第85話 大きくなる気持ちと身体
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お昼時、私はエラに勉強を教わっていた。
教わっているのは数学。
教科書を指さして説明しているエラは、今では8歳くらいの小さな女の子だった。
正午を迎えた彼女の髪は輝くような金色に変わり、瞳も同じ金色になっている。身体が縮んだせいで黒いゴスロリドレスはぶかぶかになり、袖は両手をすっぽり覆い隠していた。
エラは袖口を何度も腕まで引き上げながら、ペンを動かしていく。
「ここの数字を先にこっちへ移すの。それから割ると、答えが出るよ」
「なるほど……エラって天才なのね!」
さっきまで意味の分からない記号の集まりにしか見えなかった式が、エラの説明を聞いた途端にすっきりと解けた。
「えへへ。エラね、将来科学者になりたいの」
褒められたエラは、幼い顔を嬉しそうにほころばせた。
身体が小さくなると、振る舞いや話し方まで子供のようになってしまう。
けれど、知能や今まで学んだことは変わらないようだ。
少し不思議な先生だけれど、説明は学校の先生より分かりやすい。
「それじゃあ、次はこの問題ね」
「ええ。今度は1人で解いてみるわ」
教わったばかりの手順を思い出し、数式を書き進める。
途中で計算を間違えかけたけれど、どうにか自分の力で答えまでたどり着いた。
「できた!」
「正解だよ。アメリアお姉ちゃん、飲み込みが早いね」
「そうでしょう?」
得意になって胸を張る。
これなら午後の課題もすぐに終わりそうだ。
次の問題へ進もうとした時、エラが何でもないことのように尋ねてきた。
「アメリアお姉ちゃんは、アレックスお兄ちゃんのこと好きなの?」
ペン先が紙を突き破った。
「なっ……!」
思わず周囲を見回す。
アレックスは自分の部屋にいる。優れた獅子の聴覚でも、扉を閉めた2階までは会話の内容を聞き取れないはずだ。
多分。
そうであってほしい。
「そ、そんなわけないでしょ!」
「嫌いなの?」
「そういうわけじゃない!」
「どっちなの?」
エラが金色の瞳で私を見上げ、無邪気に首を傾げた。
疑ったり、からかったりしている顔ではない。
本当に分からないから聞いているだけだ。
逃げ道のない純粋な視線に見つめられ、狼耳が力なく伏せる。
「くぅん!」
情けない犬みたいな声が出た。
慌てて両手で口を塞ぐ。
今のは私の声?
完全適合者で、ドレッドの研究所から抑制剤を奪い出して、マッチガールとだって戦った私が、8歳の女の子の質問一つでこんな声を出したの?
「アメリアお姉ちゃん、顔が赤いよ?」
「誰のせいだと思ってるのよ……」
私は廊下へ目を向け、アレックスが来ないことを確かめた。
それから机へ身を寄せ、声を小さくする。
「……絶対にアレックスへ言わない?」
「うん」
エラは素直に頷いた。
「アレックスのことは……好きよ」
口にした瞬間、大きな赤い尾が左右へ揺れ始めた。
止めようとしても止まらない。
「そばにいると、勝手に尻尾が揺れるくらいには」
「今も揺れてるね」
「見なくていいの!」
私は自分の尾を抱え込んだ。
それでも毛先だけは嬉しそうに動き続けている。
「でも、アイツはきっと気づいてないわ」
「好きって言えば?」
あまりにも簡単に言われ、私は尻尾を抱えたまま黙り込んだ。
「そんなの無理よ。アイツの好きと、私の好きは違うと思うわ」
「どうして?」
「アレックスは私を仲間として大切にしてくれてるの。家族みたいなものだって思ってるかもしれない。それを私が勝手に勘違いして、好きなんて言ったら……今までみたいにいられなくなるかもしれないでしょ?」
エラは少し考えてから、静かに答えた。
「アメリアお姉ちゃん、それはお姉ちゃんの思い込みよ? 伝えないと分からないよ?」
子供なのに鋭い。
そう思った後で、エラが本当は私と同じ14歳だったことを思い出した。
今は8歳の姿と振る舞いになっているだけで、同い年の女の子に恋愛相談をしていることになる。
「……私だって、こんなに好きになるつもりはなかったのよ」
最初に会った頃のアレックスは、戦うことを嫌がってばかりだった。
変身した姿は立派な蒼銀騎士なのに、中身はゲームが好きな普通の12歳。
すぐに逃げようとするし、情けない声も出す。
けれど、誰かが本当に危険な目に遭えば、怖がりながらも前へ出る。
自分が傷つくことより、助けられなかった誰かのことをいつまでも気にしてしまう。
私がシオに裏切られて何もできなくなった時は、黙って肩を支えてくれた。
私自身がドレッドへ行き、アレックスたちを傷つけてしまった後も、見捨てなかった。
裏切り者だから一緒にいる資格がないと言った私へ、隣にいてほしいと手を伸ばしてくれた。
獣の姿になった私を怖がらず、スターハーツの仲間として連れ戻してくれた。
「臆病なくせに、誰かのためなら無茶するの。普段は頼りないのに、本当に辛い時だけはそばにいてくれる。私が治安維持局長の娘でも、ドレッドの裏切り者でも、態度を変えないし……」
言葉にするたび、好きなところが次々に浮かんでくる。
「自分だって獣にされて苦しんでたのに、ソフィーを助けることばかり考えてた。私が間違った時はちゃんと怒るけど、最後には許してくれる。それに……笑った顔も、結構かわいいし」
そこまで話してから、自分が何を言っているのか気づいた。
エラが頬杖をつき、楽しそうに私を眺めている。
「いっぱい好きなところあるね」
「忘れて! 今言ったこと全部忘れなさい!」
「無理だよ」
「そこを何とかしなさいよ!」
狼耳も頬も熱い。
こんな話を本人に聞かれたら、しばらく同じ家で顔を合わせられなくなる。
けれど、エラは口元へ袖を当てて笑っただけだった。
「……でも、アイツにはソフィーがいるもんね」
自然と声が小さくなる。
アレックスとソフィーが手をつないで帰っていた姿を思い出した。
ソフィーは素直で、優しくて、可愛い。
アレックスとも同い年で、2人で話している時は楽しそうだ。
「アレックスお兄ちゃんは、どっちの方が好きとかないと思うよ」
「それはそれで困るのよ」
「じゃあ、アメリアお姉ちゃんが好きになってもらえばいいの」
エラは簡単に言う。
けれど、不思議と少しだけ気持ちが軽くなった。
「エラ、ありがとう」
「うん。エラ、応援するね」
その時、街のどこかで13時を告げる鐘が鳴った。
ゴーン。
重い音がイスカティアの空へ広がる。
「ぐぐっ……」
エラの身体が小さく震えた。
椅子に座ったまま、少しずつ背丈が伸びていく。
床から浮いていた足が下がり、余っていた袖口から指先が現れた。金色だった髪にも、わずかに灰色が混ざり始める。
丸みを帯びていた幼い顔立ちも、ほんの少しだけ成長していった。
「あ……また大きくなってきた」
話し方からも、先ほどまでの幼さが薄れていく。
エラは伸びた指でペンを持ち直し、私の教科書へ視線を戻した。
「アメリアさん、いつでも相談してね」
「急に呼び方まで戻るのね」
「……夜の私なら、もっと具体的なアドバイスができると思う」
夜のエラは20歳の姿になる。
具体的な助言という言葉に、少しだけ興味が湧いた。
けれど、今より踏み込んだ話をする自分を想像し、私は勢いよく首を横へ振った。
「やっぱりいい! 今日の話も絶対に秘密だからね!」
「分かってる。ほら、次の問題」
「切り替えが早いわね……」
少しずつ成長していくエラに教わりながら、その日の課題はいつもより早く終わった。




