第75話 本当の力とD因子の正体
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「予熱は終わりだ」
マッチガールの全身から、赤い炎が噴き上がった。
燃え上がった青い血が逆流するように、傷口から身体の内側へ入り込んでいく。
ドクン!
離れている僕の耳にも、心臓の音が聞こえた。
マッチガールの身体が大きく跳ねる。
「ぐっ……あぁぁ……!」
前屈みになり、両腕で自分の身体を抱き締めた。
黒いジャケットの下で何かが動いている。
肩が盛り上がり、背中が軋む。
メキッ!
腕の皮膚を突き破るように、赤黒い鱗が浮かび上がった。
最初は手の甲だけだった鱗が、指先から手首へ、手首から肘へ広がっていく。
爪が黒く伸び、指先が鋭い鉤爪へ変わった。
「まだ……まだ足りねぇ……」
マッチガールが喉の奥で笑う。
顔の輪郭は人間のままなのに、頬から首筋へ赤黒い鱗が走っていく。
瞳孔が縦に細く裂け、口元から鋭い牙がのぞいた。
額の両側から、後方へ反った黒い角が伸びる。
燃えるような赤髪はさらに長く広がり、1本1本が炎をまとっているように赤く輝いた。
背骨に沿って赤い光が走る。
バキバキッ!
腰の後ろから太い尾が生えた。
赤黒い鱗に覆われた長い尾。
表面には溶岩の亀裂のような橙色の光が脈打ち、先端を路面へ打ちつけるたびに火の粉が舞う。
両脚も鱗に覆われ、ブーツを内側から突き破った。
足先には大きな黒い爪が並び、焼けた路面へ深く食い込む。
ジャケットやパンツは鱗と炎に飲み込まれ、黒と深紅の外殻へ変わっていった。
肩や腰の周囲には、羽毛にも炎にも見える赤い突起が幾重にも生える。
その隙間を金色の模様が走り、鼓動に合わせて明滅していた。
もう、さっきまでの人間の姿ではない。
人の顔と赤い髪だけを残した、炎をまとう巨大なトカゲの獣人。
マッチガールが立ち上がる。
その瞬間、周囲の空気が揺らいだ。
「熱っ……!」
思わず腕で顔を庇う。
まだ何もされていない。
ただ立っているだけなのに、白銀の装甲がじりじりと焼かれている。
足元に残っていた氷は、触れられてすらいないのに水蒸気へ変わった。
スノーホワイトの白い機械耳が伏せられる。
「こ、氷が……もたない……!」
マッチガールは自分の鉤爪についた青い血を眺めた。
口元から、細長い舌が伸びる。
先端が2つに分かれた、炎をまとったトカゲの舌。
チロリ。
舌が鉤爪を這い、燃え上がる青い血を舐め取った。
「……うめぇ」
飲み込まれた炎が、喉から胸へ落ちていく。
直後、胸元を走る金色の亀裂が強く輝いた。
ゴォォォォォッ!
全身から立ち上る炎が一気に膨れ上がる。
焼けた空気が衝撃波のように広がり、僕たち3人を押し戻した。
「これが……獣人形態……!」
イアハートが両腕を交差させ、熱風へ耐えている。
マッチガールは両手を開いた。
火炎放射器はもう必要ないらしい。
右手のひらに、小さな炎が灯る。
それは一瞬で人の頭ほどの大きさへ膨れ上がり、さらに周囲の炎を吸い込んで巨大化した。
僕たち3人をまとめて吞み込めそうな大火球が、頭上に浮かぶ。
「第2ラウンドだぜぃ!」
マッチガールが腕を振り下ろした。
大火球が飛んでくる。
「避けて!」
僕たちは3方向へ跳んだ。
次の瞬間、火球が路面へ激突した。
ドォォォォォン!
視界が赤く塗り潰される。
爆風に身体を持ち上げられ、僕は背中から建物の壁へ叩きつけられた。
「ぐっ!」
装甲の背中が壁を砕く。
衝撃だけじゃない。
熱が装甲を通り抜け、全身を焼いてくる。
落下しながら地面へ手をつき、どうにか体勢を立て直した。
火球が落ちた場所には、大きな穴が開いていた。
穴の縁が赤く溶け、粘り気のある光を放っている。
あんなもの、まともに受けたらいくら装甲が頑丈でも耐えられない。
「スノーホワイト、大丈夫!?」
「う、うん……!」
スノーホワイトが両手を突き出す。
白い魔導回路が輝き、前方へ冷気が放たれた。
路面を這う炎が凍り、白い道が作られていく。
けれど、マッチガールが笑った。
「ぬるいなぁ!」
両手のひらをスノーホワイトへ向ける。
ゴォォォッ!
火炎放射器よりも太い炎が、手のひらから噴き出した。
「きゃぁっ!」
スノーホワイトの冷気と火炎が正面からぶつかる。
白と赤の光が押し合い、大量の水蒸気が周囲へ広がった。
最初の一瞬だけは互角に見えた。
けれど、すぐに白い光が押し戻される。
作られた氷は次々に溶け、蒸発していく。
「ソフィー!」
僕は近くに落ちていた車のドアへ手を触れた。
蒼い魔導回路が金属へ流れ込む。
ドアが拡張され、厚い魔導障壁を備えた盾へ変形した。
スノーホワイトの前へ滑り込み、盾を構える。
直後、炎が僕たちを吞み込んだ。
「うわぁぁぁっ!」
盾の表面が赤く染まる。
蒼い魔導回路が炎に焼かれ、明滅を繰り返した。
両腕へ凄まじい圧力がかかる。
足を踏ん張っても、少しずつ後ろへ押されていく。
獣の力で強くなったはずなのに、それでも支えきれない。
「アレク……サンダー……!」
「大丈夫! 僕の後ろから出ないで!」
そう叫んだ瞬間、炎が止まった。
盾の表面から白い煙が立ち昇る。
一息つく暇もなく、獣の耳が風を切る音を拾った。
右だ。
「アレクサンダー、避けなさい!」
反射的にスノーホワイトを抱えて横へ転がる。
ブォン!
マッチガールの太い尾が、僕たちのいた場所を薙ぎ払った。
尾の一撃で魔導器化した盾が粉々に砕ける。
破片は炎に包まれ、地面へ落ちる前に赤く溶けた。
「このっ!」
イアハートが背後から跳びかかる。
紅い爪がマッチガールの背中へ振り下ろされた。
ガギィン!
火花が散る。
爪は鱗の表面へ僅かな傷を刻んだだけだった。
マッチガールが首だけを動かし、背後のイアハートを見る。
「熱いぞ?」
全身から炎が噴き上がった。
「きゃあぁっ!」
イアハートの紅い装甲が炎に包まれる。
慌てて距離を取るが、肩や腕から煙が上がっていた。
「イアハート!」
「来ないで! 近づくだけで装甲が焼かれる!」
マッチガールは楽しそうに喉を鳴らした。
炎をまとった尾を揺らしながら、ゆっくりと僕たちへ歩いてくる。
足跡が赤く燃える。
一歩進むたびに周囲の温度が上がり、呼吸するだけで喉が焼けそうだった。
僕たちは距離を取ろうとする。
けれど、退いた先へマッチガールが火球を投げ込んだ。
ドォン!
左の道が炎に塞がれる。
「こっち!」
イアハートに続いて右へ走る。
マッチガールの手のひらが向けられた。
横薙ぎの火炎が建物の壁を焼きながら迫る。
僕たちは地面へ伏せた。
頭上を炎が通過し、背後の店が一瞬で火に包まれる。
「逃げ道を作る……!」
スノーホワイトが両手を路面へついた。
白い光が広がり、炎の一部を凍らせる。
僕たちがそこへ向かおうとした瞬間、巨大な火球が氷の道へ落ちた。
爆発。
氷が砕け、炎と一緒に飛び散った。
スノーホワイトの身体が爆風に煽られ、僕の胸へぶつかる。
「きゃっ!」
「大丈夫!?」
スノーホワイトを抱き留める。
イアハートも僕たちの前へ立ち、紅い爪を構えた。
僕たちの背後には、崩れかけた建物の壁。
前には炎をまとうマッチガール。
左右の道も火の海になっている。
完全に追い詰められた。
「さっきまでの威勢はどうしたよ?」
マッチガールが両手を広げる。
その左右に、いくつもの火球が浮かび上がった。
「獣になって強くなったのは、テメェらだけじゃねぇんだぜぃ!」
頭上から拍手が聞こえた。
パチ、パチ、パチ。
巨大なシルクハットに腰掛けたマッドハッターが、満足そうに笑っている。
「素晴らしい。実に素晴らしいよ、マッチガール」
「マッドハッター……!」
僕は炎の向こうにいる男を睨み上げた。
「D因子って、いったい何なんだ!?」
身体を獣へ変え、心まで塗り替える。
病気を治したと思えば、薬がなければ生きられない身体にする。
アメリアを変え、ソフィーを苦しめ、僕たちを仔獅子と仔猫にした。
こんな力が、ただ人間を怪物に変えるだけのものとは思えない。
マッドハッターは待っていた質問が来たように、両腕を広げた。
「D因子。それは、我々が便宜上用いてきた略称にすぎない」
燃え上がる街を舞台に、男の声が響く。
「正式な名は《Desire因子》」
「デザイア……?」
「そう。欲望だよ」
マッドハッターは微笑んだ。
「生きたい。美しくなりたい。愛されたい。強くなりたい。全てを燃やしたい」
その最後の言葉に応えるように、マッチガールの炎が大きく揺れる。
「Desire因子は、心の奥底にある願いを読み取り、肉体を望む姿へ作り変える。病を治し、失われた手足を生やし、持たぬ者へ魔法すら与える」
「そんな……」
「変えるのは肉体だけではない。精神も、感情も、その者が望む形へ塗り替える」
オデットにOF型を飲まされたアメリアを思い出す。
僕たちへの気持ちを失い、幸せそうに笑っていたアメリア。
あれもD因子が、苦しみから解放されたいという願いに応えた結果だったのか。
「変わることを拒んだ者には、その素質に相応しい獣の姿を与える。強く願えば願うほど、D因子はより大きな力で応える」
マッドハッターが白い手袋の指先を、マッチガールへ向ける。
「彼女は願ったのだよ。もっと強く、もっと熱く、何もかも燃やせる炎になりたいと」
マッチガールの周囲に浮かぶ火球が、さらに膨れ上がった。
「それこそがD因子の力だ」
マッドハッターは燃える街を見渡し、恍惚とした笑みを浮かべた。
「人間を、その者が心から望む存在へ進化させる。欲望を現実へ変える力。それが《Desire因子》なのさ」




