第67話 進化の過程
それからも、毎日少しずつ練習を続けた。
スプーンを持つ。
コップを掴む。
テーブルに手をつく。
できることが増えるたび、変化を保てる時間も延びていった。
右手だけだった変化が腕まで広がる。
次は左の前脚も手へ変わった。
後ろ脚で立ちたいと願う時は、ただ二足歩行の姿を思い浮かべるのではなく、両手で食器を持ちながら椅子へ座る自分を想像した。
曲がっていた後ろ脚が少しずつ伸び、骨盤も二足で立てる形へ近づいていく。
けれど、完全な二足歩行へ変われたわけではなかった。
全身は青い毛に覆われたまま。
顔にも仔獅子の面影が強く残り、口元は前へ突き出ている。
胴体は人間に近づいていたけれど、腕は長く、立っていても少し前屈みになってしまう。
手には5本の指がある。
それでも掌には肉球が残り、指先からは鋭い爪が出た。
獣形態と獣人形態。
今の僕は、その中間にいるような姿だった。
「がう……くぅ……」
喉と口の形も、まだ仔獅子に近い。
どれだけ舌を動かしても、人間の言葉にはならなかった。
完全な獣人形態まで変われれば、きっと言葉も話せる。
けれど今できるのは、2本の脚で立つこと。
短い距離を歩くこと。
そして、両手で物を持つことだけだった。
それでも身体は、確実に僕の意思へ応え始めていた。
そして、やっと片手の形を安定して保てるようになった日。
僕はリビングのテーブルへ座った。
目の前には、エラが用意してくれた便箋がある。
右手でペンを握る。
まだ指は青い毛に覆われていて、人間だった頃より太い。
力の加減も難しく、少し気を抜くと爪が出そうになる。
それでも、もうペンを落とさなかった。
ソフィーへ。
最初の文字は大きく歪んだ。
何度も線が震え、インクが滲んだ。
それでも、1文字ずつ書いていく。
僕は無事です。
置いていったわけじゃないよ。
必ず迎えに行くって約束も忘れていません。
待っていてください。
アレックス。
最後に自分の名前を書き終える。
綺麗な手紙ではなかった。
文字の大きさは揃っていないし、何か所か紙を爪で傷つけている。
それでも、僕が自分の手で書いた手紙だった。
「書け……た……」
喉の奥から、掠れた音が漏れた。
鳴き声ではない。
自分でも驚き、青い毛に覆われた首元へ手を当てる。
「いま……しゃべれ……」
上手く舌が回らない。
それでも、言葉になっている。
ただ声を出したいわけではない。
帰ってきた日に言えなかった言葉がある。
それを自分の声で伝えたい。
僕はキュナを見る。
「キュナに……ただいまって……言いたい」
その瞬間、喉の奥が熱くなった。
短かった首が伸び、前屈みになっていた背筋が真っすぐ起き上がる。
肩や胸の骨格が軋み、人間に近い形へ整っていった。
前へ突き出ていた獣の口元は残っている。
顔を覆う青い毛も、濃い鬣も消えなかった。
丸い獅子耳が頭の上で震え、腰から伸びる尻尾が大きく揺れる。
手足も青い毛に覆われたまま。
掌には肉球があり、指先には出し入れできる爪が残っている。
後ろ脚は獣に近い形を保ちながらも、2本で安定して立てるようになった。
獣形態と獣人形態の間にあった歪さが消えていく。
全身を青い毛に覆われた、二足歩行の獅子の少年。
僕はようやく、完全な獣人形態へ変わっていた。
口元は獅子のままなのに、舌も喉も人間の言葉を作れる。
僕は椅子から立ち上がった。
さっきまでのように前へ倒れそうにはならない。
2本の脚で床を踏み、自分の足でキュナの前まで歩く。
「キュナ」
少し低く、獣の唸りが混ざった声だった。
けれど、今度ははっきりと名前を呼べた。
「ただいま」
帰宅した日には伝えられなかったひと言。
キュナの金色の瞳が大きく見開かれる。
次の瞬間、身体ごと抱きしめられた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま……!」
背中へ回された腕に力がこもる。
「お帰りなさい……ずっと、ずっとお待ちしていました!」
「うん……」
お母さんも、エラもそばへ来る。
3人の腕に囲まれながら、僕はもう一度伝えた。
「ただいま」
元の人間の姿ではない。
青い毛も、獅子の顔も、耳も尻尾も残っている。
それでも、自分の声で家族のところへ帰ってこられた。
◇
ソフィーへの手紙は、その日のうちにジャンヌへ届けてもらった。
しばらくして、使えるようになったマナリンクへメッセージが届く。
『白いの、あれを枕にして寝てるよ』
続けて送られてきた写真には、僕の手紙へ頬を乗せ、丸くなっている白い子猫が映っていた。
「ソフィー……」
僕の手紙だと分かったのだろうか。
文字を読めたのだろうか。
自分の名前を、まだ覚えているのだろうか。
写真だけでは分からない。
それでも、会いに行きたかった。
問題は、この姿でどうやって外を歩くかだ。
青い獅子の獣人が街を歩けば、嫌でも人目を引く。
僕が行方不明になったアレックスだと気づかれなくても、ドレッドの怪人だと通報されるかもしれない。
お母さんとキュナに手伝ってもらい、身体を隠せる服を用意した。
厚手の長袖の服で、青い毛に覆われた腕と胴体を隠す。
脚にはゆったりとしたズボンを穿き、獣の形をした足先まで大きなブーツへ押し込んだ。
尻尾は腰へ巻きつけ、その上から長いコートを羽織る。
手には指先まで覆う黒い手袋。
顔には大きなマスクを着け、その上から濃い色の眼鏡を掛ける。
最後に深いフードを被り、丸い獅子耳と鬣を隠した。
鏡に映る姿は、全身を覆い隠した怪しい人物にしか見えない。
「これ、逆に目立たない?」
「顔を出すよりはいいわ」
お母さんがフードの位置を直す。
「なるべく人通りの少ない道を通りなさい。少しでも危険を感じたら、すぐに帰ってくるのよ」
「うん」
人間の言葉で返事ができる。
それだけでも、少し安心した。
家の裏口から外へ出る。
久しぶりに2本の脚で歩くイスカティアの街は、以前と同じようで違って見えた。
獣形態の時より目線は高い。
けれど、まだ人間だった頃よりも周囲の匂いや音を強く感じる。
通りを走る魔導車の駆動音。
飲食店から流れてくる肉の匂い。
遠くで鳴る治安維持局のサイレン。
すれ違う人の足音が近づくたび、フードの下で獅子耳が動いた。
誰かと目が合っただけで、身体が強張る。
僕を見ていた?
今、尻尾がコートから出ていなかった?
歩き方がおかしいと思われていない?
何度も周囲を確認しながら、人通りの少ない裏路地を選んで進む。
大通りを避けたため、普段よりも時間がかかった。
それでも、ようやくフェアリーテールの裏口が見えてくる。
辺りに怪しい人影がないことを確かめ、扉を軽く叩いた。
しばらくして、内側からジャンヌが顔を出す。
「……誰?」
「僕だよ。アレックス」
ジャンヌの眠そうな緑色の瞳が見開かれた。
「マ?」
「本当だよ」
マスクを少し下げ、青い毛に覆われた獅子の口元を見せる。
ジャンヌは数秒固まったあと、急いで僕を中へ引っ張り込んだ。
「ちょ、外で見せんなって! はよ入れ!」
扉が閉まり、鍵が掛けられる。
僕はフードと眼鏡、マスクを外した。
隠していた獅子耳が立ち上がり、押さえつけられていた鬣が広がる。
「おま……進化の方向そっちで合ってんの?」
「僕にも分からないよ。でも、喋れるようにはなった」
「それはマジよかったけどさ……」
ジャンヌは僕の頭から足まで何度も見回した。
それから店の奥へ視線を向け、声を落とす。
「白いの、奥にいる」
部屋の隅には、僕とソフィーが一緒に使っていた大きなペットベッドが置かれていた。
その奥で、白い子猫が身体を丸めている。
淡い灰色の縞模様。
小さな耳。
身体へ巻きつけられた尻尾。
間違いない。
ソフィーだ。
「ソフィー」
名前を呼ぶ。
白い耳がぴくりと動いた。
ソフィーが顔を上げ、淡い青色の瞳で僕を見る。
けれど、すぐに耳を伏せた。
「僕だよ。アレックスだよ」
一歩近づく。
「ふしゃっ……!」
ソフィーは怯えた声を上げ、ペットベッドの奥へ下がった。




