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第71話 D因子への反抗

◇


僕たちが前脚を重ねている間も、床に置かれた金属製の容器は淡い光を漏らしていた。


ジャンヌが容器を持ち上げ、側面へ顔を近づける。


「D因子抑制剤……って書いてあるけど、使い方どこよ?」


容器を回して底まで確認しても、投与方法らしい説明は見つからない。


「注射器もないし、飲み薬かどうかも分からんのですが」


ジャンヌが困ったように僕たちを見回した。


「これ、どう使うん?」


アメリアが金属製の容器へ近づく。


鼻先で中身を示したあと、口を開けて舌を出した。


「……もしかして、飲むって言ってる?」


アメリアが1度だけ頷く。


ジャンヌは容器とアメリアを交互に見た。


「こんな見るからにヤバそうなの飲むわけ?」


容器の隙間から漏れる青白い光が、ジャンヌの顔を下から照らしている。


「研究所からパクってきた薬を、投与量も分からん状態で? 見切り発車にもほどがあるっしょ」


アメリアは床へ伏せたまま、僕とソフィーを見つめた。


金色の瞳には迷いがある。


それでも、これ以外に元へ戻す方法はない。


そう伝えているのが分かった。


僕は容器へ近づき、鼻先を寄せた。


金属と薬品の混ざった刺激臭に、思わず顔を背ける。


「がふっ……」


絶対に美味しくない。


でも、このまま獣として暮らし続ければ、いつまた心まで飲み込まれるか分からない。


隣のソフィーを見る。


白い子猫の姿をした彼女も、不安そうに容器を見つめていた。


僕は彼女の前脚へ、自分の前脚を重ねる。


「がう」


一緒に飲もう。


ソフィーは僕の銀色の瞳を見つめたあと、小さく頷いた。


「……にゃ」


アメリアも僕たちの隣へ並ぶ。


ジャンヌは大きなため息をついた。


「飲む気満々じゃん……。何かあっても、あーしじゃどうにもできんからね?」


そう言いながらも店の奥へ向かい、動物用の水飲み皿を3枚持ってきてくれた。


僕とソフィーがフェアリーテールへ来てから用意されたものだ。


ジャンヌは容器の封を慎重に外した。


プシュッ。


圧縮されていた空気が抜け、青白い光が強くなる。


中では液体が脈打つように明滅していた。


「うわぁ……やっぱヤバそう」


ジャンヌは顔を引きつらせながら、3枚の水飲み皿へ抑制剤を分けていく。


トクトクと音を立て、うっすらと発光する液体が皿の底へ広がった。


僕たちの前に、それぞれ1枚ずつ置かれる。


「飲んですぐ倒れたりしないでよ?」


それは僕にも分からない。


水飲み皿へ顔を近づける。


鼻を刺す匂いが強くなり、本能が危険だと訴えてくる。


舐める前から舌が痺れるような気さえした。


僕はソフィーの皿へ自分の皿を軽く触れさせる。


カチン。


乾杯の代わりだ。


アメリアも鼻先で皿を押し、僕たちの皿へ触れさせた。


僕たちは顔を見合わせる。


そして同時に、青白い液体へ舌を伸ばした。


苦い。


舌へ触れた瞬間、強烈な苦味が口いっぱいに広がった。


その直後、焼けるような熱が喉を流れていく。


「がうっ!」


反射的に顔を上げた。


舌を出し、何度も首を振る。


飲めたものじゃない。


ソフィーも涙目になりながら、前脚で口元を擦っている。


アメリアは顔をしかめたものの、すぐに水飲み皿へ口を戻した。


ここまで運んできた彼女が飲んでいる。


僕も逃げるわけにはいかない。


もう一度皿へ顔を近づけ、息を止めるようにして抑制剤を舐め取った。


苦味を感じる前に飲み込む。


何度も舌を動かし、最後の1滴まで口へ入れた。


ソフィーも身体を震わせながら飲み切る。


3枚の皿が空になった。


しばらく何も起こらない。


「……大丈夫そう?」


ジャンヌが恐る恐る尋ねる。


次の瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


「ガァァァッ!」


全身へ激痛が走った。


心臓を内側から鷲掴みにされ、身体中へ流れるものを無理矢理引き戻されているようだった。


僕は床へ倒れ込んだ。


前脚で胸元を掻く。


青い毛の隙間から、白い光が漏れ出した。


「にゃああぁぁっ!」


ソフィーも悲鳴を上げる。


小さな身体を丸め、床の上で苦しそうに転がった。


アメリアは牙を食いしばり、四肢を踏ん張っている。


鋭い爪が床板へ食い込み、紅い身体が激しく震えた。


「ちょっ、マジで大丈夫!?」


ジャンヌの声が遠く聞こえる。


返事をする余裕はなかった。


身体の中で、抑制剤とD因子がぶつかり合っている。


獣のままでいようとする力を、薬が押し戻していく。


骨が軋む。


背骨が引き伸ばされ、四足の身体が無理矢理組み替えられていく。


前脚が長くなった。


丸かった先端が広がり、肉球の周囲から指が伸びてくる。


床すれすれだった視界が、少しずつ高くなった。


「ぐぅぅ……!」


喉から漏れた声が、咆哮から人間の呻きへ変わっていく。


僕は変わり始めた両手で床を掴んだ。


後ろ脚も人の脚へ近づき、膝が床へつく。


上半身が持ち上がり、ようやく2本の脚で支えられる形へ戻っていった。


全身を覆っていた青い毛が光へ変わる。


同時に、OF型による獣化の際に体毛へ吸収されていた服が、身体の変化に合わせて現れた。


青を基調とした上着が肩と腕を包み、黒い半ズボンが腰元へ戻ってくる。


「はぁ……はぁ……」


僕は両手を床へついたまま、荒い呼吸を繰り返した。


身体はまだ熱く、細かい部分まで確かめる余裕はない。


それでも、少なくとも人に近い形には戻っている。


「アレックス……?」


ジャンヌの声が聞こえた。


「……うん」


自分の口から言葉が出た。


少し掠れているけれど、獣の鳴き声ではない。


「僕だよ……」


その隣では、アメリアの身体も変わり続けていた。


紅い狼の前脚が腕へ戻り、背骨が人の形へ組み上がっていく。


身体を覆っていた毛が光へ溶け、吸収されていた服が元の位置へ現れる。


アメリアは床へ片膝をつき、肩で息をしていた。


「アメリア」


僕が呼びかける。


彼女はゆっくりと顔を上げた。


「アレ……ックス……」


アメリアの声だ。


「喋れるんだね」


「ええ……なんとか……」


苦しそうではあるけれど、言葉ははっきりしている。


安心しかけた直後、僕はもう1人の姿が見えないことに気づいた。


「ソフィーは!?」


振り返る。


床の上では、ソフィーが身体を丸めたまま震えていた。


「にゃ……ぁ……!」


白い光が小さな身体を包んでいる。


子猫の前脚が伸び、細い腕へ変わっていく。


後ろ脚も人の脚へ近づき、丸まっていた背中がゆっくりと起き上がった。


白銀の髪が光の中から伸び、背中へ流れ落ちる。


体毛へ吸収されていた服も、身体が戻るのに合わせて現れた。


やがて光が収まる。


床へ座り込んでいたのは、小柄な女の子だった。


「ソフィー!」


僕はすぐに彼女の前へ膝をついた。


ソフィーがゆっくりと顔を上げる。


淡い青色の瞳には、獣へ飲み込まれていた時の曖昧さはない。


僕の知っているソフィーの意識が戻っている。


「大丈夫?」


ソフィーは口を開いた。


けれど、声が出ない。


唇が僅かに動いただけだった。


「……ぁ……」


喉へ手を当て、もう一度言葉を出そうとする。


「……ア……」


掠れた音は、途中で息へ変わった。


長い間、鳴き声しか出していなかった。


人の喉の使い方も、言葉の作り方も、身体が忘れてしまっているのかもしれない。


「無理しなくていいよ」


僕はソフィーの手を握った。


「ゆっくりでいい。何も喋れなくても、僕たちには分かるから」


ソフィーは首を横へ振った。


どうしても声にしたいらしい。


何度も唇を動かし、舌の位置を確かめるように呼吸を繰り返す。


「ア……レ……」


一音ずつ、引っかかった言葉を押し出していく。


「ク……」


「うん。僕だよ」


ソフィーの瞳に涙が浮かんだ。


僕の名前を呼べた。


それだけで、握っていた手へ力が戻る。


ソフィーは次に、アメリアへ顔を向けた。


アメリアは少し離れた場所で立ち尽くしている。


自分から近づくことも、声をかけることもできないようだった。


ソフィーが震える唇を、もう一度開く。


「ア……メ……」


小さく息を吸う。


「リ……ア……」


途切れながらも、その名前は確かに届いた。


アメリアの瞳から涙が溢れる。


「ソフィー……」


ソフィーは僕とアメリアを交互に見た。


まだうまく動かない口で、懸命に言葉を続ける。


「いっ……しょ……」


短い言葉を出すだけで、肩が大きく上下した。


それでもソフィーは、空いている手をアメリアへ伸ばす。


アメリアは迷いながら近づき、その手を取った。


「いっ……しょ……に……」


僕はソフィーの手を握り返した。


反対側では、アメリアも震える指を重ねる。


僕たちは人の形を取り戻した。


完全に元通りなのかは、まだ分からない。


身体の熱も痛みも残っていて、自分たちの姿を詳しく確かめる余裕はなかった。


それでも、3人の手はもう一度つながった。


「うん。一緒だよ」


ソフィーは涙を流しながら、何度も頷いた。

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