女の微笑み
謎のメッセージの返信を送ってから、三十分が経った。
カイは部屋の椅子に座ったまま、スマホの画面を見つめていた。既読はついている。しかし返信はない。送り主が誰なのか、どこで会うつもりなのか——何も来なかった。
窓の外は暗い海だった。船はどこまでも進んでいる。
カイはノートを開いて、今日訪ねた六つの部屋のことを整理し始めた。メモを読み返すうちに、一つのことに気づいた。
ダリウスが言っていた。「昨夜からとっくに始まってる」と。
皇帝が死んだのは今朝だ。しかし「昨夜から」始まっていたとすれば——それは皇帝が死ぬ前から、誰かがすでに動いていたということになる。
カイはペンを止めた。
考えすぎかもしれない。ダリウスは単に「権力争いというのはそういうものだ」という意味で言ったのかもしれない。しかしあの男の目は、言葉以上のことを知っていたように感じたのも事実だ。
スマホが震える。
メッセージではなく着信だった。番号は非通知。カイは一瞬迷ってから出る。
「明日の朝、七時。Dデッキの船尾にある倉庫の前でお待ちしています」
低い声だった。男か女かもわからないがそれだけ言って電話は切れた。
カイはしばらくスマホを握ったまま、天井を見上げる。
行くべきか。罠かもしれない。しかし行かなければ何も掴めない。
推理ドラマの主人公なら間違いなく行く——カイはそう思って、一人苦笑した。自分は小説の主人公ではなくただの記者だ。
それでも記者魂というか、危険に足を踏み出す行為だと分かっていながらも、好奇心も相まって行くことを決める。
翌朝、カイがDデッキへ向かおうとしたとき、スマホに通知が溢れていた事に気付く。深夜のうちに「#クロノス号の真実」というハッシュタグが国内でトレンド入りしていた。匿名アカウントが「第三皇子が船内で非合法の薬を密売をしている」「第一皇子の出生には秘密がある」といった投稿を連発している。第五皇子オズの陣営による他の王族へのリーク工作だとカイは感づく。SNSはすでに各陣営の情報戦の主戦場になっていた。乗客たちはその投稿を見てざわめき、船内の廊下での会話のトーンが昨日より明らかに緊張していた。
廊下で第二皇女セリアと鉢合わせる。両脇にはガッシリとした体格の護衛が二人立っていた。
偶然ではないとすぐにわかった。セリアはカイの部屋のフロアにいる理由がない。
「おはようございます、カイさん」
セリアは今日も完璧だった。淡いベージュのジャケット、金髪は緩くまとめられている。朝だというのに、一分の隙もない。
「少しよろしいですか。一緒に朝食でも」
断れる雰囲気ではない。カイは倉庫の約束まであと四十分あることを確認してから、頷く。
連れて行かれたのは最上層の展望レストラン。
広いガラス張りの窓から朝の海が見える。波は穏やかで、水平線が金色に染まっていた。他の客はまだ少なく静かだった。セリアは窓際の席を迷わず選ぶ。予約していたのだろう。
「昨日はゆっくり話せませんでしたから、今日は少し本音で話しましょう」
「本音で、ですか」
「ええ」セリアはカイを真っ直ぐに見た。「あなたは賢い記者です。昨日一日で、私たちのことをある程度読んだはずです。違いますか」
カイは答えなかった。
「正直に言います」セリアは続けた。「私はこの継承戦に勝つつもりでいます。そのために必要なことは何でもする覚悟がある。そしてあなたという記者はその覚悟の中で、非常に重要な位置にいます」
「どういう意味ですか」
セリアはコーヒーを一口飲んだ。
「情報です。この船で何が起きているか、誰が何をしているかそれを帝国の民に伝える力を持っているのはあなたです。私が何を言っても、それはただの皇女の言葉に過ぎない。でもあなたが書いた記事は事実として読まれる」
カイは静かに聞いている。セリアは続けた。
「私はあなたに嘘をつくつもりはありません。それどころか、私が持っている情報を必要に応じて提供します。条件は一つだけです」
「条件?」
「書く前に私に見せてください。それだけです」
カイは窓の外の海を見る。穏やかな朝の海と、この会話の中身があまりにも対照的だった。
「それは報道の独立性の問題になります」
「もちろんです」セリアは微笑んだ。「だから『条件』と言いました。お願いではなく」
その微笑みには圧力があった。柔らかい圧力だったが、確かに存在していた。
「考えます」
「もちろん。ただ、あまり時間はありません。この船の状況は、あなたが思っているより速く動いています」
そう言い残してセリアは席を立つ。残されたコーヒーは、まだ湯気を立てていた。
カイは時計を見た。倉庫での約束まであと十五分。
Dデッキの船尾は一般客がほとんど立ち入らないエリアだった。
倉庫が並ぶ薄暗い廊下を進むと、突き当たりの扉の前に人影があり、カイが近づくと、その人影が振り返る。
なんと第六皇子ルカだった。
カイは思わず足を止める。
「驚きましたか?来てくれると思っていました」
ルカは静かに口を開く。
「あの電話は殿下が」
「変声アプリを使いました。護衛にも知られたくなかったので」
ルカはニコッと笑みを見せ扉を開ける。中は小さな倉庫で、ロープや工具が積まれていた。二人が入るとルカは扉を閉めた。
薄暗い倉庫の中で、ルカの青白い顔がぼんやりと浮かんで見えた。ジャケットのポケットに右手を入れたまま、何かを握りしめている。小さな丸いものの輪郭がポケットの布地を押していた。あの曇りガラスの球体だとカイは直感した。
「時間がないので直接話します」ルカは言った。「父の死は自然死ではありません」
カイは息を止めた。
「証拠はありますか」
「あります」ルカはジャケットの内ポケットから、折りたたんだ紙を取り出した。「父の侍医が残した記録です。投与された薬物の成分、それが帝国の正規ルートでは入手不可能なものであること。そしてその薬物が、あるマフィア組織を経由して船内に持ち込まれた形跡があること」
カイは紙を受け取り、目を走らせた。専門的な医学用語が並んでいたが、結論の部分は明確だった。
「なぜ私に」とカイは聞いた。
「あなたしかいないからです。私には軍もない、組織もない、潤沢な資金もない。体も、ご覧の通りです」ルカは自分の細い手を見た。「この船で私が戦える武器は情報だけです。そしてその情報を世に出せるのは、記者であるあなただけだ」
「でもこれを公開すれば殿下も危険になる。誰の仕業かがわかれば、その人物はあなたを黙らせようとするはずだ」
「知っています。だから今は公開しなくていい。ただ持っていてください。何かあったときのために」
カイはルカを見た。青白い顔、細い体。しかしその目だけは、昨日の式典のときと同じ静けさを持っていた。怖がっていない、というよりすでに覚悟を決めている目だった。
「わかりました。預かります」
カイが返事をするとルカは小さく頷く。
「もう一つだけ」ルカは言った。「セリアには気をつけてください」
「なぜですか」
「あの人は最初から答えを持っている人間です」
倉庫を出て、カイは一人で廊下を歩いた。
胸のポケットに、折りたたんだ紙が入っている。薄い紙切れ一枚が、今この船で最も危険なものかもしれない。
上の階からはすでに一般客たちの朝の喧騒が聞こえてきた。子供の笑い声、コーヒーの匂い、船内テレビのニュース音声。三万人の日常が、何も知らないまま続いている。
カイはエレベーターのボタンを押しながら、第二皇女セリアの言葉を思い出す。
「この船の状況はあなたが思っているより速く動いています」
その言葉が今、別の意味を持って聞こえた。
セリアはすでに知っているのかもしれない。父の死の真相を。そして誰がそれを知っているかも。
エレベーターが開くと、カイは乗り込みながら一つだけ決めた。
当分の間、誰も信じない。第六皇子ルカでさえも。
この船で唯一信じられるのは、自分の目と、自分のメモだけだ。




