第70話 残った愛の結晶
◇
オデットは、誰もいなくなった私室に一人で佇んでいた。
開かれたままの衣装箱。
ベッドの上へ広げられたフリルのドレス。
つい先ほどまでアメリアがいた部屋には、彼女の温もりだけが残されている。
「申し上げます!」
扉が勢いよく開いた。
研究員が息を切らしながら飛び込んでくる。
「レッドフードが抑制剤を強奪し、研究所から脱走しました! キャンセラー部隊が追跡しましたが、既に見失ったとのことです!」
オデットは振り返らなかった。
「……そう」
驚きも、怒りも感じさせない声だった。
研究員はそれ以上何も言えず、彼女の背中を見つめる。
オデットの視線は、壁に掛けられた大きな鏡へ向けられていた。
鏡の中には、絶世の美女が立っている。
艶やかに流れる髪。
白く滑らかな肌。
整った顔立ち。
人の心を捉えて離さない瞳。
背中には、純白の翼が優雅に折り畳まれている。
男も女も関係なく魅了する美貌。
シオだった頃から、ずっとなりたかった自分。
誰よりも美しく、誰からも愛される女性。
ドレッドの技術とD因子によって、オデットは理想の全てを手に入れた。
鏡の中の自分へ手を伸ばす。
「こんなに美しくなったのに……」
容姿も。
力も。
自由も。
望んだものは、全て手に入った。
それなのに。
「アメリアだけは、手に入らなかった」
笑みが消える。
次の瞬間、オデットは鏡へ拳を叩き込んだ。
ガシャァン!
美しい顔が、無数の亀裂によって引き裂かれる。
砕けた鏡の破片が床へ降り注ぎ、いくつもの破片が拳へ突き刺さった。
白い指を伝い、青い血が流れ落ちる。
「オ、オデット様!」
研究員が駆け寄ろうとする。
しかし、その必要はなかった。
拳へ食い込んでいた破片が、傷口から押し出される。
床へ落ちる乾いた音。
裂けた皮膚は内側から塞がり、流れていた青い血も止まった。
わずかな跡さえ残らない。
これがD因子OF型の力。
従来のD因子を遥かに上回る変異能力と再生力。
オデットは傷の消えた手を見つめた。
やがて肩が震え始める。
「ふふっ……」
小さな笑い声は、次第に大きくなっていった。
「あは……あははははっ!」
狂ったような笑い声が、鏡の破片に満ちた部屋へ響き渡る。
研究員は青ざめ、後ずさった。
オデットは構わず、自分の身体を両腕で抱きしめた。
「アメリア……貴女は去っていったけれど」
片方の手が、ゆっくりと下腹部へ添えられる。
先ほどまでの狂気が消えた。
そこに浮かんだのは、穏やかな微笑みだった。
「貴女との愛の結晶は、確かにここへ宿ったわ」
下腹部を慈しむように撫でる。
その表情は、まるで我が子の誕生を待つ母親のようだった。
アメリアと触れ合い、何度も互いの存在を確かめ合った時間。
その間に得た、アメリアの遺伝子と細胞。
オデットはそれを、自らのD因子へ取り込んでいた。
アメリアは自分の元を去った。
それでも、彼女が残したものまで失ったわけではない。
オデットの中では既に、新たな命を創造する準備が始まっている。
「オデット様……それは、どういう……」
「貴方が知る必要はないわ」
オデットは研究員へ顔を向けた。
「マッドハッターへ伝えてちょうだい」
「は、はい!」
「せっかく幹部にしていただいたところ悪いけれど、私はしばらく休暇をいただく、と」
「休暇……ですか?」
「ええ」
背中の翼が大きく広がった。
純白の羽が風を起こし、床に散らばった鏡の破片が一斉に転がる。
「そうね。1年ほどで『2人』で戻るわ」
オデットは窓辺へ歩み寄った。
取っ手へ手をかけ、窓を大きく開け放つ。
冷たい風が室内へ吹き込み、カーテンと髪を激しく揺らした。
眼下には、夜のイスカティアが広がっている。
魔導灯とネオンに彩られた街。
その上を、飛空艇の光がゆっくりと横切っていく。
オデットは窓枠へ足をかけた。
もう名前も決めてある。
「アリス」
愛するアメリアと自分から生まれる、新たな命。
「女の子に産むの」
本来なら、親の思いだけで決められるはずのない性別。
生まれてくる子供の姿も、性質も、未来も。
それすら、オデットは自らの手中へ収めようとしていた。
純白の翼が力強く羽ばたく。
オデットの身体が夜空へ舞い上がった。
白い羽をネオンの街へ散らしながら、その姿は研究所から遠ざかっていく。
やがて白鳥のような影は、イスカティアの夜へ溶けて消えた。
◇
その頃、フェアリーテールでは僕とソフィーが身を寄せ合っていた。
ペットベッドの中で鼻先を触れ合わせ、前脚を重ねる。
時折、ソフィーが僕の鬣へ頬を擦り寄せ、僕も彼女の頭を舐め返した。
言葉は使えない。
それでも、離れていた時間を埋めるように互いの体温と匂いを確かめ合っていた。
ソフィーはここにいる。
僕もここにいる。
人間だった頃には考えられないほど直接的な肉体言語だったけど、今の僕たちには、これが一番分かりやすい。
「……にゃぁ」
ソフィーが喉を鳴らし、僕の鬣へ顔を埋める。
「くるる……」
僕も小さく応えた。
その時、入口の方から微かな音が聞こえた。
カリッ。
何かがドアを引っ掻いている。
ソフィーが顔を上げた。
僕の耳も、音のした方向へ動く。
カリカリ。
扉の向こうから、聞き覚えのある匂いが流れ込んできた。
僕とソフィーの匂いを辿って、ここまでやってきたらしい。
ジャンヌも物音に気づき、面倒そうに頭を掻きながら店の入口へ向かった。
「こんな時間に誰よ……」
鍵を外し、ドアを開ける。
その先には、1匹の紅い狼が立っていた。
雨に濡れた赤い毛並み。
力なく垂れた耳と尻尾。
金色の瞳の周りには、泣いた跡のような濡れた筋が残っている。
口には、金属製の容器を咥えていた。
ジャンヌは紅い狼と、店内にいる僕たちを交互に見る。
「……ウチは動物園じゃないんすけど」
「がうっ!」
僕はペットベッドから飛び出した。
アメリア。
ソフィーも僕の後ろから顔を出す。
「ふしゃ……」
白い毛がわずかに逆立った。
アメリアは僕たちを裏切り、ドレッドへ引き渡した。
僕とソフィーにD因子OF型を使ったのも彼女だ。
人格を取り戻したとはいえ、ソフィーの身体はそのことを覚えているらしい。
僕の後ろへ隠れ、警戒するように低い声を漏らしていた。
アメリアは店内へ入ろうとしない。
入口の外で立ち尽くし、僕とソフィーを見つめている。
金色の瞳が揺れた。
やがて頭を低く下げ、地面へ鼻先が触れそうなほど深く伏せる。
「くぅん……」
弱々しい声だった。
アレックス。
ソフィー。
ごめんなさい。
そう伝えている。
僕には分かった。
「がぅ……」
アメリア……。
僕が近づこうとすると、アメリアは一歩後ろへ下がった。
ソフィーはまだ動かない。
僕の隣から、伏せた耳のままアメリアを見つめている。
アメリアは口に咥えていた容器を、静かに床へ置いた。
金属の重い音が鳴る。
容器にはドレッドの管理番号と、D因子抑制剤の文字が刻まれていた。
アメリアは前脚で容器を僕たちの方へ押し出す。
これで元に戻れるか分からない。
それでも、持ってきた。
アメリアの鳴き声と仕草から、その思いが流れ込んでくる。
彼女はもう一度、僕とソフィーを見た。
「くぅ……」
さよなら。
紅い身体がゆっくりと背を向ける。
「がうっ!」
待って、アメリア!
呼び止めたつもりだった。
けれど、口から放たれたのは店内を震わせる仔獅子の咆哮だった。
アメリアの足が止まる。
耳だけが、こちらへ向いた。
「ぐるる……がう! がうっ!」
行かないで。
僕は必死に鳴いた。
前脚で床を叩き、何度も首を横へ振る。
アメリアは振り返った。
金色の瞳に、再び涙が浮かんでいる。
「ウォン……くぅん……」
私は裏切り者。
あなたたちと一緒にいる権利なんてない。
狼の低い声と、伏せられた耳。
垂れた尻尾。
その全てが、アメリアの言葉を伝えていた。
ジャンヌが僕たちのやり取りを眺めながら、頭を掻く。
「いやー、アンタらの中じゃ会話成立してんのかねー」
成立している。
アメリアが何を言っているのか、僕には分かる。
だからこそ、行かせるわけにはいかなかった。
「がうっ!」
違う!
僕はアメリアの前まで駆け寄った。
紅い前脚へ、自分の蒼い前脚を重ねる。
一緒にいてほしい。
僕の隣にいて。
俯くアメリアの鼻先へ、額を押しつけた。
「がぅ……くるる……」
情けない僕に、また気合いを入れてよ。
アメリアに引っ張られなければ、僕はヒーローになんてなれなかった。
最初は戦うことが怖くて、事件が起きるたびに逃げることばかり考えていた。
そんな僕の手を掴み、無理矢理にでも前へ連れ出したのはアメリアだ。
僕は、少し離れた場所にいるソフィーへ顔を向けた。
ソフィーは不安そうに僕たちを見ている。
「がう……」
僕はアメリアがいないと、女の子1人救えないんだ。
アメリアの耳が僅かに持ち上がる。
「くぅ……がうっ」
だからお願い。
一緒にいて。
アメリアの前脚へ重ねた肉球に、力を込めた。
「がう!」
これは、スターハーツのリーダーとしての命令だよ。
アメリアが目を見開く。
一瞬の沈黙の後、喉の奥から震えるような声が漏れた。
「グルル……ウォン!」
こんな時ばっかりリーダー面しないでよ。
怒っているような声だった。
けれど、伏せられていた耳は戻り、尻尾も僅かに揺れている。
アメリアらしい返事だった。
僕は嬉しくなり、彼女の胸元へ頭を押しつけた。
紅い身体が大きく震える。
金色の瞳から溢れた涙が、頬の毛を伝った。
その時、白い子猫がゆっくりと近づいてきた。
アメリアの身体が強張る。
ソフィーはまだ警戒を解いていない。
鼻先を近づけ、匂いを確かめる。
アメリアは逃げず、身体を低くした。
ソフィーが目の前へ来ても、抵抗せずに待っている。
やがてソフィーは背伸びをし、アメリアの頬を舐めた。
ざらついた小さな舌が、流れていた涙を拭い取る。
「にゃぁ……くるる」
泣かないで、アメリア。
ソフィーはそう伝えた。
アメリアの瞳から、さらに大粒の涙が零れた。
「くぅん……」
ごめんなさい。
「にゃ……」
ソフィーはもう一度だけ頬を舐めると、自分の白い前脚をアメリアの前脚へ重ねた。
その上へ、僕も蒼い前脚を置く。
蒼い仔獅子。
白い子猫。
紅い狼。
姿も大きさも変わり、言葉すら失っている。
それでも、僕たちはスターハーツだった。
裏切られた痛みが消えたわけではない。
それでも、彼女が戻ってきたことを拒みたくなかった。
離れてしまった心を、もう一度つなぎ直したかった。
僕は2匹の前脚へ、自分の肉球を強く押しつける。
ソフィーの小さな喉が鳴る。
アメリアも涙を流しながら、僕たちの前脚を包むように力を込めた。
バラバラになった心は今、獣の姿で再び1つになろうとしていた。




