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第65話 安心と不安

◇


僕は無理矢理、お風呂へ入れられていた。


「がう! ぐるる!」


やめてよ!


浴槽の縁へ前脚をかけ、必死に逃げようとする。


けれど、濡れた肉球がつるりと滑った。


バシャッ!


顔からお湯へ落ちかけたところを、お母さんの両腕に抱き留められる。


「危ないでしょう。大人しくしてなさい」


「くぅ……」


青い鬣から雫が垂れ、鼻先へ落ちる。


人間だった時は、お風呂が嫌いではなかった。


少し熱いお湯へ肩まで浸かりながら、防水機能を使ってマナリンクで動画を見ていたこともある。


けれど、この姿になってから水に濡れることが嫌になった。


全身の毛がお湯を吸って重くなる。


ふわふわだった鬣は肌へ張りつき、身体が一回り小さくなったように見える。


丸い獅子耳へ水が入ると、頭を振らずにはいられない。


「がう!」


ブルブルブルッ!


顔と鬣から飛んだ水滴が、浴室中へ広がった。


お母さんとキュナの顔にも、まともにかかる。


「あらあら」


「坊ちゃま、キュナまでびしょ濡れです!」


怒られると思った。


けれど、2人とも嬉しそうに笑っていた。


「やっと帰ってきたんだもの。これくらい平気よ」


お母さんが濡れた前髪を掻き上げる。


キュナは泡立てた大きなスポンジを僕の背中へ当てた。


「お外で、ずいぶん汚れちゃいましたね。今日は隅々まで綺麗にしましょう!」


「ぐるる……!」


やめてってば!


背中を擦られる。


首を擦られる。


前脚を持ち上げられ、肉球の間まで丁寧に洗われる。


キュナは獅子耳の裏側まで指先で優しく拭いていた。


「ここも汚れていますねー」


「くぅ……」


くすぐったい。


身体を捻って逃げようとしても、お母さんが脇から僕を抱えている。


「駄目よ。もう少しだから我慢して」


「がう! がう!」


そんな鳴き声も虚しく、全身を泡だらけにされた。


最後に頭からお湯をかけられる。


泡が身体を流れ落ち、排水口へ吸い込まれていった。


ようやく終わったと思ったのに、今度は大きなタオルで包まれる。


お母さんとキュナに両側から擦られ、身体が右へ左へ揺れた。


「くぅぅ……」


「坊ちゃま、仕上げですよ!」


ブォォォン!


ドライヤーの音に獅子耳が跳ねる。


温かい風が全身へ当てられた。


最初は大きな音が怖くて逃げようとしたけれど、温風に包まれているうちに身体から力が抜けていく。


悪くないかもしれない。


濡れて固まっていた毛が、少しずつ膨らんでいく。


鬣も元の形へ戻り、首の周りへ柔らかく広がった。


「完成です!」


洗面所の鏡を見る。


そこには、以前にも増してふかふかになった青い仔獅子が映っていた。


背中の毛には艶が戻り、腹側の淡い毛は綿のように膨らんでいる。


濃い青色の鬣も、顔の周りで丸く広がっていた。


一回り大きくなったようにさえ見える。


お母さんが後ろから抱き上げ、頬を鬣へ埋める。


「ふかふかね……」


キュナも反対側から頬を寄せてきた。


「洗いたての坊ちゃま、最高です!」


「くぅ……」


僕で遊んでない?


そう思いながらも、2人の温かさから逃げる気にはなれなかった。


◇


お風呂から出たあと、僕はリビングのソファへ座らされた。


正確には、四足でクッションの上へ伏せている。


お母さんとキュナ、エラが僕を囲むように座っていた。


テーブルの上には紙とペンが置かれている。


けれど、今の前脚では文字を書けない。


マナリンクも獣化した身体へ吸収されたまま、操作できなくなっていた。


お母さんが僕の銀色の瞳を見つめる。


「アレックス。イエスかノーで答えられる質問をするから、首を振ってちょうだい」


僕は頷いた。


縦ならイエス。


横ならノー。


それなら、今の身体でも答えられる。


「あなたは危ない目に遭って、身体がライオンになった?」


首を縦に振る。


うん。


お母さんの表情が曇った。


それでも、次の質問を続ける。


「あなたは元に戻れる?」


首を横へ振る。


ううん。


自分で答えながら胸が苦しくなった。


戻りたいと思っても、身体は何も反応しない。


プロテウスによる変身さえ、今は使えなくなっている。


僕は青い仔獅子のままだ。


お母さんは一度唇を噛み、慎重に尋ねた。


「ソフィーちゃんも一緒だったの?」


首を縦に振る。


「ソフィーちゃんも、動物に変わっている?」


もう一度、縦に振った。


「白い子猫がソフィーちゃんなんですね?」


うん。


あの子がソフィーだよ。


フェアリーテールへ置いてきた白い子猫。


今頃、僕がいなくなったペットベッドで丸くなっているのだろうか。


僕が必ず迎えに来ると伝えたことを覚えているだろうか。


「あなたの存在を知られたら、危険なことをしてくる者がいる?」


僕は強く首を縦へ振った。


ドレッド。


僕たちを実験動物にしたアメリア達。


人間が魔法以外の技術で獣へ変わったと知られれば、ほかの科学機関まで僕たちを狙うかもしれない。


お母さんは長く息を吐いた。


「分かったわ」


僕がアレックスだと分かってもらえた。


それでも、すぐに世間へ公表することはできなかった。


行方不明だったアレックス・ジクストが、青い仔獅子になって発見された。


そんな情報が広まれば、ドレッドにも僕の居場所が知られてしまう。


治療という名目で、別の研究施設へ連れていかれる可能性もある。


ソフィーも同じだ。


ドレッドは、僕たちが一緒に研究所から逃げたことを知っている。


蒼い仔獅子と白い子猫が同じ場所で見つかれば、僕たちだと気づかれるかもしれない。


それに、ソフィーの家族はドレッドに治療を依頼していた。


家へ戻れば、ドレッドが様子を探りに来る可能性がある。


その点、フェアリーテールとソフィーを結びつける情報はない。


姿も今は、どこにでもいる白い子猫にしか見えない。


ショットちゃんはドレッドの情報まで掴める人だし、ジャンヌもソフィーを大切にしてくれている。


僕と離れているのは心配だった。


今すぐ連れて帰りたい。


けれど、僕の家へ2匹で集まるより、今は別々の場所へ身を隠した方が安全だ。


「学校には、見つかったけれど体調不良のため休学すると伝えておくわ」


お母さんが僕の頭へ手を置く。


「ソフィーちゃんのご両親にも、無事は確認できたけれど、事情があってすぐには会えないとだけ伝えておく。居場所は誰にも知らせないわ」


僕は俯いた。


青い前脚が視界へ入る。


柔らかな毛。


肉球。


出し入れできる爪。


人間の手は、どこにもない。


家には帰れた。


お母さんにもキュナにも、僕だと分かってもらえた。


それなのに、状況は良くなっていない。


僕もソフィーも元へ戻れない。


それどころか、少しずつ心まで動物へ近づいている。


ソフィーは家族の話をされても反応できなくなっていた。


僕も生肉やチューニュの匂いを嗅いだだけで、何も考えられなくなった。


いつか自分がアレックスだったことさえ忘れてしまうのだろうか。


胸の奥が冷たくなる。


「きっと、今悪いことし放題のドレッドって組織の仕業です!」


キュナが両手を握りしめて立ち上がった。


「スターハーツがいなくなってから、街は荒れ放題ですし!」


普段は明るい金色の瞳に、はっきりと怒りが浮かんでいる。


「坊ちゃまをこんな姿にして、ソフィー様まで苦しめるなんて許せません!」


ドレッドを止められる存在がいない。


アレクサンダーもスノーホワイトも、もう戦えない。


イアハートだったアメリアも、ドレッドのレッドフードになってしまった。


僕たちがいなくなったことで、怪人や犯罪者を止める者が減っている。


それでも、今の僕には何もできない。


牙も爪もある。


人間だった時より速く走れる。


けれど、ドレッドと戦える力ではなかった。


「私も科学に詳しい知人を当たってみるわ」


お母さんが僕の前へ膝をつく。


青い前脚を両手で包み込んだ。


肉球越しに、人の手の温かさが伝わってくる。


「……アレックス」


銀色の瞳と、お母さんの瞳が重なる。


「お母さんが、必ず元に戻してあげるからね」


「くぅ……」


その言葉を聞いた瞬間、張りつめていたものが少しだけ解けた。


前脚を握る手は柔らかく、温かい。


大丈夫。


もう1人で何とかしなくていい。


そんな気持ちが、触れ合った場所から伝わってきた。


「キュナも、ネコちゃん用の家具やご飯を買ってきますね!」


キュナが勢いよく手を上げる。


「坊ちゃまがどんな姿でも、快適に暮らせるお部屋を作ります!」


僕はライオンなんだけど。


そう突っ込みたくても、口から出るのは鳴き声だけだ。


「がう……」


「キュナ、私にも手伝わせて」


それまで黙っていたエラが、ソファから身を乗り出した。


いつもの14歳の姿をしている。


淡い金色の瞳が、まっすぐ僕を見ていた。


「アレックスが過ごしやすい家具、一緒に選びたい」


キュナが笑顔で頷く。


「もちろんです! エラ様とキュナで、最高のネコちゃん部屋を作りましょう!」


「だからライオンよ、キュナ」


お母さんの言葉に、エラがわずかに笑った。


僕はこれまで、自分が誰かを助けることばかり考えていた。


けれど今は、食事も、お風呂も、身を隠すことさえ1人ではできない。


支えてもらわなければ生きていけない。


獣の姿になって、僕はようやくその温かさを知った。

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