に戦に勝っても、冬を越えられません」
言い切る。
逃げ道は用意しない。
カールは黙って聞いている。
その表情は読めない。
「また、傭兵の雇用も進められていますが、支払いはどこから出すおつもりですか。すでに今年の歳入の見込みを超えています」
一歩、踏み込む。
「このままでは、領地そのものが立ち行かなくなります」
静寂。
兵たちの視線が二人に集まる。
ルイーゼは息を整えた。
言うべきことは言った。
あとは――
相手がどう出るか。
カールが口を開く。
「これはヴァイセンの侵攻を防ぐために必要と見積もったものだ。
伯爵家の負担が大きすぎるなら、アイゼルブルクに言え」
ルイーゼの眉がわずかに動く。
(アイゼルブルク……宰相の名)
(それを、呼び捨て?)
だが――今はそこではない。
自らの領地の防衛は諸侯の責務。
その費用を王政府に要求しても応じてくれるのか。
ピルゼンだけでなく、王国全体の防衛だと訴えればどうか。
ルイーゼの脳内では様々な思惑が駆け巡る。
さらにカールは続けた。
「戦に負ければ、全部終わりだ」
「領地も、収穫も、民もな」
淡々とした声。
だが、その中に揺るぎはない。
「お前の言っていることは分かる。だが順番が違う」
一歩、近づく。
距離が詰まる。
「まず生き残る。それ以外は、その後だ」
圧が来る。
理屈ではない。
生き残ってきた人間の言葉だった。
ルイーゼは一瞬、息を詰めた。
だが――
引かない。
「いいえ」
はっきりと言う。
「私には戦後を見据える責任があります」
周囲が静まり返る。
「戦に負ければ終わりなのはわかります。
だが、戦に勝っても、領地が崩壊すれば意味がありません」
視線を逸らさない。
「私は、領地と領民を守らねばなりません」
カールの目が、わずかに細められる。
初めて、“見る”ような視線だった。
「……どの立場でそれを言う?」
試すような声音。
ルイーゼは書類を差し出す。
「父からは領内の内政を任せると言われています。
領内の人員物資については私の許可を取ってください。
そして、これが私の計画です」
「現状の動員率を二割に抑え、工事は優先順位をつけて段階的に行うべきです」
ページをめくる。
「この丘陵と川沿いの防衛線を先行すれば、最低限の防御は可能です」
さらに続ける。
「傭兵は削減し、その分を領内の兵の増員と訓練に回します。時間はかかりますが、費用は抑えられます」
言葉を重ねる。
準備してきたすべてを出す。
沈黙。
風の音だけが通り過ぎる。
カールは書類を受け取った。
ざっと目を通す。
そして――
小さく息を吐いた。
紙をめくる音だけが響く。
「……甘いな」
一言。
だが、頭ごなしではない。
「戦場で戦ったことのない者の意見だ。
万全を尽くしてもうまくいかない、それが戦場だ」
「承知しています」
即答する。
「わかっていない。
机上だけで戦のことに口を出すな」
ほんのわずか、間が空く。
カールは再び書類を見る。
反論はできた。だが、するべきではないと思った。
彼はまだ、書類を見ている。
「……書いてやる」
顔を上げる。
「アイゼルブルクにこの防衛にかかる費用の半分を王政府が出してやれと、書いてやる」
周囲がざわめく。
「動員は順調に行けば減らしていく。工事は優先順位をつける。ただし、傭兵は減らさない」
断言する。
「戦については俺に任せろ」
これまでの経験から来た自信に満ちたものであった。
否定できない。
ルイーゼは息を吐いた。
(私の言葉は聞いた)
確かに。
この男に、自分の言葉を通した。
カールが視線を向ける。
「名前は」
短く問う。
ルイーゼは一拍置いた。
「……ルイーゼです」
「そうか」
それだけ言う。
だが、その声は最初とは違っていた。
「次からは最初に来い。後から文句を言われるのは面倒だ」
背を向ける。
もう話は終わりだというように。
だが――
完全な拒絶ではなかった。
ルイーゼはその背を見つめた。
大きい。
圧倒的に。
だが、もう――
(ただの戦闘だけの男ではない)
理解できる。
少なくとも、話は通じる。
それだけで——今は十分だった。
ただ。
彼はまだ、自分の名前を知らなかった。




