第41話 訪れてしまった思春期
◇
アメリアたちと別れた後も、僕『シオ』は眠らなかった。
ソフィーを元に戻す方法。
D因子を止める薬。
ドレッドがどこで治療を行っているのか。
端末に検索結果を並べ、消された記事を拾い、古い医療記録を何度も読み返す。
けれど、肝心な部分へたどり着くたびに画面は閉じられていた。
治療内容は非公開。
被験者の情報は機密。
副作用については記録なし。
どの記事を開いても、同じような言葉ばかりが並んでいる。
気づけば窓の外が白み始めていた。
目の奥が重い。
何度も瞬きをしても、文字がぼやけていく。
このままでは調べものにならない。
僕は端末を机に置き、浴室へ向かった。
眠気を覚ますため、熱いシャワーを浴びる。
頭から流れ落ちる湯が、夜通し張りつめていた身体を少しずつ緩めていく。
目を閉じると、ソフィーの姿が浮かんだ。
白と黒の毛並み。
苦しそうに歪んだ顔。
ラクーンを傷つけた時の、泣いているような瞳。
どうすれば元に戻せるのか。
そんなことを考えながら、ふと鏡へ視線を向けた。
濡れた髪が頬に張りついている。
肩幅は狭く、身体つきも細い。
昔から女の子に間違われることは多かった。
女物の服を着ていても、変だと言われることは少なかった。
でも、いくら細くて華奢でも、僕は男だ。
やがて声は低くなり、身体つきも角ばっていく。
体毛も少しずつ濃くなる。
今はまだ、女の子の服を着ても似合っているかもしれない。
けれど、いずれは似合わなくなる。
その時、僕は何を着ればいいのだろう。
どんな顔をして、アメリアの隣に立てばいいのだろう。
小さい頃から、何度も同じことで悩んだ。
どうして僕は女の子に生まれなかったんだろう。
どうして男の身体なんだろう。
可愛い服を着たい。
長い髪にしたい。
鏡を見た時、自分のことを嫌いにならずに済む姿になりたい。
そんなことを考えるたび、アメリアに話を聞いてもらった。
「シオはシオのままがいいわ」
昔のアメリアは、迷いなくそう言ってくれた。
「男とか女とか関係ないでしょ。シオはシオよ」
その言葉に何度も救われた。
僕のことを否定しないでくれるアメリアが好きだった。
今でも、アメリアの隣にいると安心する。
でも最近は、少し違う。
一緒にいると身体が熱くなる。
声を聞くだけで胸が苦しくなる。
近くにいると、触れたいと思ってしまう。
こんな気持ちを知られたら、今までの関係が壊れてしまうかもしれない。
それでも、アメリアと同じ女の子になりたかった。
同じ服を着て、同じ目線で話して、何も気にせず隣を歩きたかった。
変わりたくない。
男の身体になっていく自分を、受け入れたくない。
シャワーを止め、タオルで身体を拭く。
鏡の中の自分から目を逸らすように、浴室を出た。
部屋へ戻ると、机の上の端末はまだ点いたままだった。
検索画面には、ドレッドに関するページが開きっぱなしになっている。
黒い背景の中央に、白い文字が表示されていた。
『身体の悩み、全て解決します』
その下には、相談窓口へ進むためのリンクがある。
指先が止まった。
ソフィーの病気を治したドレッド。
人間を怪物に変えたドレッド。
そんな場所が、身体の悩みを解決すると謳っている。
信じていいはずがない。
危険だと分かっている。
それでも、その言葉から目を離せなかった。
僕の身体も、変えられるのだろうか。
もし本当に、望んだ姿になれるのなら。
「……僕も、女の子になれるのかな」
誰もいない部屋で呟く。
返事の代わりに、画面のリンクが静かに明滅していた。
◇
手続きは、あまりにも簡単だった。
ドレッドのページに表示されたリンクを押すと、すぐに相談窓口へつながった。
いくつかの質問に答え、名前と連絡先を入力する。
身体の悩み。
望む変化。
現在の健康状態。
その程度だった。
危険な治療を受けるというのに、確認されたのはそれだけだった。
しばらくすると、端末へ場所と受付番号が送られてきた。
指定された場所は、下層の外れにある古い研究施設だった。
工場や倉庫が並ぶ一角に、周囲から切り離されたような白い建物が立っている。
外壁には大きな看板もない。
入口の上に、黒い金属板で小さくドレッドの紋章が刻まれているだけだった。
呼び鈴を押すと、音もなく扉が開いた。
中へ入った瞬間、外の空気が遮断される。
消毒液の匂い。
冷たい魔導灯の光。
白い壁に埋め込まれた青い術式。
廊下の奥では、機械が規則正しく動く音がしていた。
研究所というより、病院に近い。
けれど、受付に人はいなかった。
壁面の端末へ受付番号を入力すると、すぐに案内が表示された。
『3階、相談室へお進みください』
係員が迎えに来ることもない。
僕は言われるがまま、長い廊下を歩いた。
何枚もの扉を通り過ぎる。
そのすべてに、番号と用途だけが表示されていた。
診察室。
適合検査室。
処置室。
中の様子は見えない。
ただ、扉の隙間から白い光が漏れている。
3階へ上がると、白衣を着た職員が待っていた。
「シオ様ですね。こちらへどうぞ」
名前を確認されただけで、すぐに部屋へ通された。
小さな相談室には、椅子と机、それから壁一面のモニターがあった。
向かいに座った職員は、機械のように淡々と説明を始める。
「施術には一定のリスクがあります。体内へD因子を投与し、身体の構造を再構成します」
「再構成……」
「望む変化を得られる可能性があります。ただし、個人差があります。変身能力が発現する場合もありますし、精神状態によっては制御が困難になることもあります」
画面に、いくつかの注意事項が表示される。
身体機能の変化。
感情による暴走。
拒絶反応。
最悪の場合、生命活動の停止。
聞いていた通りだった。
治療にはリスクがある。
身体は変わる。
変身する可能性がある。
下手をすれば、死ぬ。
職員は説明を終えると、すぐに書類を差し出した。
「ご理解いただけましたら、こちらへ署名をお願いします」
差し出された端末に、同意書が表示されている。
読み進めても、何かを考える時間は与えられなかった。
「少し考えてもいいですか」
「もちろんです。ただし、今回の施術枠には限りがあります」
やわらかな言い方だった。
けれど、逃せば次はないのだと理解できた。
指先が冷たくなる。
怖い。
ここまで来て、急に現実味が増してきた。
本当に身体が変わる。
本当に、今の自分ではなくなる。
もし失敗したら。
もし、二度と戻れなかったら。
僕は椅子から立ち上がった。
「……やめます」
その言葉を口にした瞬間、相談室の扉が開いた。
奥から、白衣を着た男が入ってくる。
博士らしき人物だった。
白髪の混じった髪。
細い眼鏡。
整えられた服装と、相手の心を見透かすような目。
「理想の自分になりたくないのかね?」
足が止まった。
「……」
返事ができない。
博士は僕の反応を見ながら、ゆっくりと続けた。
「君は長い間、自分の身体に苦しめられてきたのだろう?」
鏡の中の自分が脳裏に浮かんだ。
男の身体。
低くなり始めた声。
角ばっていく肩。
似合わなくなっていく女の子の服。
「苦しみを抱いたまま暮らすのは、生きていると言えるのかな」
何も言い返せなかった。
正しい言葉に聞こえた。
痛みをなくすために、ここまで来た。
変わりたいと思ったから、リンクを押した。
それなのに、怖くなったから逃げようとしている。
博士は机の上の同意書へ視線を落とした。
「君は生まれ変わりに来たんだろう?」
その言葉が、胸の奥へ刺さる。
「……最後のチャンスだよ」
机の端末が、署名欄を表示している。
被験者名。
入力欄にカーソルが点滅していた。
僕は指を伸ばす。
名前を入力するだけなのに、ひどく難しかった。
『シオ』
たった2文字の名前が、別人のものに見える。
この名前を書くのは、今の自分を残すためなのか。
それとも、今の自分を捨てるためなのか。
指先が震えながら、画面へ触れる。
入力が完了すると、端末から短い電子音が鳴った。
同意書が受理される。
その日のうちに、僕は処置室へ運ばれた。
白い天井。
頭上を流れていく魔導灯。
腕へ固定具が取りつけられ、冷たい金属が皮膚へ触れる。
「力を抜いてください」
誰かの声が聞こえた。
腕に注射針が刺さる。
薬が身体へ流れ込んでくる。
視界の端が滲んだ。
怖い。
今なら、まだ戻れるかもしれない。
そう思った時には、もう手足に力が入らなかった。
「次に目を覚ましたら、君は別人だ」
博士の声が、遠くから聞こえる。
意識が沈んでいく。
まぶたが閉じる。
最後に浮かんだのは、アメリアの顔だった。
「シオはシオのままがいい」
その言葉を思い出しながら、僕は暗闇へ落ちていく。
……もう戻れない。




