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出航

 クロノス号を初めて目にしたとき、カイは自分が船を見ているのか、それとも都市を見ているのかわからなかった。


 全長1200メートル。港に横たわるその巨体は、周囲のビル群をまるごと飲み込んでしまいそうなほど巨大で、白い外壁には無数の窓が整然と並び、最上層からは淡い光が漏れていた。岸壁には見送りの人々が鈴なりになっていたが、船と比べると豆粒のようにしか見えない。


「でかすぎる」


 カイはスマホで写真を撮りながら、思わず呟いた。横に立っていた同僚のカメラマンが苦笑した。


「記者歴八年でそれが感想か」


「いや、だってこれは普通じゃないだろ」


 カイ・レノンは二十八歳。帝都週刊という中堅メディアに勤める記者だ。どちらかといえば地味な仕事が多い。汚職議員の追跡、企業の不正、地方の陳情——華やかさとは無縁のキャリアを積んできた。それがなぜ今、ヴェラン帝国の巨大な旗艦クロノス号の乗船証を手にしているのか。


 理由は単純だった。皇帝ヴェラン十三世が、この航海に帝国公式記録者として少数のメディアを招いたのだ。目的地は帝国の聖都カルヴァン。航海期間は七日間。その間、皇帝と皇族たちの「素顔」を記録させるという、異例の企画だった。


 カイの上司は飛びついた。「これで一冊雑誌が書けるぞ」と上機嫌で言った。カイ自身はというと、正直なところ乗り気ではなかった。皇族の広報記事など、自分の仕事ではないと思っていたからだ。


 しかしいざ目の前にクロノス号を見ると、職業的な好奇心がじわじわと湧いてきた。この船には三万人が乗っている。皇族だけでなく、一般の乗客も、商店の店主も、テレビ局のスタッフも、みんなこの鉄の塊の中で七日間を過ごすのだ。


 それはもう、船ではなく街だった。


 乗船してすぐ、カイはその感覚が正しかったと確信する。


 船内に一歩入ると、潮の匂いは消え、代わりに空調の効いた空気とコーヒーの香りが漂ってきた。エントランスホールは天井が十メートル以上あり、大理石風の床には噴水まで置かれていた。左手にはブランドショップが並び、右手にはカフェとレストランが続いている。エスカレーターで上の階に上がれば広場があり、人工芝の上で子供たちが走り回っていた。


 船内テレビの大型モニターがあちこちに設置されていて、帝国ニュースを流している。人々はスマホを片手に歩き、SNSに写真を上げている。どこかのフロアからは音楽が聞こえてきた。


「本当に船か、これ」と同僚がカメラを構えながら言った。


「七日間、ここで生活するんだよ俺たち」


「悪くないな」


 カイに割り当てられた客室は十二階、Cデッキだった。窓から海が見える。ベッドは広く、デスクもある。取材用のノートパソコンを広げれば、そのまま仕事ができる環境だ。荷物を置いてすぐ、カイはノートを開いた。


 スマホを確認すると、すでに「#クロノス号」のハッシュタグがSNSで動き始めていた。乗客たちが船内の写真を上げている。噴水のあるエントランス、シャンデリアのレストラン、広場で遊ぶ子供たち。帝国の旗艦に乗れる機会など滅多にない。世界中の人間がその投稿を眺めていた。


 今日の予定を確認する。午後三時——皇帝陛下の公式歓迎式典。午後六時——皇族との夕食会(取材可能範囲は限定的)。明日以降、各皇族への個別取材を順番に申し込む予定だ。


 六人の皇子・皇女の名前をカイはもう頭に入れていた。第一皇子アルノ、第二皇女セリア、第三皇子ダリウス、第四皇女ミラ、第五皇子オズ、第六皇子ルカ。それぞれの経歴と後ろ盾については乗船前に一通り調べてある。


 皇帝には複数の妃がおり、六人は全員母親が異なる。つまり血は半分しか繋がっていない。仲が良いはずがないと、カイは思っていた。ただそれが表に出るかどうかは別の話だ。皇族というのは笑顔の裏に何を隠しているかわからない。


 そして——継承戦。


 ヴェラン帝国には、建国以来続く残酷な掟がある。皇帝が死んだとき、後継者は選挙でも指名でも決まらない。皇族たちが文字通り生き残りをかけて争い、最後に残った一人が玉座につく。敗者は帝国憲法の定めにより、例外なく処刑される。逃げ場はない。降伏もない。


 だからこそヴェラン帝国の歴代の王は、常に強く賢かった。弱い者は王になれない——そういう仕組みだ。


 カイは取材前にその条文を読んだとき、これは本当に現代の話なのかと疑った。しかし帝国にとってそれは誇りでさえあった。「我々の王は、血と知恵で選ばれる」と帝国の教科書には書かれている。


 まあ、七日間あれば何かひとつくらい面白いものが取れるだろう——。


 カイはそのくらいの気持ちで、ペンを走らせ始めた。


 歓迎式典は最上層のグランドホールで行われた。


 天井にはシャンデリアが連なり、床には深紅の絨毯が敷かれていた。招待客は総勢二百名ほど。各国の外交官、財界人、メディア関係者が居並ぶ中、カイは端の席でそっと式典の様子を観察していた。


 皇帝ヴェラン十三世が入場したとき、会場に大きな拍手が起きる。


 カイは正直、驚いた。皇帝はもっと威厳のある人物だと思っていたからだ。実際に目の前に現れたのは、白髪交じりの七十代の老人で、歩くたびに杖をつき、顔色も優れなかった。隣に控える側近が何度か耳元で囁くと、皇帝は力なく頷いた。


 スピーチは短かった。帝国の繁栄と聖都への旅への言及だけで、三分も経たずに終わった。


 その後、六人の皇族が順番に壇上に立った。


 最初に登壇したのは第一皇子アルノだった。長身で肩幅が広い。軍服に近い濃紺の正装を纏い、胸元には帝国勲章が並んでいた。短く刈り込んだ黒髪、彫りの深い顔立ち。顎を上げて正面を見据えるその姿は確かに絵になったが、カイの目には少し硬すぎるように映った。まるで「威厳」を演じようとして、かえってぎこちなくなっている。


「帝国の未来は強さの上にのみ築かれる。私はその強さを体現する者としてこの航海に臨む」


 短く断言するように言い切り拍手が起きる。


 続いて壇上に立った第二皇女セリアを見た瞬間、カイは思わずペンを止めた。


 金髪だった。肩甲骨まで流れる長い金髪が、シャンデリアの光を受けて白く輝いている。淡いグレーのドレス、細い首に一本だけ下がったダイヤのネックレス。派手さはないのに、会場の空気がすっと彼女の方へ引き寄せられた。


 セリアはゆっくりと視線を動かした。会場の端から端まで、一人一人の顔を見るように。カイも一瞬、その視線と合った気がした。


「皆様とこの航海をともにできること、これ以上の喜びはございません」


 声は柔らかく、微笑みは完璧だった。しかしカイには、何故かその目が一度も笑っていないように見えた。喜んでいるのではなく、測っているのだ——この会場の誰が味方で、誰が障害かを。


 三番目、第三皇子ダリウスが壇上に上がると、会場の空気が微妙に変わった。


 がっしりとした体格。無精髭、無造作に後ろへ流した黒髪。腕を組んだまま演台の前に立ち、マイクを一瞥してから、何も触らなかった。スピーチ原稿を持ってくる気もなかったらしい。沈黙が数秒続き、誰かが咳払いをした。


「……航海を楽しめ」


 それだけだった。腕を組んだまま壇上を降りる。会場がどう反応すべきか迷っている間に、もう席に戻っていた。カイはメモに「ふてぶてしく無口」と書いた。


 四番目の第四皇女ミラは、壇上に上がった瞬間、会場のいくつかの視線が別のところへ向いた。それほど存在感が薄かった。小柄で、黒髪をきちんと束ね、地味な白いブラウスを着ている。年齢は二十四歳のはずだが、もっと幼く見えた。


 しかしカイは、なぜか彼女から目を離せなかった。


「みなさん、仲良くできるといいですね」


 笑顔だった。声も穏やかだった。しかしその一言が落ちた瞬間、カイの隣に座っていた外交官が、ほんの少し表情を固くした。何かを感じ取ったのだろう。カイにはまだ、それが何なのかわからなかった。


 五番目——第五皇子オズが壇上に現れたとき、会場にざわめきが走る。


 鮮やかなワインレッドのジャケット。肩まで伸びた波打つ金茶色の髪。細い指には銀のリングがいくつも光り、耳には揃いのピアス。皇族の式典にこれほど華やかな装いで現れた者は、おそらく帝国の歴史上いなかっただろう。


 オズは壇上に上がると、まず会場を見渡して、ニッと笑った。


「七日間、楽しみましょう」


 間を置いた。


「殺し合いにならない程度に」


 会場が笑うべきか凍るべきか迷った、その一瞬の空白をオズは楽しむように眺めてから、軽く手を振って壇上を降りた。カイは笑いかけて、途中でやめた。冗談として笑えないものが、あの一言には含まれていた気がした。


 最後に、第六皇子ルカが立った。


 六人の中で最年少、二十二歳。しかし壇上に上がるその姿は、年齢よりもずっと小さく見えた。細い肩、青白い肌、頬にはほとんど肉がない。軍服でも正装でもなく、シンプルな黒いジャケットを纏っているだけで、胸元に勲章の一つもなかった。壇上に上がるとき、段差でわずかによろめいた。隣にいた側近が咄嗟に手を伸ばしかけて、ルカが小さく首を振って制した。


 体が弱いという噂は以前から耳にしていた。幼い頃から病がちで、公の場にほとんど姿を見せない皇子——それがルカに対するカイの予備知識のすべてだった。実際に目の前にすると、その噂は事実だとわかった。例えこれから先の未来、仮に継承戦に参加する資格はあっても、戦い抜く体力があるとは、とても思えなかった。


 演台の前に立ち、マイクを両手でそっと持った。


「皆様今日はお集まりいただきありがとうございます。七日間の良い航海をお過ごしください」


 カイにはその一言がこの夜で一番重く聞こえた。アルノの断言でも、セリアの計算でも、ダリウスの威圧でも、ミラの不気味さでも、オズの毒でもなく——ルカの「良い航海を」だけが、本当のことを言っているように思えた。


 何が「本当のこと」なのかは、まだわからなかったけれど。


 夜、夕食会が終わってから、カイは船内を一人で歩いた。


 中層階の商店街は夜でも賑わっていた。土産物屋、居酒屋、本屋、薬局。子供連れの家族が歩き、若いカップルが写真を撮っている。ここだけ見れば、ただの賑やかな街の夜だ。


 カイはコーヒーを買って広場のベンチに腰を下ろす。スマホに同僚からメッセージが来ていた。


「今日の写真送った。しかしルカ皇子、顔色悪くなかったか?」


 カイは式典でのルカの顔を思い出す。確かに青白かった。体が弱いという噂は本当かもしれない。


 返信を打ちながら、カイはふと顔を上げた。


 広場の向こう、エレベーターホールの前に、見覚えのある人物が立っていた。セリアの側近だ。式典でずっと彼女の隣にいた、四十代の女性。その側近がスマホを耳に当てて何か話しながら素早く辺りを見回していた。


 何を警戒している?


 カイはそう思ったが、深追いはしなかった。初日から勘ぐりすぎても仕方ない。


 コーヒーを飲み干して部屋に戻った。


 翌朝、カイが目を覚ましたのは六時過ぎ。


 スマホを見ると、深夜のうちに「#ヴェラン帝国」「#皇族勢ぞろい」というハッシュタグが世界中で急上昇していた。乗客たちが昨夜から船内の様子を発信し続けていた。「廊下に兵士が増えた」「上の階が物々しい」「何か起きている」——そういった投稿が積み重なり、帝国の外の人間たちも画面の前で固唾を呑んでいた。


 シャワーを浴びて、ノートパソコンを開き、昨日の取材メモを整理し始めたときだった。


 船内放送が流れ始める。


 最初はいつもの朝のアナウンスだと思った。しかし放送の声は微妙に上ずっていて、カイは手を止める。


『——乗客の皆様にお知らせいたします。本日未明、ヴェラン皇帝陛下が——』


 カイは立ち上がった。


『——崩御されました』


 船内が一瞬静まり返った気がした。


 カイはすぐにジャケットを掴みドアを飛び出す。廊下には既に数人の乗客が出てきていて、互いに顔を見合わせていた。誰かがスマホを見ながら「本当だ、SNSでも流れてる」と声に出し興奮している。


 エレベーターが開いた。中から出てきたのは、アルノの護衛と思われる軍服姿の男が二人。彼らは一切表情を変えずに足早に廊下を進んでいった。


 カイはその背中を目で追いながら、胸の中で何かが動くのを感じた。


 ——これは、始まりだ。


 クロノス号は今日も聖都へ向かって進んでいる。引き返す港はない。この鉄の街に閉じ込められた三万人と六人の皇族が、これからどこへ向かうのか——カイにはまだわからなかった。


 ただ一つだけ確かなことがあった。


 自分はもう、ただの取材記者ではいられないかもしれない。

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