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第62話 雨の中の翠

◇


研究所を出た時は、どこまでも走れると思っていた。


4本の脚で地面を蹴るたび、身体が前へ飛ぶ。


人間だった頃より速い。


夜の風が青い毛を撫で、景色が後ろへ流れていく。


けれど、僕たちは所詮、まだ小さな仔獅子と仔猫だった。


しばらく走ると、脚が重くなった。


息を吸っても胸が苦しい。


口を開けて呼吸を繰り返しているうちに、前脚がもつれた。


「くぅ……」


建物の壁際へ倒れ込む。


隣を走っていたソフィーも、少し遅れて僕のそばへ辿り着いた。


「にゃぁ……」


白い身体が僕の脇へ崩れる。


2匹とも舌を出し、激しく肩を上下させていた。


獣の身体は速い。


その代わり、体力までは増えていないらしい。


しばらく物陰で休み、呼吸が落ち着いたらまた進む。


路地を1本抜ける。


室外機の陰で休む。


次の通りまで走る。


積まれた木箱の裏で休む。


そんな移動を何度も繰り返した。


どこへ向かっているのかも分からない。


自宅へ戻りたくても、研究所がイスカティアのどこにあるのかさえ知らなかった。


マナリンクもない。


人へ道を尋ねることもできない。


もし家へ帰れたとしても、キュナは僕だと分かってくれるだろうか。


今の僕は、青い毛をした仔獅子だ。


玄関の前で鳴いたところで、迷い込んだ動物として追い払われるかもしれない。


「ぐるる……」


考えれば考えるほど、不安で喉が鳴る。


隣から白い尾が伸び、僕の前脚へ巻きついた。


ソフィーが淡い青色の瞳で僕を見上げている。


「くるる……」


大丈夫。


一緒にいるよ。


その仕草から、そんな気持ちが伝わってきた。


僕も鼻先をソフィーの額へ触れさせる。


1人じゃない。


それだけが、今の僕を動かしていた。


大通りへ近づくと、建物の陰から低い唸り声が聞こえた。


大きな野良犬が、ごみ箱の前に立っていた。


汚れた茶色の毛。


片方の耳が欠けている。


こちらを見つけた犬が歯を剥き出しにした。


「ウゥゥ……ワン! ワンワン!」


大きな鳴き声に、身体が勝手に跳ねた。


僕の鬣が膨らみ、尾が脚の間へ入り込む。


「ぐるる……!」


負けないように唸ってみる。


でも、声が震えていた。


獅子といっても、今の僕は仔獅子だ。


相手は僕より少し大きく、街で生きることにも慣れている。


野良犬が一歩近づく。


ソフィーが僕の後ろへ隠れた。


「ふしゃあ!」


白い毛を逆立てて威嚇しているけれど、身体は小刻みに震えている。


犬が吠えながら走り出した。


僕たちは同時に逃げた。


「がうっ!」


「にゃぁ!」


細い路地へ飛び込み、積まれた木箱の隙間を抜ける。


背後で牙が鳴った。


僕はソフィーを先に通し、身体を無理矢理隙間へ押し込んだ。


野良犬の鼻先が背中へ触れそうになる。


夢中で前脚を動かし、反対側へ転がり出た。


犬は狭い隙間へ身体が入らず、向こう側で吠え続けている。


僕とソフィーは休むこともできず、その場から走り去った。


人通りのある場所へ出ると、犬は追ってこなくなった。


代わりに、通行人たちの視線が僕たちへ集まる。


「見て、青い猫!」


「猫にしては大きくないか?」


「珍しい魔導生物かしら」


誰も僕たちをアレックスとソフィーだとは思わない。


人の流れを避けようとしていると、小さな女の子がこちらへ駆け寄ってきた。


「かわいい!」


女の子はしゃがみ込み、僕へ手を伸ばす。


反射的に後ろへ下がろうとしたけれど、脚に力が入らなかった。


柔らかな手が、頭の上の獅子耳へ触れる。


耳の間から鬣まで、何度も撫でられた。


「くぅ……」


知らない人に触られるのは怖い。


爪を出して逃げたいのに、撫でられると身体の力が抜けてしまう。


喉の奥が勝手に鳴りそうになる。


人間の時には頭を撫でられて喜ぶことなんてなかったのに。


「お母さん、この子飼っていい?」


「駄目よ。ほら、汚いから触らないで」


母親が女の子の手を掴み、僕から引き離す。


「でも、かわいいよ?」


「病気を持ってるかもしれないでしょう。早く行くわよ」


女の子は何度も僕たちを振り返りながら、母親に連れられていった。


汚い。


その言葉が胸に残った。


僕は自分の前脚を見る。


青い毛は埃と泥で汚れている。


ソフィーの白い毛にも、黒い汚れがいくつもついていた。


人間だった時なら、家に帰ってお風呂へ入ればよかった。


キュナに服を洗ってもらうこともできた。


今は、身体の洗い方すら分からない。


ソフィーは前脚を舐め、顔を擦り始めた。


猫の身体に引っ張られて、自然に毛繕いをしている。


途中で我に返ったのか、前脚を上げたまま動きを止めた。


「にゃぁ……」


恥ずかしそうに耳を伏せる。


僕は何も見なかったふりをして、先へ歩き出した。


やがて、冷たいものが鼻先へ落ちた。


水滴だった。


ひとつ。


またひとつ。


黒い雲から雨が降り出す。


最初は小雨だった。


けれど、すぐに雨脚が強まり、路面を激しく叩き始めた。


建物の軒下へ逃げ込もうとしても、店員に追い払われる。


車の下は怖くて入れない。


僕たちは雨の中を走り続けた。


青い毛が水を吸い、身体へ張りつく。


柔らかかった鬣も潰れ、首元へ重く垂れ下がった。


ソフィーの白い身体は、濡れたことでさらに小さく見えた。


長い尾が細くなり、地面を引きずっている。


「くぅ……」


「にゃぁ……」


室外機と壁の狭い隙間へ潜り込む。


屋根代わりになるものはなく、吹き込んだ雨が身体へ当たり続けた。


寒い。


全身が震える。


僕はソフィーの身体へ寄り添った。


ソフィーも僕の胸元へ潜り込み、濡れた白い毛を押しつけてくる。


互いの体温だけが、冷え切った身体に残る唯一の温かさだった。


雨は止まない。


時間が経つほど身体から力が抜けていく。


お腹も空いていた。


研究所で最後に食べさせられてから、どれくらい経ったのか分からない。


目を開けていることさえ苦しくなる。


ソフィーの呼吸も弱い。


「くぅ……」


大丈夫?


問いかけても、すぐには返事がなかった。


しばらくして、小さな頭が僕の胸へ擦りつけられる。


「くるる……」


大丈夫。


そう伝えようとしてくれている。


でも、声にはほとんど力がなかった。


僕はソフィーを守るように身体を丸めた。


意識が遠くなる。


雨の音。


室外機の振動。


水溜まりを踏む足音。


誰かが近づいてくる。


人間だ。


助けを呼ばなくちゃ。


そう思っても、身体は動かなかった。


目を開けることさえできない。


足音が僕たちの前を通り過ぎていく。


その時、胸元からソフィーの温もりが離れた。


「……にゃぁ」


弱々しい声。


ソフィーが立ち上がった。


細い脚を震わせながら、物陰の外へ出ていく。


◇


「最悪……雨降るとか聞いてないんですけど」


くすんだ緑色のジャージを着た女性が、頭へフードを被りながら歩いていた。


肩まで伸びた翠色の髪は湿気でさらに跳ね、長い前髪の隙間から覗く緑の瞳には、寝不足の隈が浮かんでいる。


ジェードは買い物袋を片手に、早足でフェアリーテールへ戻ろうとしていた。


その足元へ、小さな白い影が近づく。


「にゃぁ……」


「ん?」


ジェードが足を止める。


ずぶ濡れになった白い子猫が、路上に立っていた。


白い毛は泥で汚れ、淡い灰色の縞模様が濡れた身体へ張りついている。


「……猫?」


ジェードが一歩近づくと、白い子猫は怯えたように後ろへ下がった。


「いや、あーしも別に近づきたいわけじゃないし……」


再び歩き出そうとする。


すると白い子猫が駆け寄り、ジャージの裾を小さな牙で咥えた。


「ちょ、何?」


裾を引かれる。


「離して。ジャージ伸びるから」


ジェードが手を伸ばすと、子猫は素早く離れた。


「……動物、苦手なんですけど」


白い子猫は一定の距離を取り、ジェードを見つめる。


淡い青色の瞳が、必死に何かを訴えていた。


「悪いけど、ほか当たって」


ジェードが背を向ける。


数歩進んだところで、また裾を引かれた。


振り返る。


白い子猫が逃げる。


歩き出す。


戻ってきて、また裾を引く。


それが何度も繰り返された。


「……もしかして、ついて来いって言ってる?」


「にゃぁ!」


白い子猫が大きく鳴いた。


そのまま数歩先へ走り、ジェードを振り返る。


「マジかよ……」


ジェードは面倒そうに頭を掻いた。


それでも、白い子猫の後を追う。


子猫は何度も足をもつれさせ、そのたびに立ち止まりながら進んだ。


辿り着いたのは、建物の裏に置かれた室外機の陰だった。


白い子猫が狭い隙間へ入っていく。


ジェードが身を屈め、中を覗き込んだ。


「うわ……」


濡れた青い毛の塊が横たわっている。


最初は大きな猫に見えた。


けれど、丸い耳と、首元に生えた濃い青の鬣。


細い尾の先にある毛の房。


「蒼い猫? いや、これライオンじゃね?」


青い仔獅子は目を閉じたまま、ほとんど動かない。


「動物園から逃げて来た系?」


白い子猫が仔獅子へ駆け寄り、その頬を舐めた。


「にゃぁ、にゃぁ……」


仔獅子の耳が、かすかに動く。


「くぅ……」


弱い声が漏れた。


ジェードはしばらく2匹を見つめていた。


「……だから、あーし動物駄目なんだって」


そう呟きながら買い物袋を地面へ置く。


仔獅子へ手を伸ばす。


途中で白い子猫が「ふしゃ」と威嚇し、ジェードの手が止まった。


「助けてほしいのか、触ってほしくないのか、どっちだよ」


白い子猫はジェードと仔獅子を交互に見る。


やがて警戒を解くように伏せ、仔獅子へ身体を寄せた。


「噛むなよ。絶対噛むなよ?」


ジェードは恐る恐る仔獅子の身体へ両腕を回した。


濡れた毛の下から、弱い体温が伝わってくる。


思っていたよりも軽い。


「冷たっ……こりゃ放っといたらヤバいか」


青い仔獅子を胸へ抱き上げる。


白い子猫も、残された力を振り絞ってジェードの脚を登ろうとした。


「分かった。お前も連れてくから爪立てんな」


ジェードは仔獅子を片腕で支え、白い子猫も抱き上げた。


2匹は腕の中で身を寄せ合う。


「一晩だけだからな」


誰に言い聞かせているのか分からない声で呟く。


「明日になったら、治安維持局か動物保護センターに連絡する。ライオンとか、一般人が飼っていいわけないし」


「くるる……」


白い子猫が安心したように喉を鳴らした。


◇


温かい風が、濡れた毛を乾かしていく。


ジェードの部屋には、山のようなゲームと、綺麗に並べられたフィギュアがある。


その床へ、段ボール箱が2つ並べられていた。


中には古いタオルが何枚も敷かれ、即席の寝床になっている。


僕は柔らかな布の上で目を開けた。


知らない場所ではない。


以前、ガンプリンセスのフィギュアを届けに来た部屋。


ジャンヌの部屋だ。


助かった。


そう伝えたいのに、口から出るのは弱い鳴き声だけだった。


「くぅ……」


「起きたか、蒼いの」


ジャンヌが離れた場所から僕を見ている。


近づこうとはしない。


「水はそこ。食い物はショットちゃんに頼んでる。変なの食わせて死なれても困るから」


隣の箱では、ソフィーが身体を丸めていた。


僕が目を覚ましたことに気づくと、箱から這い出してくる。


そして僕の箱へ入り、顎の下へ潜り込んだ。


「くるる……」


ありがとう、ソフィー。


僕が動けなかったから、助けを呼んでくれた。


鼻先で白い額に触れる。


「くぅ……」


ソフィーは僕の胸へ顔を埋めた。


久しぶりに感じる安全な場所と温かさに、すぐ眠気が戻ってくる。


「だから箱、2つ用意したんだけど……」


ジャンヌの声を聞きながら、僕たちは眠りへ落ちていった。


◇


翌朝。


ジェードは眠そうな顔で床の段ボール箱を覗き込んだ。


片方は空っぽだった。


もう片方の箱では、白い子猫が青い仔獅子の顎の下へ潜り込んでいる。


仔獅子は白い子猫を前脚で囲み、2匹ともぐっすり眠っていた。


「……狭くないんか、それ」


返事はない。


青い尾と白い尾が、箱の中で重なっている。


ジェードはその場へしゃがみ込み、しばらく2匹の寝顔を眺めていた。


やがてマナリンクを開く。


「一晩だけ……一晩だけだから」


検索欄へ文字を入力する。


『大きめ ペットベッド』


いくつもの商品が表示された。


ジェードは仔獅子と子猫が並んで眠れる大きさの商品を選び、購入画面を開く。


注文数は、1個だった。

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