逃走
六日目の深夜、カイは記事を書き始めた。
部屋の鍵をかけ、椅子の背もたれに自分のジャケットを引っ掛けてドアノブを塞いだ。ノートパソコンを開き、これまでのメモを全て広げた。テーブルの上には第六皇子ルカから預かった侍医の記録、各部屋での取材メモ、スマホに残した写真と動画。
カイは書き始めた。
皇帝の死は毒殺である。第二皇女セリアと第三皇子ダリウスが共謀し、皇帝の暗殺を実行した。使用された薬物は帝国の正規ルートでは入手不可能なものであり、マフィア組織を経由して船内に持ち込まれた形跡がある。
書きながら、カイは自分が今どれだけ危険な場所に立っているかを改めて考えた。この記事を外部に送信できれば、全てが変わる。送信できなければ、この紙切れは永遠に誰の目にも触れない。
問題は船がまだ海の上にいることだった。
クロノス号の通信システムは帝国の管理下にある。外部への大容量データ送信には、帝国通信局の承認が必要だ。記事を本社に送ろうとすれば、その内容が検閲される可能性が高い。
カイはしばらく考えてから、別の方法を思いついた。
船内SNSではなく、個人の衛星回線を使う。乗船前に契約していた海外の通信サービスだ。帝国の通信網を介さない。ただし送信できるデータ量に限りがある。記事全文は無理でも、核心部分だけなら・・・。
カイは記事を書き続けた。
その夜遅く、船内放送が流れた。
カイはパソコンから顔を上げる。深夜の放送は珍しい。
『第三皇子ダリウス殿下が、本日深夜、クロノス号外部通路より転落されました。現在捜索中です』
カイは驚き立ち上がった。
転落・・・ミラのときと同じだ。しかし状況は全く違う。ミラは朝に発見されたが、ダリウスは深夜に「転落した」と放送されている。つまり誰かが目撃しているか、あるいは誰かが仕組んだか・・・。
カイはジャケットを掴んで部屋を出た。
Dデッキの外部通路はすでに軍と警察の両方が封鎖していた。
しかし様子がおかしかった。軍の兵士と警察官が、互いに背を向けて立っている。連携していない。それぞれが別々の命令で動いているらしい。
カイが近づくと、警察官の一人が規制線を張ろうとしていた。しかしその動きが妙にぎこちなかった。まるで何をすべきか迷っているような——。
カイは乗船証を出すと、今回は警察官が止めずに素通りさせてくれた。
外部通路の手すりのところに軍の副官が立っている。手すりの一部が内側に折れていた。誰かが強い力で押し込んだような跡だった。
「ダリウス殿下は」とカイは聞いた。
「まだ発見されていません」副官は硬い表情で言った。「海面の捜索を続けています」
カイは折れた手すりを見る。外から押されたのではなく内側から、つまり自分で乗り越えた跡だった。
なぜダリウスは、深夜にここにいたのか。
翌朝、答えは思わぬところから来た。
カイが部屋に戻ろうとしたとき、廊下の陰から人が出てきた。第三皇子ダリウスの側近の一人、三十代の男で、これまで常にダリウスの後ろに控えていた人物だった。
男の顔は青ざめている。
「少し話せますか。誰にも聞かれたくないのです」
カイは男を乗務員通路に連れ込んだ。
男は震える声で話し始める。
「昨夜、殿下のもとにメッセージが届きました。送り主は警察署長でした」
「署長から?」
「はい」男は続けた。「内容は『アルノ殿下が今夜、第三皇子を処刑するための証拠を掴みました。今すぐ逃げてください。Dデッキ外部通路に脱出用の小型艇を用意しました』というものでした」
カイは興覚めする。
「殿下は信じたんですか」
「信じました。署長はずっと殿下の味方でしたし、殿下はそう思っていたはずです。だから疑わなかったのです」
カイの頭の中で全てが繋がった。
警察署長はすでに第二皇女セリアの側についているのだ。セリアのマスコミ網が警察とマフィア組織アンカーの癒着を掴んでいて、それを盾に署長を脅している。ダリウスが「警察は自分のものだ」と思い込んでいた時点で、署長はとっくにセリアのものになっていたのだ。
偽の脱出情報を流したのはセリアだ。署長を使って。
Dデッキに小型艇などなかった。あったのは行き止まりと、迫ってくるアルノの兵士に扮する警察かマフィアの足音だけだったに違いない。逃げ場を失ったダリウスは手すりを乗り越えた・・・海に向かって。
「母上は」と男は続けた。「今朝、警察に拘束されました。捜査協力という名目で」
カイはメモを取る手を止めた。
「署長の命令ですか」
「はい。でも実際はセリア殿下の指示だと思います。殿下の母上は警察とマフィア組織アンカーの癒着について全てを知っている。その口を封じるために」
カイは乗務員通路の壁に背中を預ける。
第二皇女セリアはダリウスを罠にかけて海に落とし、同時に警察署長を動かしてダリウスの母親を拘束した。一夜のうちに二手を打った。
警察への影響力も、マフィア組織アンカーへの繋がりも、全てセリアの手に渡った。
残りは三人。第一皇子アルノ、第二皇女セリア、第六皇子ルカ。
廊下の窓から下を見ると、船内の広場は昨夜の暴動の痕跡が残っていた。割れたガラス、散乱したゴミ、焦げた壁。軍が完全封鎖して乗客を客室に押し込めていた。しかしSNSは止まらなかった。「#クロノス号の真実」「#帝国を終わらせろ」世界中から何千万というアクセスがこの船に集中している。船内の状況が分刻みで世界に流れていた。そしてその群衆の中にマフィア組織アンカーの残党が民間人に紛れて動いているとカイは確信していた。
午前中、カイが部屋に戻ろうとしたとき、廊下に人の気配を感じ取る。
ドアスコープを覗くと、黒いスーツの男が一人、廊下の壁際に立っていた。第二皇女セリアの側近だとすぐに勘づいた。
カイは部屋に戻らず、乗務員通路を使ってBデッキへ降り、セリアの監視を振り切った。
しばらくするとスマホにメッセージが届く。第一皇子アルノの副官からだった。
『記録者カイ氏へ。皇子殿下が至急お呼びです。現在地を教えてください』
返信しなかった。
カイは乗務員通路を歩きながら、どこへ向かうべきかを考える。昨夜書いた真実を伝える記事を送信するには、船内で最も電波状態が良い場所、最上層の展望デッキが必要だ。しかしそこはアルノの軍が封鎖している。
もう一つ方法があった。
第六皇子ルカの部屋のドアを叩いたのは午前八時過ぎだった。
しばらく間があってからドアが開く。ルカは昨日より顔色が悪かった。それでもカイを部屋に招き入れてくれた。
「来ると思っていました」ルカは静かに口を動かす。枕元の曇りガラスの球体が朝の光を鈍く受けていた。
「ダリウスが死にました」とカイは汗を流しながら伝えた。
「知っています。昨夜にはこうなるとわかっていました」
「どうしてですか?」
「帝国の歴史を読めば、人間のパターンはいつも同じです」ルカは球体にそっと指を触れた。「信じていた者に裏切られた人間は、必ず焦って動く。そして焦った人間は罠に落ちる」
カイは鞄を下ろし、パソコンを開いた。
「記事を書きました。真実を伝える為に外部に送信したいのですが・・・ただし帝国の通信網を介さずにです」
ルカは少し考える。
「私の個人回線を使いますか?海外の衛星通信です。帝国の管理下にないものになります」
「そういうものをお持ちなんですか?」
「母が死んだとき・・・帝国の公式発表を信じていない者が外部と連絡を取るために用意してくれたものです」
カイは第六皇子ルカの目を見た。ルカの母の死、公式には病死とされているが、帝国内では様々な噂があったのも事実。ルカはその死の真相をずっと疑っていたのかもしれない。
「使ってください」ルカは小さな端末をカイに渡した。「ただし——」
そのときドアがノックされた。
二人は同時に動きを止める。
「ルカ殿下」外から声がする。低い男の声だ。「確認があります。開けてください」
セリアの側近の声だった。
第六皇子ルカはカイの顔を見ると、カイはパソコンを素早く鞄に戻し、端末を握り締めながら、部屋の奥へ移動した。その様子を確認してからルカが静かにドアを開けた。
「何でしょう」
「記者のカイという男を見ませんでしたか」
「見ていません。私はずっと部屋にいますし、ご覧の通り体調も優れないので・・・」
男はルカの顔を見て、部屋の中を一瞥した。カイは壁際で息を殺していた。男の視線が部屋を流れる、しかしカイのいる角度までは届かなかった。
「失礼しました」
ドアが閉まる音を聞いてカイは息を吐いた。ルカが振り返る。その顔は青白いままだったが、目だけは静かに光っていた。
ルカの端末を使ってカイは記事の核心部分を送信した。
皇帝毒殺の証拠、薬物の出所、関与した人物の名前、全てを圧縮して、本社の編集長宛に送った。添付したのは侍医の記録のデータと、Bデッキで撮影した錨の入れ墨の男の写真だ。
送信完了のサインが出た瞬間、カイは初めて、この数日間で深呼吸をした気がした。
「送れましたか」とルカが聞いた。
「送れました」
ルカは小さく頷いた。枕元の球体を手に取りしばらく眺めた。
「カイさん。これであなたの仕事は終わりです」
「終わり、とは?」
「記者としてすべきことをした。あとはもうこの船の外の話です」
カイはその言葉の意味を考える。しかしルカはそれ以上何も言わなかった。
ただ、曇りガラスの球体の内部が、いつもより深く濁って見えた。
部屋を出たのは午前十時だった。
廊下に出た瞬間、カイは足を止めた。
廊下の両端に人が立っていた。片方にはセリアの側近が二人。もう片方には、アルノの副官と兵士が一人。
そして廊下の中央に堂々とセリアが立っていた。
金髪が廊下の蛍光灯に白く光っている。いつもの完璧な微笑みだった。しかし今日のセリアの目は、これまでと少し違った。計算ではなく確信の目だった。
「カイさん」セリアは静かに言った。「記事を送りましたね」
カイは答えなかった。
「どこに送ったかはもうわかっています。帝都週刊の編集長宛に。衛星回線を使ったのでしょう」
カイの胸の中で何かが冷たくなった。
第六皇子ルカの端末を使ったことまで把握していた。
「セリア殿下は全部知っていたんですか?最初から」
「全部ではありません」セリアは微笑んだ。「でも必要なことは全て・・・」
廊下の両端で人が動く。
カイは鞄を握りしめたがそこに逃げ場はなかった。




