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第59話 愛の形と変わる身体

◇


広すぎる家は、静かだった。


使用人たちも既に下がり、両親は今日も帰ってこない。


廊下を照らす魔導灯の光だけが、閉ざされた私の部屋へ扉の隙間から細く差し込んでいた。


私は制服のままベッドへ倒れ込み、枕へ顔を押しつけていた。


「……最低」


口にした途端、また涙があふれた。


アレックスは何も悪くない。


ソフィーだって何も悪くない。


勝手に嫉妬して、2人へ酷いことを言ったのは私だ。


アレックスは、私の力も必要だと言ってくれた。


それなのに私は、その言葉を信じることもできず、スターハーツを抜けると叫んで逃げてきた。


「何やってるのよ……私……」


今頃、2人は私に呆れているかもしれない。


謝りたい。


けれど、どんな顔で会えばいいのか分からなかった。


マナリンクを開いては、何も入力できないまま閉じる。


それを何度も繰り返しているうちに、枕へ落ちた涙の跡が広がっていった。


ふわり。


閉めていたはずのカーテンが揺れる。


夜風と共に、白い羽根が1枚、部屋の中へ舞い込んだ。


私は顔を上げた。


ベランダに人影が立っている。


月明かりの下で、白銀の長い髪が淡い金色を帯びていた。


純白のロングドレス。


背中には、幾重もの羽根が重なった大きな白鳥の翼。


「オデット……!」


私はベッドから飛び起き、身構えた。


目元に残った涙を袖で乱暴に拭う。


「ここへ何をしに来たの?」


「そんなに怯えないで、アメリア」


オデットは争う意思がないことを示すように、両手をゆっくりと広げた。


「私は、貴女を傷つけに来たのではないわ」


「信じられると思う?」


「思わないでしょうね」


オデットは寂しそうに微笑む。


「私は貴女を裏切った。ソフィーをドレッドへ渡そうとして、貴女たちを傷つけた」


「分かってるなら帰って!」


声を張り上げても、オデットは動かなかった。


白い翼を静かに畳み、ベランダから部屋へ足を踏み入れる。


「でも、泣いている貴女を放ってはおけなかった」


「泣いてなんか……」


否定しようとした声が震えた。


オデットは私の前で立ち止まる。


昔のシオよりも背が高い。


顔も身体も、何もかもが変わっている。


それでも、私を見つめる瞳には、幼い頃から知っているシオの面影が残っていた。


「アレックスと喧嘩をしたのでしょう?」


「どうして、それを……」


「ずっと貴女を見ていたから」


細い指先が、私の濡れた頬へ近づく。


私は振り払おうとした。


けれど、手に力が入らなかった。


オデットの指が、涙の跡をそっと拭う。


「私なら、アメリアを幸せにできる」


「……勝手なこと言わないで」


「勝手ではないわ。私は昔から、貴女だけを見ていたもの」


甘く穏やかな声が、静かな部屋へ染み込んでくる。


「覚えている? 幼い頃、私の服装を笑った子たちを、貴女が追い払ってくれたこと」


覚えている。


シオを囲んでいた子たちの前へ飛び出し、もうからかうなと怒鳴った。


「貴女は言ってくれた。シオはシオのままでいいって」


「……言ったわ」


「一緒に学校へ行って、帰り道に手を繋いだ。私が泣くたびに、貴女はそばにいてくれた」


忘れていた記憶が、次々によみがえる。


まだ互いの背丈も変わらなかった頃。


どちらが男で、どちらが女か分からないと笑い合っていた頃。


アレックスと出会うより、ずっと前からシオは私の隣にいた。


「私は生まれ変わった。でも、貴女を想う気持ちは何も変わっていない」


オデットの声は優しかった。


今の私が聞きたかった言葉だけを、選んでいるようだった。


「アレックスは、貴女を泣かせた」


「違う……悪いのは私よ」


「それでも、彼は今ここにいない」


その言葉が胸へ突き刺さる。


「ソフィーもいない。貴女を抱きしめに来たのは、私だけ」


「やめて……」


聞いてはいけない。


この言葉を信じてはいけない。


そう思うのに、身体は動かなかった。


オデットの白い翼が、私の周囲へゆっくりと広がる。


夜の冷気が遮られ、柔らかな羽根の内側に私だけが包み込まれた。


「強がらなくていいのよ、アメリア」


肩へ腕を回される。


「寂しかったのでしょう?」


「私は……」


「誰かに、自分だけを見てほしかったのでしょう?」


堪えていたものが崩れた。


「……寂しかった」


声にした途端、涙が止まらなくなった。


「パパもママも帰ってこない……アレックスはソフィーと一緒にいて……私だけ……」


「ええ」


オデットは否定しなかった。


ただ、泣き続ける私を胸元へ抱き寄せた。


純白のドレスへ顔を埋める。


昔とは違う姿なのに、その腕の中だけは、シオと一緒にいた頃のように思えた。


「シオ……」


「ここにいるわ」


「私、どうすればよかったの……?」


「もう何も考えなくていい」


髪を撫でる手つきは、どこまでも優しかった。


「私が貴女を受け止める。誰にも渡さない。もう2度と、独りにはしないわ」


その言葉に縋るように、私はオデットのドレスを掴んだ。


警戒しなければならない相手だった。


許してはいけない裏切り者だった。


それでも今だけは、この温かさを失いたくなかった。


「一緒に幸せになろう」


オデットが私の顎へ指を添え、顔を上げさせる。


白銀の髪が視界を覆った。


次の瞬間、オデットの唇が私の唇へ重なった。


驚いて目を見開く。


離れようとした時、口の中へ甘い液体が流れ込んできた。


「んっ……!」


ゴクッ。


反射的に飲み込んでしまう。


途端に、身体が大きく跳ね上がった。


「あ……熱い……!」


胸の奥から灼けるような熱が広がる。


心臓が激しく脈打ち、指先まで痺れた。


息を吸っても苦しい。


喉の奥から声にならない声が漏れ、立っていられなくなった私をオデットが抱き留める。


「大丈夫。すぐに楽になるわ」


「何を……飲ませ……」


問いかけようとしても、言葉が続かない。


熱が全身を巡るたび、身体の内側で何かが組み替わっていく。


皮膚の下を異物が這うような感覚。


骨格が軋み、筋肉が勝手に脈打つ。


けれど、それ以上に恐ろしい変化が、頭の中で起きていた。


アレックスへ謝らなければ。


ソフィーにも謝らなければ。


スターハーツへ戻りたい。


そう思っていたはずなのに、その気持ちが白く塗り潰されていく。


代わりに、オデットの声が頭の中へ入り込んできた。


私は貴女を愛している。


私は貴女を裏切らない。


私だけが貴女を幸せにできる。


「違う……」


抗おうとした言葉さえ、次第に意味を失っていく。


オデットの姿を見ているだけで、胸の奥が満たされた。


白い翼に包まれていると、何も怖くない。


アレックスも、ソフィーも、スターハーツも、遠いものに感じられる。


頭の中で絡まっていた苦しみが、ひとつずつ甘い幸福へ書き換えられていく。


オデットと同じになれた。


もう独りじゃない。


「……しあわせ」


涙が頬を伝った。


けれど、それが悲しみから流れたものなのか、喜びから流れたものなのか、もう分からなかった。


オデットは満足そうに微笑み、私を強く抱きしめる。


私もその背中へ腕を回した。


白い翼に包まれながら、私たちはいつまでも抱きしめ合っていた。

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