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第68話 通わせ合う心

ソフィーは怯えた声を上げ、ペットベッドの奥へ下がった。


「ふしゃあっ!」


白い毛が逆立ち、背中が大きく丸まる。


「ソフィー、僕だよ。アレックスだよ」


僕は刺激しないよう、その場に膝をついた。


獣人の姿になった僕の言葉は、ちゃんと人の声になっている。だけどソフィーには届いていない。


青い毛に覆われた身体。


獅子の顔。


長い鬣と尻尾。


人間だった頃の僕を思い出せる部分なんて、ほとんど残っていない。


「怖くないよ。何もしないから」


両手を見せながら呼びかけても、ソフィーはペットベッドの縁へ爪を立てるだけだった。


淡い青色の瞳は僕を見ている。


けれど、その中に友達を見る色はなかった。


知らない大きな獣から逃げようとする、怯えた猫の目だ。


テーブルの上には、僕が書いた手紙が置かれている。


ソフィーへ。


僕は無事です。


必ず迎えに行きます。


たったそれだけを書くのに、何度もペンを落とした。


自分の手で届ければ、きっと分かってくれると思っていた。


でも今のソフィーには、文字の意味すら伝わっていないのかもしれない。


「……ジャンヌ。少し離れていて」


「ライト、何する気?」


「ソフィーに分かる姿になる」


僕は大きく息を吸った。


せっかくここまで戻れたんだ。


道具を握れるようになって、2本足で立てるようになって、ようやく自分の声で話せるようになった。


また仔獅子になったら、今度も戻れる保証はない。


言葉も、指も、人としての感覚も、また失ってしまうかもしれない。


怖い。


それでも、この姿のままではソフィーに近づけない。


研究所の檻の中で、僕たちは言葉を使わずに何度も励まし合った。


あの時の僕なら、今のソフィーにも届くはずだ。


僕は床へ両手をついた。


ソフィーと同じ場所へ戻りたい。


そう強く願う。


胸の奥が熱くなり、全身へ広がった。


太かった腕が縮み、手の指が短くなっていく。床についていた手のひらが丸い前脚へ変わり、肉球が床に触れた。


身体が一気に小さくなったことで、手袋が指先から抜け落ちる。


コートの袖が前脚をのみ込み、ゆったりしたズボンは腰からずり落ちた。ブーツの中から後ろ脚が抜け、縮んだ身体の上へ大きなコートが覆い被さる。


布の下で背骨が曲がり、目線が床の近くまで落ちていった。


顔が前へせり出し、口元が獣の形になる。


頭の横へ移った耳が、部屋の小さな物音まで拾い始めた。


最後に、長い尻尾がズボンの中から抜ける。


僕は自分の何倍も大きくなった服の山から、どうにか這い出した。


床に残されたのは、空になった上着とズボン、手袋、ブーツ。


その前に立っているのは、蒼い毛並みをした1匹の仔獅子だった。


「マジで戻った……」


ジャンヌの声が頭上から降ってくる。


僕は声を出そうとした。


「がぅ……くぅ」


やっぱり人の言葉にはならない。


それでも今は、これでいい。


ソフィーと目線の高さを合わせるため、僕は身体を伏せた。


耳を寝かせ、尻尾も床へ下ろす。


敵意はない。


怖くない。


研究所で何度も使った仕草だ。


「くぅ……くるる……」


ソフィーの耳がわずかに動いた。


ペットベッドの奥から、鼻先だけが出てくる。


僕は近づかずに待った。


ここで追いかけたら、また怖がらせてしまう。


やがてソフィーが、ゆっくりと前脚を踏み出した。


警戒するように床の匂いを嗅ぎながら、少しずつ距離を詰めてくる。


僕の匂いを確かめているんだ。


「うにゃ……」


かすかな声。


ソフィーは僕の周りを1周すると、鼻先を鬣へ近づけた。


僕もゆっくり顔を寄せる。


ちょん。


鼻先と鼻先が触れ合った。


檻の中で毎朝していた、僕たちの挨拶。


ソフィーの身体から少しだけ力が抜けた。


でも、まだ思い出したわけではなかった。


次の瞬間には僕の尻尾へ飛びつき、前脚でじゃれ始める。


「がぅ……」


完全に猫の遊び方だ。


僕は尻尾を引き抜くと、テーブルの下へ向かった。


椅子へ前脚をかけ、身体を伸ばす。どうにか手紙の端を爪へ引っかけると、紙がひらひらと床へ落ちた。


ソフィーが音に反応して顔を向ける。


僕は手紙を咥え、彼女の前まで運んだ。


前脚で紙を広げる。


少し歪んだ文字で書かれた、ソフィーの名前。


僕はその文字を肉球で押し、次にソフィーの胸へそっと触れた。


「にゃ?」


もう一度繰り返す。


ソフィー。


これは君の名前だ。


ソフィーは紙へ顔を近づけた。


淡い青色の瞳が文字を追う。


僕は今度は自分の名前を押し、それから自分の胸を叩いた。


アレックス。


僕の名前。


ソフィーの尻尾が止まった。


伏せられていた耳が、ゆっくりと持ち上がる。


「くる……にゃぁ……」


それまで定まっていなかった瞳が、まっすぐ僕を捉えた。


僕は紙の上に前脚を置いたまま待った。


ソフィーが、おそるおそる前脚を伸ばす。


肉球が自分の名前へ重なった。


そのまま前脚を胸元へ引き寄せる。


ソフィー。


次に僕の名前へ触れ、僕の鬣へ肉球を押し当てた。


アレックス。


「がうっ!」


思わず大きな声が出た。


分かってくれた。


ソフィーは自分が誰なのかを思い出したんだ。


「にゃあぁっ!」


ソフィーが僕へ飛びついた。


勢いに負けて仰向けに倒れる。


白い前脚が僕の首へ回り、小さな身体が鬣の中へ顔を埋めた。


喉の奥から、震えるような音が聞こえる。


喜んでいるのか、泣いているのかは分からない。


きっと両方だ。


僕も前脚をソフィーの背中へ回した。


白い毛並みは、研究所にいた頃より少し痩せている。


こんなになるまで、ずっと待っていたんだ。


僕はソフィーの背中を肉球で2回叩いた。


檻の中で決めた合図。


僕はここにいる。


ソフィーの身体が小さく震えた。


すぐに同じように、僕の胸を2回叩き返してくる。


私もここにいる。


しばらく寄り添ったあと、ソフィーは僕から離れた。


床に落ちた手紙を咥え、ペットベッドまで運んでいく。


そこで手紙を丁寧に置くと、僕の名前を前脚で押し、僕を見つめた。


「にゃっ」


短く呼んでから、ベッドの空いている場所を尻尾で軽く叩く。


僕はゆっくり近づいた。


ソフィーは逃げなかった。


もう一度鼻先を触れ合わせると、喉を鳴らしながら僕の頬へ自分の頬を擦り寄せてくる。


その仕草が何を伝えているのか、今の僕にははっきりと分かった。


お帰り。


ソフィーは僕の胸へ前脚を置き、2回続けて押した。


それからずっと離すまいとするように、鬣へ顔を埋める。


待ってた。


「くぅ……くるる」


僕も彼女の頭へ頬を寄せた。


ただいま。


ソフィーは安心したように身体を丸めた。


僕はその隣へ潜り込み、冷えないように蒼い尻尾を白い身体へ重ねる。


やがてソフィーの喉から、穏やかな音が聞こえ始めた。


今度はただの猫の仕草には見えなかった。


そこにいるのは、僕の友達のソフィーだ。


手紙を前脚の間へ挟み、僕の鬣へ額を預けて眠ろうとしている。


僕も目を閉じた。


人の言葉は使えない。


それでも、伝えたかったことは全部届いていた。


お帰り。


待ってた。


ただいま。


僕たちは鼻先を触れ合わせたまま、静かに寄り添った。

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