開戦
皇帝崩御の報が船内に広まるのに一時間もかからなかった。
SNSには「#クロノス号」「#継承戦 」のハッシュタグが溢れ、船内テレビは通常放送を中断して速報を流し続けた。カイはその映像をスマホで確認しながら、上層階へ向かうエレベーターの中に立っていた。
隣には同僚のカメラマンがカメラを抱えて、珍しく緊張した顔をしている。
「取材できるのか、こんな状況で」
「するしかないだろ」とカイは言った。「俺たちが乗ってる理由が今この瞬間に変わったんだ」
皇帝の素顔を記録する取材から、帝国の継承戦を記録する取材へ。誰に命じられたわけでもなく、カイの中でそう切り替わっていた。
エレベーターが最上層、Aデッキで止まりドアが開いた瞬間、空気が変わる。廊下の両端に黒いスーツの護衛が二人ずつ立っている。カイが一歩踏み出すと、右側の男がすぐに前に出た。
「関係者以外、立ち入り禁止です」
「帝国公式記録者です。各皇族への取材許可は出航前に皇室広報から書面で取っています」カイは乗船証を差し出す。
男は書面を確認し、無線で何かを確認してから渋い顔のまま道を開けた。
廊下の奥には六つの大きな扉が間隔をあけて並んでいた。その廊下の入口近くに、もう一つ小さな扉があった。 「記録者室です」とスーツ姿の男性が無愛想に言った。 帝国公式記録者専用の作業室——小さいが机と椅子とネット環境がある。 カイはここを拠点に、各皇族の部屋を行き来することになった。
最初に連絡が来たのは第一皇子アルノの副官からだった。
午前九時過ぎ、カイのスマホにメッセージが届く。『第一皇子殿下が、帝国公式記録者として本日の声明を記録していただきたいとのことです。十時にAデッキまでお越しください』簡潔で命令口調の文面だった。
指定された時刻にAデッキへ向かうと、副官が扉の前で待っていた。三十代後半、短髪、背筋が定規で測ったように真っ直ぐだ。
「お待ちしていました。どうぞ」
通された部屋は他の客室とは明らかに広さが違った。リビングに応接セットが置かれ、壁際には帝国の地図が広げられていた。地図には赤いピンがいくつか刺さっている。軍の駐屯地だろうか。
部屋の奥、仕切りの向こうに人の気配があった。副官が「正妃陛下は奥の間でお休みです」と小声で言った。アルノの母、正妃だ。帝国で最も格式の高い妃であり、第一皇子アルノの後ろ盾の一つでもある。ただし今は沈黙していた。夫を亡くしたばかりの女が、息子の継承戦をどんな気持ちで見ているのか、カイには想像もできなかった。
テーブルの上には手のついていない朝食が置かれていた。白いパンと、冷めかけたスープ。アルノは食事をする気にもなれないらしい。
アルノは窓際に立っていた。腕を後ろで組み、海を見ている。カイが入ってきても振り返らなかった。
「五分だけだ」
アルノはそう言ったまま海を見続ける。
「父が死んだ。それだけで今日という日の意味は決まった。私が何をすべきかも」
「継承戦、ということですか」とカイは静かに聞いた。
「それ以外に何がある」
ようやくアルノが振り返った。目が、昨日の式典より鋭くなっていた。
「記者に一つだけ言っておく。この船で起きることを正確に記録しろ。感情を混ぜるな、憶測を書くな。帝国の継承とはそういうものだ。強い者が勝ち、弱い者が散る。それだけだ」
カイはメモを取りながら、アルノの言葉の裏を読もうとした。正論に見えて、これは牽制だ。「余計なことを書くな」という意味が含まれている。
「承知しました。ありがとうございます」
部屋を出るとき、カイはさりげなく地図を一瞥した。赤いピンは船内の各フロアに対応しているように見えた。
アルノはすでに船内の軍事的な掌握を始めている。
第二皇女セリアの側近から連絡が来たのは、アルノの部屋を出て三十分後だった。
『セリア殿下がカイ記者とお話ししたいとおっしゃっています。ご都合はいかがでしょうか』——丁寧な文面だったが、断れる雰囲気ではない。カイはすぐに返信して、午後一時にセリアの部屋を訪ねる。
扉を開けたのはセリア本人だった。昨日の式典と変わらぬ完璧な微笑みで、カイを招き入れる。部屋の中は白と金で統一されていて、デスクの上にはノートパソコンが三台並んでいた。側近の女性が一人、その前で素早くキーを叩いている。
部屋の奥には、もう一人女性がいた。五十代、金髪、セリアとよく似た骨格の顔立ち。母親だとすぐにわかった。帝国最大のメディアグループ「ヴェラン通信」を支配する財閥の当主——セリアの母は、娘の隣に座り、ノートパソコンの画面を肘をついて静かに見ていた。こちらはカイに目もくれなかった。
「カイさん、でしたね」
セリアはソファに座り、カイに向かいの席を示した。テーブルには紅茶が二つ、すでに用意されている。
「どうぞ。冷めないうちに」
カイはカップに手を伸ばしながら、これは計算された親切だと思った。「記者と友好的な関係を築く女」という絵を最初から描いている。
「率直に伺います」とカイは言った。「継承戦が始まります。皇女殿下はどう動かれるおつもりですか」
「動くというより」セリアは紅茶を一口飲んだ。「正しいことをするだけです」
「正しいこと、とは」
「情報です。この船で何が起きているか、帝国の民は知る権利がある。そのためにあなたのような記者がいる。そしてそのためにこそ、私は協力を惜しまないつもりでいます」
デスクの上のノートパソコンの一台には、SNSのダッシュボードが開いていた。「#継承戦」のリアルタイム投稿数、各王族への言及数、好感度の推移グラフ——数字がリアルタイムで動いている。セリアの陣営はすでに、世論という戦場でも戦いを始めていた。
カイは頷く。しかし内心では別のことを考えていた。「情報を制する者が戦いを制する」セリアが言っているのはそういうことだ。そして今、カイという記者を「情報の出口」として確保しようとしている。
「何かあればいつでも来てください」とセリアは立ち上がった。「あなたがこの船の真実を書いてくれると、私は信じています」
扉が閉まり廊下に出たカイは少しだけ息を吐く。
あの部屋にいた三分間、ずっと見られていた気がした。
そして第三皇子ダリウスからの呼び出しはセリアの部屋を出た直後に来た。
メッセージではなく、側近が廊下で直接待ち構えていた。無言のまま顎でAデッキの方向を示す。ついてこいという意味だとわかった。断れる状況ではない。
ダリウスの部屋の扉は側近が乱暴に開けた。
部屋に入った瞬間、甘ったるい煙の匂いが鼻をつく。水タバコだった。ガラス製のパイプがテーブルの上に置かれ、細い煙を天井へ向けて漂わせている。テーブルには飲みかけのウイスキーのグラスも並んでいた。スーツを脱いだ第三皇子・ダリウスがソファに深く沈んでいた。式典のときとは別人のように見えた。目の下に隈がある。昨夜から眠れていないのかもしれない。
部屋の隅に一人の女性が座っていた。六十代、がっしりとした体格、ダリウスに似た鋭い目。ダリウスの母——帝国警察の幹部を長年輩出してきた家系の出身で、現在の警察署長もこの女性の縁戚にあたると、カイは事前の調査で知っていた。女性はカイを見ると、品定めするように一瞥してから、視線を窓の外に戻した。
「なんだ、記者か」
「少しだけお時間を」
「時間ならある」ダリウスは鼻で笑った。「どうせ誰も来ないよ」
カイは椅子に座り、ノートを開いた。
「継承戦についてお聞きしたいのですが・・・」
「始まったよ、もう。お前は気づいてないかもしれないけど、昨夜からとっくに始まってる」ダリウスはウイスキーを一口飲んだ。
「昨夜からですか?」
「ああそうだ。人が死ぬ前から戦争は始まるんだ。それがこの国の定めだからな」
ダリウスはそれ以上は言わなかった。カイが何を聞いても、短く答えるか、黙るかのどちらかだった。しかし帰り際、カイが立ち上がったとき、ダリウスが低い声で言った。
「おい、お前。記者だからって余計なことは書くなよ」
水タバコの煙が蔓延する部屋。大きなテーブルの上には薬物らしき物が複数乱雑に置かれているのが目に付いた。ダリウスの忠告はカイに対する脅しだった。
第四皇女ミラへの取材申請を出したのは午前中。
だが他の王族と違い、ミラの側近からの返答は遅かった。二時間ほど待ってから『殿下がお会いになります。十五時にいらしてください』という簡潔なメッセージが来た。待たされた分、何か条件があるのかと身構えたが、部屋に通されると、ミラは普通にテーブルで書類を読んでいた。部屋の奥では、母親らしき女性が刺繍をしていた。地味な服装、穏やかな顔立ち。帝国貴族の出身ではなく、庶民の家から皇帝の側妃に選ばれたと聞いていた。その母親はカイに気づくと、静かに会釈をして立ち上がり、隣の部屋へ消えた。余計な存在感を出さない——それはミラと同じ処世術だとカイは感じ取る。分厚い書類だ。近づいてみると、帝国憲法の条文だとわかった。付箋が何枚も貼られ、赤いペンで書き込みがある。
「あ、すみません、散らかってて」
ミラは書類を閉じ、カイに向かって微笑む。昨日と同じ穏やかな顔だ。
「どうぞ座ってください。何を聞きたいですか?」
「率直に継承戦についてどうお考えですか」
「難しいですね」ミラは少し考えるように首を傾ける。「ルールがあるじゃないですか、ちゃんと。そのルールの中で、正しく戦うのが大事だと思っています」
「ルールの中で?」とカイは繰り返した。
「ええ。ルールを知っている人間が一番強いんです。例えどんな状況でも」
それは政治的な発言ではなかった。ただの事実として、静かに言われた。カイはふと、先ほど閉じられた憲法の書類を思い出す。あれだけの書き込みをしていたということは——ミラはすでに、法的な抜け穴を探している。
「ありがとうございました」とカイは立ち上がった。
「またいつでもどうぞ。私の部屋はいつでも開いてますから」
廊下に出てカイはメモに書いた。〈ミラは賢い読書好きな皇女様〉。
第五皇子オズからの連絡はまさかのSNSのDMで来た。
『ねえ記者さん、暇?来てよ。話しようよ』——他の王族とは全く違うトーンに、カイは思わず画面を二度見する。送信者はオズ本人の公式アカウントだった。フォロワー二百万人を持つ人物が記者に直接DMを送ってくる。これもオズらしいと思いながら、カイは部屋を訪ねる。
扉の前に立つと、中から音楽が聞こえてきた。ノックをすると「どうぞー」と軽い声が返ってきた。入ると、オズはソファに横になって天井を見ていた。昨日のワインレッドのジャケットはさすがに脱いでいたが、代わりに派手な花柄のシャツを着ている。スマホを胸の上に置いて、音楽を流していた。
「あ、記者さんいらっしゃい。座って座って」
オズは身を起こし、カイに向かってひらひらと手を振った。テーブルには色とりどりのフルーツと焼き菓子が並んでいた。六人の皇族の中で、唯一食事に手をつけているように見えた。母親の姿はなかった。オズの母はこの航海が始まる前に病で亡くなっていると、カイは資料で読んでいた。だからオズはこの船で「守られるべき後ろ盾の母親がいない」皇子だった。
「継承戦が始まりましたが・・・」とカイは切り出した。
「始まりましたねえ」オズは菓子を一つつまんだ。「で、私に何を聞きたいの?どう動くつもりかとか?」
「そうです」
「正直に言うとさ、私はこのゲーム自体がどうかと思ってるんだよね。兄弟で殺し合って最後の一人が王様って、それ正気?」
「しかしそれこそがこの帝国の伝統ですが・・・」
「伝統って言葉、私は好きじゃない。残酷なことを続ける理由にしかならないから。そう思わない?」
カイは黙ってメモを取り続ける。
「まあでも」オズは足を組む。「ゲームに乗っかるしかないんですよ、乗っかる以上は。降りたら死ぬんだから」オズはにっこり笑った。「だから私は私なりにやりますよ。あなたも応援しててね」
「何をやるんですか」
「それは秘密」
オズは音楽を少し大きくした。カイが部屋を出る合図だとわかった。
第六皇子ルカへの取材申請は最後に出した。
記者へ事前に配布された資料に記載されているアドレス宛てに送ると、返答は意外なほど早かった。十分も経たないうちに『いつでもどうぞ』という一言だけが届く。側近を通してではなく、ルカ本人のスマホから直接送られてきたのだ。
扉を開けると、ルカは窓際のソファに座って占いの本を読んでいた。護衛は部屋の外に一人いるだけで、部屋の中はルカ一人だった。他の皇族の部屋と比べると、側近も荷物も驚くほど少ない。ルカの母はすでにこの世にいない。数年前、病で亡くなった。その死については帝国内でも様々な噂があったが、公式には病死とされていた。この船でルカの傍にいる人間は、護衛一人だけだった。
部屋の中で一つだけ、他の皇族にはないものがあった。窓際の小さなテーブルの上に、握り拳ほどの大きさのガラス製の球体が置かれていた。透明ではなく、内部に白い靄が閉じ込められているような、古びた曇りガラスだ。帝国の建国神話に登場する「見通す目」と呼ばれる神器の水晶だと、カイは後から知った。本棚には古文書らしき革表紙の本が何冊も並んでいた。帝国の神秘学、古代の予言書——ルカが読んでいたのは、そういった類の本だった。
「どうぞ」とルカは本を閉じる。「待っていました」
「待っていた、とは?」
「あなたが来ると思ってさ。全員の部屋を回るでしょう、あなたは。私が最後になるのも、占いを通してわかっていました」
カイは少し驚いた。事実その通りだったからだ。
「早速ですが、継承戦についてお聞きしたいのですが」
「そう・・・。私は王になりたくない。なれるとも思っていないし、なろうとも思っていない」
「では、どうされるおつもりですか」
「生き残ることだけを考えています」ルカは窓の外の海を見た。「王座じゃなくて、命だけでいい」
カイはメモを取る手を止めた。六人の中で、これほど正直に話した人間はいなかった。
「ルカ殿下はこの継承戦で誰が最も危険だと思いますか」
ルカは少し考える。それから静かに言った。
「最初から答えを持っている人間が一番危ないですね」
それだけ言って、ルカはまた本を開き読書を始める。カイの存在がまるで消えたかのように没頭していた。
カイは静かに部屋を出ると廊下の窓から見える海は灰色だった。
自分の部屋に戻ったカイは、ノートを広げてメモを見返す。
六人、六つの部屋、六つの空気。アルノの命令、セリアの計算、ダリウスの脅し、ミラの法律、オズのズル賢さ、ルカの正直さ——全員が違う圧力でカイに接してきた。
しかし一つだけ共通していたことがあった。
全員が「余計なことを書くな」か「自分に有利なことだけ書け」か、どちらかの意図でカイに接してきた。ルカだけを除いて。
カイはペンを置いた。
この船に乗って三十時間も経っていない。なのに気づけば、六人全員の思惑の中にすでに取り込まれかけている。
スマホが震えた。知らない番号からのメッセージだった。
『記者さん。少し話せますか。あなたが知らないことを、知っています』
送信者の名前はなかった。
カイはしばらくその画面を見つめてから返信を打った。
『どこで会えますか』




