第72話 変わった身体と残った物
◇
「もどっ……てない……」
ソフィーが、掠れた声で呟いた。
「え?」
僕が聞き返しても、ソフィーは自分の手元を見つめたまま動かない。
アメリアも何かに気づいたように、身体を強張らせていた。
「どうしたの?」
僕は立ち上がろうとした。
けれど、足の裏が床へ触れる感覚がおかしい。
踵がうまくつかず、前へ倒れそうになる。
「うわっ!」
咄嗟にテーブルへ手をついた。
指はある。
物を掴むこともできる。
それなのに、手のひらから伝わる感触は、人間だった時とは少し違っていた。
「ジャンヌ、鏡ってある?」
「あるけど……」
ジャンヌは僕たちを見回したあと、壁際に置かれていた大きな姿見へ歩み寄った。
装飾された木製の枠を掴み、鏡をこちらへ向ける。
「見てもパニクらんでよ?」
僕たちは支え合いながら、鏡の前まで移動した。
床を踏むたび、爪の当たる硬い音が鳴る。
カツ。
カツ。
僕のものだけではない。
アメリアとソフィーの足元からも、同じ音が聞こえていた。
鏡の中に、3人の姿が映る。
「……何、これ」
自分の声なのに、遠くから聞こえた気がした。
顔は僕だ。
青い髪も、12歳の小柄な身体も戻っている。
着ていた服も元の形で身体を包んでいた。
けれど、頭には蒼い毛に覆われた丸い獅子の耳が残っている。
驚きに合わせ、2つの耳がぴんと立った。
自分の意思とは関係なく動いたことに、余計に驚く。
恐る恐る両手を持ち上げた。
肘から先が蒼い毛で覆われている。
手の形は人間に近い。
5本の指も動かせる。
けれど指先には黒い爪が生え、手のひらと指の内側には柔らかな肉球が残っていた。
「肉球……」
指で押すと、ぷにっと沈む。
足も同じだった。
半ズボンから伸びた脚は蒼い毛に覆われ、人間の足ではなく、大きな獣の後ろ脚に近い形をしている。
指先には爪があり、厚い肉球で体重を支えていた。
うまく立てなかったのも当然だ。
腰の後ろでは、長い蒼色の尻尾が揺れている。
先端には濃い色の房が生え、僕が動揺するたび、落ち着きなく左右へ振れていた。
視線を上げる。
鏡の中の銀色の瞳は、獣になっても変わらなかった僕自身の色だ。
けれど、その中心にある瞳孔は細く縦へ割れている。
「人間に戻ったと思ったのに……」
僕は鏡へ近づき、銀色の目を確かめた。
顔は人間。
でも、身体には仔獅子だった頃の特徴がはっきりと残っている。
隣では、アメリアが言葉を失っていた。
赤い髪の上に、大きな狼の耳が立っている。
外側は燃えるような紅色で、内側には白い毛が生えていた。
狼の耳は周囲の音を拾うように動き、ジャンヌが立てた小さな物音にも反応している。
アメリアはゆっくりと両手を上げた。
腕は赤い毛で覆われ、手のひらには大きな肉球がある。
指先から伸びた黒い爪は、僕のものより長く鋭い。
スカートの下から伸びる脚も赤い毛に覆われ、足先は狼の大きな後ろ脚になっていた。
腰からは、紅と白の毛に覆われた太い尾が伸びている。
ふさふさとした尾は床へ届きそうなほど大きい。
「これじゃ、完全にレッドフードじゃない……」
アメリアが苦しげに呟く。
鏡の中の金色の瞳には、狼のような縦長の瞳孔が残っていた。
人間へ戻ったというより、レッドフードと元のアメリアが混ざり合っている。
「ソフィーは……」
僕とアメリアが振り返る。
ソフィーは鏡の前で、自分の頭へ両手を伸ばしていた。
白銀の髪の間から、白と薄灰色の縞模様が入った猫耳が生えている。
その下には、元からある長いエルフの耳も残っていた。
左右に2つずつ。
全部で4つの耳が、混乱するように別々の方向へ動いている。
「み、みみ……いっぱい……」
ソフィーは、途切れながら声を絞り出した。
自分で触ろうとするものの、どちらがどの音を拾っているのか分からないらしい。
猫耳へ触れるたび、エルフの耳までぴくりと動いた。
両腕は白い毛で覆われ、薄灰色の縞模様が走っている。
小さな手のひらには桃色の肉球が残り、指先には黒い爪が生えていた。
スカートの下から伸びる脚も、白と薄灰色の縞模様に覆われている。
足先は猫の後ろ脚のような形で、床へ触れるたびに爪が僅かに覗いた。
腰の後ろから伸びた長い縞模様の尻尾が、不安そうに脚へ巻きついている。
鏡の中の淡い青色の瞳も、瞳孔だけが縦へ細く変わっていた。
「わたし……ねこ……まだ……」
ソフィーはうまく言葉を作れず、喉へ手を当てた。
「猫のままじゃないよ」
僕はすぐに声をかける。
「ちゃんとソフィーの姿に戻ってる。少しだけ……残ってるけど」
少しだけと言うには、獣の特徴が多すぎた。
耳。
腕。
脚。
爪。
肉球。
尻尾。
そして瞳。
僕たち3人とも、人間の姿を取り戻しながら、獣だった証を身体へ残している。
「抑制剤じゃ、OF型を完全に消せなかったってこと?」
アメリアが鏡へ手を伸ばす。
赤い肉球が、鏡の中の自分と重なった。
「それとも……もう、これが私たちの身体なの?」
誰にも答えられない。
ジャンヌも珍しく何も言わず、鏡の前に並ぶ僕たちを見つめていた。
ソフィーが白い手を伸ばし、僕の服の裾を握った。
「アレク……」
まだ途切れがちな声だった。
僕は肉球の残った手で、ソフィーの手を握り返す。
その上へ、アメリアの手も重なった。
鏡には、人間とも獣とも言い切れない3人の姿が映っている。
僕たちは人の形を取り戻した。
けれど、完全には戻れなかった。
獣の姿で結び直した絆と同じように、その痕跡もまた、僕たちの身体へ深く刻み込まれていた。




