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第66話 リハビリと兆し

◇


あれから3日が経った。


僕の部屋には、大きな寝床が置かれている。


青いクッションは仔獅子の身体が沈むくらい柔らかく、寝返りを打っても落ちない広さがあった。


最初は人間だった僕が動物用の寝床で眠るなんて嫌だった。


けれど、一度身体を丸めてみると、これが悔しいくらい落ち着く。


今では夜になると自分から入り、鬣へ鼻先を埋めて眠っていた。


朝はキュナにブラッシングされる。


「坊ちゃま、今日も艶々にしますよー」


背中から尻尾の付け根までブラシが通るたび、喉の奥から勝手に音が漏れた。


「くるるる……」


気持ちいい。


でも、喜んでいると認めるのは少し恥ずかしい。


爪研ぎも用意された。


壁や家具を傷つけないためのものだと説明された時は、そんなことしないと思っていた。


ところが爪を立てて引っ掻いてみると、前脚へ伝わる感触が癖になってしまった。


ガリガリガリッ!


「坊ちゃま、楽しそうですねー」


「がうっ!」


ち、違うよ!


動物用のトイレを使うことにも、少しずつ慣れてきた。


これだけは最後まで慣れたくないけれど、誰かに手伝ってもらうよりはいい。


寝床。


ブラッシング。


爪研ぎ。


トイレ。


動物らしい生活が、僕の日常へ馴染み始めていた。


それが少し怖かった。


この暮らしを当たり前だと思うようになったら、もう人間へ戻りたいと願わなくなる気がしたからだ。


だから、身体を元へ戻すための練習も続けている。


「が、がう……くぅ……」


鏡の前で喉へ力を入れ、鳴き声の高さや長さを変える。


人間の言葉にはならない。


それでも、短く鳴けば肯定、低く唸れば否定、声を長く伸ばせば誰かを呼ぶなど、少しでも細かく意思を伝えようとしていた。


次は食器を使う練習。


前脚の間へスプーンを挟んでみる。


カラン。


持ち上げる前に落ちた。


もう一度。


カラン。


何度試しても、丸い前脚では柄を握れない。


ペンも同じだった。


肉球で押さえれば紙の上を転がせるけれど、文字を書くことはできなかった。


最後は、後ろ脚だけで立つ練習だ。


ソファへ前脚を置き、ゆっくり身体を起こす。


「ふるる……!」


後ろ脚が震える。


一瞬だけ前脚を離してみる。


ぐらりと視界が傾いた。


「がふっ!?」


そのままクッションの上へ転がる。


人間だった頃は、立つことなんて意識したこともなかった。


歩くことも、物を持つことも、喋ることも、できて当たり前だった。


失って初めて、それがどれほど複雑な動きだったのか分かる。


すぐに元へ戻れなくても、諦めるわけにはいかない。


僕は今日もソファから起き上がり、リビングのテーブルへ向かった。


◇


家族との話が終わっても、僕には1つだけ伝えられていないことがあった。


ソフィーに、必ず迎えに来ると約束したことだ。


今すぐフェアリーテールから移動させられないのは分かっている。


それでも、ソフィーがまだ僕のことを覚えているうちに、せめて返事を届けたかった。


僕は無事だよ。


置いていったわけじゃない。


必ず迎えに行くから、待っていて。


伝えたいことはたくさんあるのに、今の僕には手紙さえ書けない。


テーブルの前で俯いていると、隣の椅子に座っていたエラが紙を引き寄せた。


「ソフィーに何か伝えたいの?」


「がう」


短く答えて、首を縦へ振る。


エラは少し考え、紙へゆっくりと文字を書いた。


ソフィー。


白い紙の中央へ、4文字が並ぶ。


「この下に、アレックスの肉球を押してみる?」


エラがスタンプ用の青いインクを持ってくる。


「文字が書けなくても、これならアレックスからの手紙だって分かると思う」


それでも十分だった。


ソフィーなら、僕の肉球の跡を見てくれるかもしれない。


僕が無事だと気づいてくれるかもしれない。


けれど、紙を押さえてくれているエラの手を見た瞬間、胸の奥に別の気持ちが生まれた。


自分で書きたい。


肉球の跡を残すだけではなく、僕自身の手でソフィーの名前を書きたい。


僕はテーブルの上へ前脚を乗せた。


近くに置かれていたペンへ、肉球を重ねる。


今までの練習では、何度やっても転がすことしかできなかった。


握り方なんて、人間だった頃は考えたこともない。


親指をここに添える。


人差し指で上から押さえる。


残りの指で支えて、力を入れすぎないように動かす。


人間だった頃の手を思い出す。


ソフィー。


僕が書くんだ。


前脚へ力を込めた。


ペン先が紙の上を滑る。


ガリッ。


インクが歪んだ線を引き、紙の表面を引っ掻いた。


それでも、さっきまでとは違う。


ペンが転がらなかった。


僕の前脚が、ペンの軸を掴んでいる。


「……アレックス。今、どの指を動かしたの?」


エラの声が震えていた。


僕は前脚を見る。


肉球の脇に、青い毛の生えた短い親指があった。


丸い前脚には存在しなかった指。


小さいけれど、確かにペンの軸へ添えられている。


「がうっ!?」


驚いた拍子にペンが転がった。


カラン。


慌てて拾おうとする。


けれど、その時にはもう親指が消えていた。


いつもの丸い前脚へ戻っている。


「くぅ……?」


今のは何だったの?


見間違いではない。


エラも見ていた。


ペンには僕が力を加えなければ残らないはずの跡があり、紙には短い線が引かれている。


騒ぎを聞きつけ、お母さんとキュナがリビングへ入ってきた。


「どうしたの?」


「今、アレックスの前脚に親指が生えた」


エラが紙とペンを指差す。


「ペンを握ろうとしたら、一瞬だけ人の手に近づいたの」


お母さんは僕の前へ屈み、丸い前脚を取った。


肉球や指の間を確かめる。


今は何度見ても、仔獅子の前脚だった。


「ペンを握りたいと思ったのね?」


「がう」


僕は何度も頷いた。


お母さんは僕の前脚を握ったまま、考え込む。


「科学に詳しい知人へ、名前を伏せて相談してみたの。その人は以前、政府からD因子について調査を依頼されたことがあるそうよ」


D因子。


その言葉に、僕の獅子耳がぴくりと動いた。


お母さんも、その知人も、僕の心臓にプロテウスが入っていることは知らない。


僕たちへ投与されたものが、通常のD因子より強力なOF型であることも知らない。


それでも、お母さんはドレッドの仕業だと考え、僕の身体に起きている変化だけを知人へ伝えていた。


「その人によると、D因子は感情や本人が思い描く姿に反応して、身体を変化させることがあるそうよ」


僕は顔を上げた。


人間へ戻りたい。


アレクサンダーになりたい。


僕は何度もそう願った。


けれど、何も起こらなかった。


「ただ人間に戻りたいと願うだけでは、身体に何を変えればいいのか伝わらなかったのかもしれない」


お母さんの指が、僕の肉球を優しく撫でる。


「でも今は、ペンを握るために親指が必要だと、はっきり思い描いた。だからD因子が、指1本分だけ反応したんじゃないかしら」


断定はできない。


知人が調べたのは政府から依頼された範囲だけで、僕と同じ症例を知っているわけでもない。


それでも、今までにはなかった変化が起きた。


研究所では、毎日のように前脚を掴まれた。


採血の針。


青い血の匂い。


押さえつけてくる研究員の手。


あの時の僕は、怖くて逃げることしか考えていなかった。


前脚に望んだのは、爪を出して抵抗することだった。


けれど今は違う。


お母さんに前脚を包まれた時は、その手を握り返したいと思った。


ペンへ触れた時は、自分の指で握ってソフィーの名前を書きたいと思った。


研究所と家で違ったのは、僕がこの手でしたいことだった。


僕は転がったペンへ視線を向ける。


まだ人間へ戻れたわけではない。


親指も一瞬で消えてしまった。


それでも、もう一度試すことはできる。


僕は丸い前脚を伸ばし、再びペンへ重ねた。

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