第69話 一匹の孤狼
◇
目を開くと、見慣れない天井があった。
薄いカーテンの隙間から朝の光が差し込み、広い寝室を淡く照らしている。
私はオデットのベッドに横たわっていた。
隣に彼女の姿はない。
乱れたシーツには、まだかすかに温もりが残っている。
昨夜は眠ったのかどうかも分からない。
何度も抱きしめ合い、口づけを交わし、互いの体温を確かめるように朝まで寄り添っていた。
オデットへの気持ちが偽物だったわけではない。
シオだった頃から、ずっと私のそばにいてくれた。
どんな時も優しく笑い、私のことを特別だと言ってくれた。
だから彼女と同じになれた時、心から幸せだと思った。
それなのに、胸の奥には小さな空洞が残っている。
どれだけ抱きしめられても、満たされない。
私はベッドから起き上がり、椅子へ置かれていた服に手を伸ばした。
「起きたのね、アメリア」
振り返ると、オデットが部屋へ入ってくるところだった。
腕には何着もの服を抱えている。
「ちょうどよかったわ。貴女に似合いそうな服を選んできたの」
オデットは嬉しそうに服をベッドへ広げた。
白いレース。
幾重にも重なったフリル。
胸元や袖には赤いリボンが飾られ、スカートは花のように大きく広がっている。
まるで飾り棚へ置かれる人形の服だ。
「アメリアは可愛いんだから、こんなのはどうかしら?」
「……私は自分が好きな物を着たい」
口から出た言葉に、オデットの笑みがわずかに固まった。
「これも着てみれば好きになるわ」
「そういうことじゃないの。私は動きやすい服の方がいい」
「私が選んだものは嫌?」
「嫌とは言ってないわ。ただ、自分で選びたいだけ」
オデットはドレスを置くと、私の背後へ回った。
白い腕が肩へ伸び、羽で包み込むように私を抱き寄せる。
「アメリア、全て私に身を委ねて」
耳元へ甘い声が注ぎ込まれる。
「貴女が迷う必要なんてないの。服も、暮らす場所も、これから何をするのかも、私が全部決めてあげる」
頬へ唇が触れる。
以前なら、それだけで身体の奥が熱くなった。
今は胸の空洞が広がっていく。
「好きな人には、隣で笑っていてほしいの」
そう言った瞬間、別の顔が浮かんだ。
青い髪の小さな少年。
怖がりなくせに、誰かが傷つきそうになると真っ先に飛び出していく。
アレックス。
彼が私の隣で笑っている光景が、頭をよぎった。
違う。
今、考えちゃいけない。
必死に追い払おうとした時、オデットの両手が私の頬を挟んだ。
強引に顔を向けられる。
「今、私以外のことを考えていたでしょう?」
美しい顔が目の前にある。
微笑んでいるのに、その瞳だけは笑っていない。
「そんなこと……」
「私だけを見て?」
「オデット、痛いわ」
「私は貴女の全てを愛しているの。だから貴女にも、私だけを愛してほしい」
「愛しているわ。でも、ずっと見ていることなんてできない」
「どうして?」
オデットは本当に分からないという顔をした。
「私が見たい時に見たいの。貴女が笑う顔も、泣く顔も、怒る顔も、全部私のものよ」
私のもの。
その言葉が、胸の奥へ冷たく沈んだ。
オデットは私の全てを受け入れてくれた。
そう思っていた。
けれど違う。
彼女は私を受け入れたいのではない。
私の考えも、服も、心も、自分の望む形へ変えて所有したいだけだ。
あのフリルのドレスと同じ。
私は彼女が好きな姿をさせられ、彼女が望む場所へ置かれる人形だった。
「どうしたの、アメリア?」
返事ができない。
頭を覆っていた甘い霧が、少しずつ晴れていく。
D因子を飲み込んだ時、私の中から何かが抜け落ちた。
怒りも、迷いも、罪悪感も。
代わりにオデットへの愛だけが大きく膨らみ、他の感情を塗りつぶしていった。
その覆いが、今になって剥がれていく。
忘れていたものが、一気に押し寄せてきた。
アレックス。
ソフィー。
私が裏切った、スターハーツの仲間。
私は2人へD因子を使った。
あれほどD因子に苦しめられたソフィーにも。
何も悪くないアレックスにも。
倒れて動けない2人へ、自分の手で注射した。
小さな身体が苦しみながら獣へ変わっていく姿を、私は幸せそうに眺めていた。
「……私、何をしたの?」
呼吸が浅くなる。
「あの2人に、何を……」
「アメリア?」
オデットの手を振り払った。
驚く彼女を残し、私は寝室を飛び出した。
◇
研究所の通路を、足音を殺して進む。
ドレッドの一員として与えられた権限は、まだ失われていない。
認証装置へ手をかざすと、保管区画の扉が開いた。
冷たい空気が流れ出す。
室内には無数の薬品が並んでいる。
D因子の追加投与剤。
変異を促進する薬。
そして、その奥。
赤い警告灯の下に、D因子抑制剤と記された容器が保管されていた。
私は容器を両腕で抱えた。
これで元に戻せる保証はない。
それでも、何もしないよりはいい。
アレックスとソフィーを捜し出して、これを渡さなければならない。
せめて自分がしたことを、少しでも償わなければ。
保管庫を出た瞬間、けたたましい警報が鳴り響いた。
赤い照明が通路を染める。
『D因子抑制剤の持ち出しを確認。全区画を封鎖します』
「レッドフードが裏切った!」
「逃がすな!」
研究員の叫びに続き、いくつもの軍靴が床を蹴る。
前方からキャンセラーが現れ、後方からも追手が迫ってきた。
挟まれる。
私は容器を胸へ抱き、獣の姿を思い描いた。
身体中が熱を帯びる。
服が紅い体毛の中へ沈み、両手が床へ落ちる。指が縮んで鋭い爪を備えた前脚へ変わり、背骨が四足の獣に適した形へ組み替わった。
顔が前へ伸び、牙が生える。
頭には三角形の狼耳が立ち、紅い尾が背後へ伸びた。
床へ落ちる直前の容器を、大きく開いた口で咥える。
「止まれ!」
魔導銃の閃光が通路を走った。
私は床を蹴る。
銃弾が脇を通り抜け、壁へ火花を散らす。
キャンセラーの足元を潜り抜け、狭い通路を駆けた。
人間の姿では追いつけない速度で景色が流れていく。
角を曲がり、階段を飛び下りる。
背後から響く銃声も足音も、次第に遠ざかっていった。
たどり着いたのは、錆びついた通用口だった。
アレックスとソフィーを逃がした場所。
あの時の2人は、小さな仔獅子と子猫になっていた。
何度も私を振り返り、一緒に来いと訴えていた。
それなのに私は威嚇し、追い払った。
あの時、謝れていれば。
一緒に行けていたら。
そもそも、スターハーツを裏切らなければ。
私は通用口を四足で駆け抜けた。
夜の冷たい空気が毛並みを揺らす。
研究所の外壁に沿って走り、裏路地へ飛び込む。配管の隙間を抜け、積み上げられた廃材を飛び越えた。
警報音が聞こえなくなっても走り続けた。
足音も人の気配も完全に消えたところで、ようやく立ち止まる。
口から容器を下ろし、荒い呼吸を繰り返した。
もう追手はいない。
ここまで来れば、人間へ戻れる。
そう思った。
いつものように元の姿を思い描く。
何も起こらない。
もう一度、強く願う。
紅い体毛も、前脚も、長い鼻先も、そのままだった。
「くぅ……」
喉から漏れたのは人の声ではない。
低くかすれた狼の鳴き声だった。
何度試しても戻れない。
オデットが言っていた言葉を思い出す。
D因子の力は、負の感情によって増大する。
私は完全適合者だった。
人間とレッドフードと狼、どの姿にも自由に変われるはずだった。
それでも今は、OF型の力に抗えない。
罪悪感と後悔が膨らむほど、獣の身体が私を強く縛りつける。
オデットを裏切った。
その前にはアレックスとソフィーを裏切った。
私は大切な人を全員、自分の手で傷つけた。
最後には、人の姿まで失った。
「……当然の結果ね」
そう言ったつもりだった。
けれど口から出たのは、弱々しい鳴き声だけだった。
私は容器を咥え直し、人気のない路地を歩き始めた。
行く場所なんてない。
戻る場所もない。
ドレッドには追われ、スターハーツにも合わせる顔がない。
一匹の野良狼。
今の私には、それがお似合いだ。
紅い尾を垂らし、濡れた石畳の上をとぼとぼと進む。
狼の金色の瞳から涙があふれた。
頬の毛を濡らした雫が、ひとつずつ地面へ落ちていった。




