第44話 涙と決意
◇
オデットの姿が夜空の向こうへ消えても、アメリアはその場から動かなかった。
紅い装甲を纏ったまま、握りしめた拳を見つめている。
「どうしてよ……」
小さな声が、壊れた店内に落ちた。
「……あたしたち、一緒にいたじゃない……!」
アメリアの肩が震える。
普段なら、どんな相手にも食ってかかる。
危険な場所でも先に飛び込み、僕の手を引いて無理やり前へ進ませる。
そんなアメリアが、目の前で泣いていた。
紅い装甲の隙間からこぼれた涙が、頬を伝って落ちていく。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、どう声をかければいいのか分からなかった。
アメリアを泣かせたのは、オデットだけじゃない。
ドレッドだ。
ソフィーを苦しめたのも。
シオを変えてしまったのも。
そして今、アメリアの大切な記憶まで壊そうとしている。
僕は、そっと彼女の肩へ手を置いた。
蒼銀の装甲越しでも、震えが伝わってくる。
「アメリア……」
名前を呼ぶと、彼女が顔を上げた。
涙で濡れた金色の瞳が、こちらを向く。
いつもなら、僕が何か言う前に怒鳴ってくる。
弱音を吐く暇も与えず、立ち上がれと引っ張ってくる。
でも今は、何も言わずに僕を見ていた。
今度は僕が、彼女を支えなければならない。
そう思った。
「……大丈夫だよ」
自分でも、頼りない言葉だと思う。
アメリアは、すぐに元気になったりはしなかった。
涙を拭おうとして、手を上げる。
けれど、装甲の指先ではうまく拭えない。
僕は親指で、彼女の目元に残った涙をそっと拭った。
「アレックス……」
その声が、いつもよりずっと小さい。
僕の胸の奥で、何かが決まった。
今までの僕は、アメリアに引っ張られて戦っていた。
危険な事件が起きれば、アメリアが先に走り出す。
僕は怖がりながら、その後を追いかける。
それでも、ソフィーを守りたいと思って戦ってきた。
けれど、もう隠れているだけでは駄目だ。
ロングロングドッグを襲われた。
ソフィーの居場所が知られた。
シオまで、ドレッドの側に立ってしまった。
このまま逃げ続ければ、また誰かが傷つく。
大切な人を、もうこれ以上泣かせたくない。
僕はアメリアの肩を支えたまま、夜空を見上げた。
オデットが消えた方角には、白い羽根がまだ数枚舞っている。
「僕はドレッドと戦う」
自分の声が、思っていたよりもはっきり響いた。
アメリアが驚いたように目を見開く。
「アレックス……」
「ソフィーを助けたい」
喉が震えそうになる。
それでも、言葉を止めなかった。
「シオのことも、まだ諦めたくない。あの姿を見て、あんなことを言われても……僕は、あれがシオの全部だとは思えない」
オデットは、ドレッドへ忠誠を誓った。
自分は生まれ変わったと言った。
けれど、オレンジソーダを飲んだ時の笑顔まで、すべて偽物だったとは思えなかった。
「それに、大切な人を2人も泣かせたドレッドを許さない」
アメリアが息を呑む。
「僕は、ソフィーを助けたい。アメリアが泣くようなことも、もう見たくない」
しばらく、返事はなかった。
アメリアは俯き、震える手で涙を拭う。
何度も拭って、それでも残った涙を手の甲で乱暴にぬぐった。
やがて、顔を上げる。
目は赤くなっていた。
それでも、いつもの強い光が戻り始めていた。
「……一人で行かせるわけないでしょ」
「アメリア……」
「アンタだけで勝手に決めて、勝手に行くつもりだったの?」
「そういうわけじゃ……」
「なら、あたしも行く」
アメリアは壊れた店内を見回した。
割れた窓。
倒れたテーブル。
床に散らばった食器の破片。
その向こうには、ソフィーが眠る治療室がある。
「ソフィーを助ける。シオを取り戻す。ドレッドを止める」
アメリアは、1つずつ確かめるように言った。
「今度は、あたし自身の意思で隣に立つわ」
その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。
最初は、変身の秘密をばらすと脅されて始まった関係だった。
事件に巻き込まれ、成り行きのまま戦い続けた。
けれど、もう違う。
僕たちは、同じ目的のためにここにいる。
アメリアが紅いパイプを握り直す。
僕も蒼い魔導回路へ力を流した。
「戦おう、イアハート」
「ええ、アレクサンダー」
治療室の扉の向こうから、ソフィーの低い呼吸が聞こえる。
ソフィーを助けるために。
そして、シオを取り戻すために。
◇
ドレッドと戦うと決めた翌朝、ソフィーの容態は明らかに悪化していた。
治療室の隅に置かれた食事へ、顔を近づけようともしない。
昨日までは、柔らかな肉なら少しずつ食べてくれた。
オレンジソーダも、ストローを口元へ運べば時間をかけて飲んでくれた。
今は、水の匂いにも反応しなかった。
「ソフィー、少しだけでも飲もう」
返事の代わりに、浅い呼吸が聞こえる。
大きな身体は毛布の上に横たわったまま、ほとんど動かない。
白と黒の毛並みは変わらず美しかったが、その下にある力が失われているのが分かった。
前足を動かそうとしても、肉球がわずかに震えるだけだった。
僕はその前足を両手で包む。
いつもなら、ソフィーは僕の手を握り返してくれる。
ほんの少し前まで、僕の指へ肉球を押しつけてくれていた。
けれど、今日は何の反応もなかった。
「……ソフィー?」
淡い青色の瞳が、ゆっくりと開く。
僕を見ている。
意識はある。
それなのに、前足には力が入らない。
「握って。いつもみたいに」
声をかけても、肉球は動かなかった。
手の中にある前足が、ひどく軽く感じられる。
いや、実際には大きな獣の身体だ。
それなのに、今にも消えてしまいそうだった。
「ジムおじさん!」
僕が呼ぶと、すぐにおじさんが治療室へ入ってきた。
手には診察用の魔導器具を持っている。
ソフィーの胸元へ器具を当て、脈と魔力の流れを調べる。
淡い光が毛並みの下を走り、魔導器の表示が次々と変わっていく。
ジムおじさんの表情が険しくなった。
「脈が弱い。魔力の循環も乱れている」
「治せる?」
「今すぐ何かできる状態なら、そう言っている」
その答えに、胸が締めつけられた。
おじさんは器具を動かしながら、慎重に言葉を選ぶ。
「体内のD因子が暴れている。ソフィーの身体が、D因子を抑えきれなくなっているんだ」
「暴れてるって……どういうこと?」
「D因子は、病気を治す代わりに身体を変える。だが、ソフィーの場合は完全には適合していない。定期的に追加のD因子を投与して、体内の状態を維持していたんだろう」
「それが足りなくなったら?」
ジムおじさんは、ソフィーの顔を見た。
「身体の中で、D因子同士が衝突する。今の状態は、その影響が強く出ている。追加のD因子を何とかしなければ、命が危ない」
息が止まった。
「追加のD因子って、ドレッドからしか手に入らないの?」
「少なくとも、俺は作れん。成分も製造方法も分からない。仮に材料があっても、今のソフィーへ投与して安全かどうか判断できない」
「じゃあ、どうすればいいのさ」
返事がない。
治療室には、ソフィーの浅い呼吸だけが響いている。
僕は、彼女の前足を握ったまま動けなかった。
「必ず元に戻すから」
廃工場で、そう言った。
ソフィーが獣の姿になり、僕へ爪を振り下ろそうとした時。
僕の声を聞いて、彼女は止まってくれた。
「必ず元に戻すから」
あの時は、本当にできると思っていた。
ドレッドを倒して、治療方法を見つけて、ソフィーを元の姿へ戻す。
そうすれば、また一緒にオレンジソーダを飲める。
学校で話せる。
笑顔でバスケットボールをしているソフィーを、もう一度見られる。
そのために戦うと決めた。
けれど、ドレッドと戦う方法を考えている間にも、ソフィーの身体は弱っていく。
敵の研究所へたどり着ける保証はない。
戦って勝てる保証もない。
勝ったとしても、そこに追加のD因子があるとは限らない。
僕はアレクサンダーになれる。
硬い装甲を纏い、銃弾を跳ね返し、魔導器を作り出すこともできる。
それでも、目の前で弱っていくソフィーの身体を治す力はなかった。
強くなったはずなのに。
何度も誰かを助けてきたはずなのに。
今、一番助けたい相手へ、何もできない。
「……僕、何もできない」
言葉にすると、胸の奥がひどく痛んだ。
アメリアが治療室の入口に立っていた。
「アレックス……」
「僕が元に戻すって言ったのに」
ソフィーの前足を握る手へ、力がこもる。
「ソフィーは僕を信じてくれた。あんな姿になっても、僕の声を聞いてくれたんだ。それなのに、僕は約束を守れない」
「まだ守れないって決まったわけじゃないわ」
「でも、今の僕には何もできない!」
声が大きくなり、ソフィーの耳がわずかに動いた。
しまったと思った。
すぐに声を落とし、彼女の前足へ頬を近づける。
「ごめん、ソフィー。怖がらせるつもりじゃなかった」
返事はない。
前足も、握り返してくれない。
僕の手の中で、ただ静かに温度を失っていく。
アメリアが僕の隣へ来て、肩へ手を置いた。
「無力だからって、約束を捨てるの?」
「……」
「今すぐ治せないなら、治せる方法を探す。あたしたちは、それしかできないでしょ」
正しい言葉だった。
でも、正しいからこそ苦しかった。
探している間にも、ソフィーの時間は減っていく。
「せめて症状の進行を止められれば…」
ジムおじさんの声は、無念に溢れていた。




