第88話 別の形での救助
◇
フェアリーテールのカウンター席で、僕たちはオレンジソーダを飲みながらミーティングをしていた。
グラスの中で氷が鳴る。シュワシュワした泡がオレンジ色の液体を上っていく。窓の外には夜のネオンが滲み、店内のモニターではニュースが流れていた。
「次の事件に備えて、連携の確認をしておきたいわね」
アメリアがそう言った時、画面の端に見覚えのある施設が映った。
『ドレッドの研究所に対し、治安維持部隊が一斉摘発を行いました』
僕たちは話を止め、モニターに目を向けた。
画面には、研究所の正面へ突入する治安維持部隊と、建物から連行されていく人々の姿が映っている。多くの研究員やキャンセラーが逮捕され、施設にいたD因子接種者たちは保護されたらしい。
ただし、幹部や主要な研究資料は、摘発前にすでに持ち出されていたという。
「全部を止められたわけじゃないのね」
ソフィーがグラスを両手で包んだまま呟く。
「それでも、研究所を一つ潰せたのは大きいわ。しばらくはドレッドも大きく動けないでしょう」
アメリアはそう言って、ふうっと肩の力を抜いた。
僕もグラスを置いて息をつく。これで終わりだとは思えない。それでも、ずっと気を張り詰めていたから、少しだけ気持ちが軽くなった。
「今のうちに、私たちもできることを整理しておきましょう。獣人形態でできることも増えてきたし――」
その時、ニュース画面が切り替わった。
『緊急速報です。市内の建物で一部が崩落し、子供が取り残されている模様です。現場では救助活動が続いています』
僕たちは顔を見合わせた。
アメリアがグラスを置く。
「行こう」
その一言で、ミーティングは終わった。
◇
現場へ着くと、建物の一角が崩れ、周囲には避難した人たちが集まっていた。折れた梁や砕けた壁が積み重なり、粉塵が街灯の光の中を薄く漂っている。救助隊が慎重に瓦礫を調べていたが、崩れた部分は不安定で、むやみに動かせないようだった。
「子供が1人、まだ見つからないんです」
避難していた女性が、声を震わせながら教えてくれた。
名前を呼ぶ声が何度も瓦礫の向こうへ投げかけられる。けれど返事はない。周囲の人たちも不安そうに耳を澄ませていた。
僕も目を閉じ、音を探した。
サイレン。救助隊の無線。瓦礫を踏む足音。誰かのすすり泣き。
その奥に、かすかな音が混じった。
――けほっ。
僕の獣耳が、瓦礫の奥から聞こえた咳を拾った。
「いた。あっちから聞こえる」
ソフィーも耳を向ける。少し角度を変えて、もう一度じっと音を探った。
「私も聞こえた。右の奥の方……」
アメリアは周囲の匂いを確かめるように鼻先を上げ、崩れた壁のそばへ歩いていった。瓦礫の脇でしゃがみ込み、細い隙間を見つける。
「この奥ね。子供の匂いがするわ。でも、人の身体じゃ入れない。周りを動かしたら、上の瓦礫が崩れるかもしれない」
僕たちは隙間を覗いた。暗くて狭い。小柄なソフィーでも、人の姿のままでは進めそうになかった。
「私が行くね」
ソフィーは迷わず答えた。
その言葉を聞いた途端、僕の頭に浮かんだのはプロテウスによる変身ではなかった。もっと小さく、もっと身軽な姿。ソフィーが白虎柄の子猫になって、あの隙間を進んでいく姿だった。
「気をつけて。音が聞こえたら、すぐ教える」
「うん」
ソフィーは目を閉じた。白い光が身体を包み、服が毛並みに吸い込まれるように一体化していく。身体がすっと縮み、白い毛に黒い縞模様が浮かんだ。四つ足で地面に立った小さな子猫の姿になり、最後にふさふさの尾が揺れる。
ソフィーは一度こちらを振り返り、それから隙間へ滑り込んでいった。
外に残った僕とアメリアも、獣人形態へ変わる。胸の奥で力が脈打ち、毛並みが腕や脚を覆っていく。耳の向きが変わり、周囲の音が近くなる。指先には爪が伸び、足元をしっかり捉えた。
僕の服は毛並みの中に吸い込まれ、身体に沿った装いへと変わった。アメリアも同じように姿を変え、赤い毛並みの尾を揺らして隙間の奥を見つめる。
「ソフィー、聞こえる?」
僕が呼びかけると、瓦礫の向こうから小さな鳴き声が返ってきた。
「いるわ。奥の方ね。ソフィー、もう少し右よ」
アメリアが鼻で匂いを追い、僕は耳を澄ませて子供の動く音を探る。
「そこから、少し前。ゆっくりね」
瓦礫の向こうで、何かが擦れる音がした。子供が動いたらしい。小さな咳が続き、ソフィーの短い鳴き声がそれに応える。
しばらくして、隙間から白い前足がのぞいた。次に、ソフィーの小さな顔が現れる。その後ろから、子供が身をかがめて這い出してきた。
ソフィーは先へ進んでは振り返り、子供がついてきているか確かめていた。暗い場所で怯えていた子供も、ソフィーの姿を追って少しずつ外へ近づいてくる。
「もう少しだよ。ゆっくりでいいから」
僕は崩れかけた瓦礫に手をかけた。爪を隙間へ差し込み、足で地面を踏みしめて支える。アメリアも反対側から身体を寄せ、上の瓦礫がずれないよう押さえた。
子供の肩が見えたところで、僕たちは両手を伸ばした。
「手をつかんで。大丈夫、引き上げるよ」
小さな手が僕の腕を握る。体重を受け止め、アメリアと呼吸を合わせてゆっくり引き上げた。崩れた破片がわずかに動き、僕の耳がその音を捉える。すぐに力を緩め、アメリアが支える位置を調整した。
やがて、子供の身体が瓦礫の外へ出た。
「助かった……!」
誰かが安堵の声を上げる。
子供は泣きながら保護者に抱きしめられた。ソフィーも隙間から出てくると、光に包まれて元の姿へ戻った。白い毛並みが衣服へと変わり、白虎耳と縞模様の尾を残した少女がそこにいる。
「助けに来てくれた猫ちゃん、ありがとう」
子供はソフィーの顔を見上げて、そう言った。
ソフィーは少し照れたように笑い、うなずく。
アメリアは自分の鼻先に触れ、得意そうに口元を上げた。
「私の鼻も、役に立ったわね」
「うん。最初に咳が聞こえたのは、この耳だった」
僕の尻尾が、勝手に揺れていた。
いつもなら、見られないように押さえていたと思う。でも、その日はそのままにしておいた。
鏡を見る時、身体を変えられた日のことだけを思い出すわけじゃない。あの子の顔も、ソフィーが隙間から戻ってきた時の安堵も、一緒に思い出すだろう。
プロテウスによる変身ではなく、獣の姿を選んだから助けられた人がいる。
この身体で、僕たちは確かにヒーローになれたんだ。




