第61話 言葉にならない叫び
◇
2週間後。
目を開けると、冷たい金属の天井が見えた。
白い魔導灯が眩しくて、反射的に目を細める。
身体を起こそうとして、前脚が床の上を滑った。
カリッ。
小さな爪が金属板を引っ掻く。
視線を下へ向けても、そこに人間の手はなかった。
柔らかな青い毛に覆われた、太く短い前脚。
指は肉球の中へ隠れ、力を込めると青黒い爪が先端から伸びる。
何度見ても、自分の身体だとは思えなかった。
立ち上がっても、視線は以前の膝より低い。
身体全体は大型犬より少し小さい程度で、まだ成長しきっていない獅子の姿をしていた。
胸元から首の周囲には、ほかの場所より濃い青色の毛が生えている。
鬣と呼ぶには短く、触れればふわふわと柔らかい。
背中の毛は深い蒼色で、腹側へ近づくにつれて淡い色へ変わっていた。
丸みのある獅子耳が頭の上で動き、研究所の機械音を拾う。
僕が横を向こうと考えるより早く、耳だけが音の方向へ向いてしまう。
腰から伸びた細い尾の先には、濃い青の毛が房のように生えていた。
少しでも不安になると、勝手に脚の間へ巻き込まれる。
銀色の瞳と青い毛。
鏡に映せば、これが僕だと分かる特徴は残っている。
でも、それだけだった。
服は跡形もない。
消えたわけではなく、獣へ変わった時に全身の毛へ吸収されているらしい。
もし人間へ戻れたなら、体毛から元の服が出てくる。
研究員はそう説明していた。
人間へ戻れれば。
その言葉だけが、もう2週間も頭から離れない。
ドレッドに捕まってから、僕たちは毎日検査を受けていた。
身体測定。
反射試験。
魔力への反応。
プロテウスの動作確認。
そして採血。
前脚には、今日も包帯が巻かれている。
白い布の端から、乾ききっていない青い血が滲んでいた。
それを目にした途端、背中から尾の先まで全身の毛が逆立つ。
「ぐるる……」
喉の奥から低い声が漏れた。
人間だった時なら、血を見たくらいでこんな反応はしなかった。
怖くても我慢できた。
今は駄目だ。
自分の血の匂いを嗅いだだけで、身体が危険だと叫び始める。
爪が出る。
耳が伏せられる。
牙を剥き出しにして、近づくものを噛みたくなる。
頭の中では僕のままなのに、身体は少しずつ獣になっている。
いつか心まで飲み込まれてしまうのではないか。
その恐怖が、採血の痛みよりもずっと怖かった。
隣へ目を向ける。
ソフィーが薄い毛布の上で丸くなっていた。
白銀だった長い髪は、雪のように白い体毛へ変わっている。
今のソフィーは、僕よりもずっと小さな白い子猫だった。
丸めた身体なら、両腕で簡単に抱えられそうだ。
白い背中と脚には、白虎だった頃の名残のような淡い灰色の縞模様が入っている。
細い前脚の先には、柔らかな薄桃色の肉球。
眠っている今は隠れているけれど、驚いた時には細く鋭い爪が飛び出す。
頭には白い三角形の猫耳が一対。
チャームポイントだったエルフ耳は体毛の中へ消えている。
猫耳は研究所の小さな音を拾うたび、別々の方向へぴくぴく動いていた。
閉じられた瞼の下には、ソフィーだと分かる淡い青色の瞳がある。
頬から伸びた白い髭。
小さな鼻。
白い毛に覆われた長い尾。
人間だった時の面影はほとんど残っていない。
僕が近づくと、ソフィーの猫耳がこちらへ向いた。
淡い青色の瞳がゆっくりと開く。
「くぅ……」
僕は鼻先をソフィーの額へ近づけた。
ソフィー、大丈夫?
言葉にはならない。
それでも耳の動きや喉の音、匂いで、以前より多くのことが分かるようになっていた。
ソフィーは僕の鼻へ自分の鼻を軽く触れさせる。
「くるる……にゃぁ……」
私、時々エルフだったことを忘れそうになるの。
そう伝わってきた。
ソフィーは自分の前脚を見つめる。
肉球を広げ、引っ込め、また広げる。
まるで最初からこの身体だったように、その動きは自然だった。
僕は前脚でソフィーの肩に触れた。
「ぐるる。がう……」
意識をしっかり保って。
心まで動物になっちゃ駄目だ。
ソフィーは小さく頷き、僕の胸元へ顔を埋めた。
「くるる……」
白い身体から伝わる体温に、少しだけ安心する。
せっかく獣の姿から元へ戻れたのに。
プロテウスを使って、普通に学校へ行ける身体を取り戻したのに。
今のソフィーは、また僕の隣で獣の姿になって丸くなっている。
僕も同じだ。
ゲームもできない。
自転車にも乗れない。
キュナにただいまと言うこともできない。
アメリアに裏切られたあの夜から、何もかも変わってしまった。
冷たい金色の瞳。
僕たちを敵だと言った声。
赤い爪が装甲へ食い込んだ感触。
意識を失う直前に見た、赤いフードと白い翼。
思い出すだけで胸が痛み、尾が腹へ巻きつく。
その時、頭の上の獅子耳が動いた。
遠くから足音が聞こえる。
研究員の革靴が鳴らす硬い音ではない。
床を蹴る音は、ほとんどしなかった。
爪と柔らかな肉球で歩く、同じ獣のしなやかな足取り。
匂いも知っている。
僕は立ち上がり、檻の入り口を睨んだ。
ソフィーも背中を丸め、白い毛を逆立てる。
「ふしゃ……!」
暗い廊下から、赤いフードを被った少女が姿を現した。
アメリア。
レッドフードになった彼女は、2週間前と同じ赤狼の姿をしていた。
短い赤髪の上には、大きな赤狼の耳が生えている。
金色の瞳は暗闇の中でも鋭く光り、僕とソフィーの姿をまっすぐ捉えていた。
赤い外套の隙間から、ふさふさとした太い尾が伸びている。
肘から先と膝から下は赤い毛に覆われ、手足の先には黒い爪があった。
人間の顔や身体を残しながら、獣の力を取り込んだ姿。
完全な獣にされた僕たちと違い、アメリアは自分の意思で人間にも狼にもなれる。
「ぐるる……」
「にゃぁ……」
僕たちの声を聞いても、アメリアは表情を変えなかった。
檻の前まで歩いてくると、腰へ手を当てる。
「アンタたちを捕らえたおかげで、オデットは幹部になったわ」
赤い尾が、誇らしげに持ち上がる。
「私は正式にドレッドの一員になった。これでもう、誰にもオデットとの仲を邪魔されない」
胸を張って語っている。
それなのに、その金色の瞳は少しも嬉しそうではなかった。
僕たちを見る目の奥に、消えかけた寂しさが残っている。
「OF型は、通常のD因子より何十倍も強力よ。アンタたちのプロテウスですら、理性を保たせるだけで限界みたいね」
アメリアの視線が、僕からソフィーへ動く。
「私は完全適合したから、なんともない。人間にも戻れるし、力も自由に使える」
一度、言葉を切る。
「でも、アンタたちは一生動物のまま」
分かっていたはずなのに、本人の口から告げられると息が苦しくなった。
「くぅ……」
弱々しい声が漏れる。
隣でソフィーの尾が力なく床へ落ちた。
アメリアは僕たちから目を逸らす。
腰に下げていた鍵を取り出し、檻の錠前へ差し込んだ。
カチャ。
聞き慣れた施錠音とは逆に、扉がわずかに開く。
僕もソフィーも動けなかった。
「……このまま実験動物としてドレッドに飼われるか、野良猫として生きるか、好きになさい」
「にゃぁ……?」
ソフィーが首を傾げる。
「出口は左よ。ついて来なさい」
アメリアはそう言って背を向けた。
赤い尾が、僕たちを促すようにふわりと翻る。
罠かもしれない。
研究員を呼ぶつもりかもしれない。
それでも、檻の中に残ることはできなかった。
僕はソフィーへ顔を向ける。
「がう」
逃げよう、ソフィー。
ソフィーは一度だけ檻の奥を振り返り、僕の隣へ並んだ。
「にゃぁ」
2人で檻の外へ踏み出す。
慣れない4本の脚で走り始めた。
最初は前脚と後ろ脚がぶつかりそうになり、身体が左右へふらつく。
けれど、速度が上がるにつれて身体が動き方を思い出していく。
前脚が床を掴み、後ろ脚が地面を強く蹴る。
背骨がしなり、尾が自然に均衡を取る。
人間だった時よりも速い。
アレクサンダーの機械の身体とは違う。
風の流れも、床から伝わる振動も、自分の脚で直接感じ取れる。
白い子猫のソフィーも、僕のすぐ隣を走っていた。
小さな身体を低くして、軽やかに床を蹴っていく。
前を走るアメリアは、僕たちよりも静かだった。
複雑な研究所の通路を迷うことなく進み、見張りのいない道だけを選んでいる。
やがて、錆びた搬入口へ辿り着いた。
扉の隙間から月明かりが差し込んでいる。
冷たい夜風が、外の匂いを運んできた。
土。
草。
煙。
遠くの街から流れてくる油とマナの匂い。
2週間ぶりに嗅ぐ、研究所の外の空気だった。
出口の前で、アメリアが立ち止まる。
僕たちへ背中を向けたまま、静かに告げた。
「お別れね、アレックス。ソフィー」
行かないで。
一緒に来て。
僕はアメリアの足元へ駆け寄った。
「がう! くぅ! がう!」
ソフィーも隣で必死に鳴く。
「にゃぁ! くるる、にゃぁ!」
僕たちの声は、獣の鳴き声にしかならない。
アメリアは振り返り、困ったように眉を寄せた。
「何よ……。行きなさいって言ってるでしょう?」
それでも僕は鳴き続けた。
前脚でアメリアの足を叩き、外へ引っ張ろうとする。
ソフィーも赤い外套の裾を小さな牙で咥えた。
「……一緒に行こうって言ってるの?」
僕とソフィーは同時に動きを止めた。
伝わった。
「がう!」
「にゃぁ!」
アメリアの金色の瞳が揺れる。
けれど、すぐに僕たちから顔を背けた。
「……私は裏切り者の狼」
赤い尾が、力なく垂れ下がる。
「でも、オデットだけは私を愛してくれるから、それでいいの」
そんなのは違う。
僕たちだってアメリアを大切に思っている。
オデットに言われたことだけが、アメリアのすべてじゃない。
僕はアメリアの足へ前脚を引っかけた。
爪を立てないように気をつけながら、何度も引き留める。
「ぐるる! がう! ぐるる!」
「辞めなさい!」
アメリアが足を振りほどく。
次の瞬間、彼女の身体が大きく震えた。
背中が曲がり、両腕が地面へつく。
赤い外套と服が輪郭を失い、広がっていく赤い体毛の中へ飲み込まれていった。
獣の手足が更に縮みながら形を変える。
指先は大きな肉球と黒い爪を持つ前脚へ。
脚は強靭な後ろ脚へ変化する。
顔が前へ伸び、白い牙の並んだ口吻が作られた。
短い赤髪も衣服もすべて毛並みと一体化し、そこには1匹の赤狼が立っていた。
僕やソフィーより一回り大きい。
燃えるように鮮やかな赤い毛並み。
胸元の毛だけは淡い色をしている。
大きな赤狼の耳。
太く長い尾。
そして、アメリアの面影を残す金色の瞳。
「ガルルル……!」
赤狼となったアメリアが牙を剥く。
背中の毛を逆立て、僕たちを威圧するように低く身構えた。
これなら伝わるでしょう。
その唸り声と仕草から、アメリアの意思がはっきりと伝わってくる。
さっさと、どこかへ行きなさい。
「ガウッ!」
アメリアが鋭く吠えた。
月明かりの差す出口を、前脚で強く示す。
怒っている。
追い払おうとしている。
それでも金色の瞳の奥から、寂しさは消えていなかった。
「くぅ……」
「くるる……」
僕とソフィーは、ゆっくりと出口へ向かった。
外へ踏み出す。
冷たい土の感触が、肉球から伝わってきた。
数歩進んでは、アメリアを振り返る。
赤狼は出口に立ったまま、こちらを見つめていた。
ソフィーも何度も足を止めた。
「にゃぁ……」
返事はない。
アメリアは僕たちが離れるまで、そこから動かなかった。
僕とソフィーは何度もアメリアへ振り返りながら、研究所から立ち去っていった。




