第40話 獣との意思の疎通
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それから、シオも何度もロングロングドッグへ通うようになった。
最初の頃は、治療室の扉を開けるだけで足を止めていた。
白と黒の毛並みに覆われたソフィーの身体。
大きな爪と牙。
獣の姿になった彼女を前にすれば、驚くのも無理はない。
それでも、シオは逃げなかった。
僕がソフィーの前に座り、手を握っているのを確認すると、少しずつ部屋の中へ入ってくる。
「こんにちは、ソフィーさん。今日も来たよ」
ソフィーは低く唸りながら、僕の肩越しにシオを見つめていた。
「まだ怖がってるね」
「最初は仕方ないよ。僕だって、初めて見た時は驚いたし」
「アレックス君も?」
「うん。でも、ソフィーはソフィーだから」
そう言うと、ソフィーの耳がぴくりと動く。
僕の言葉がどこまで届いているのかは分からない。
けれど、彼女は僕のそばにいる時だけ、少しだけ力を抜いてくれた。
シオは、そんなソフィーの様子を見ながら、持ってきた包みを開いた。
中に入っていたのは、味付けをしていない柔らかな肉だった。
「ジムさんに、食べても大丈夫なものを聞いてきたんだ」
「ソフィー、食べてみる?」
僕が声をかけると、ソフィーは肉の匂いに反応した。
けれど、シオが差し出した手を見た途端、身体を固くする。
「無理に渡さなくていいよ」
シオは肉を床へ置き、すぐに手を引いた。
ソフィーはしばらく警戒していたが、やがて鼻先を近づける。
僕がそばで見守っていると、ソフィーは肉を咥え、少し離れた場所へ持っていった。
「受け取ってくれたね」
シオの顔に、小さな笑みが浮かぶ。
次の日は、肉を僕の隣へ置いた。
その次は、少し離れた場所から手に乗せて差し出した。
ソフィーはすぐには近づかなかったが、僕が「大丈夫」と声をかけると、ゆっくりとシオの前まで歩いてきた。
大きな前足が床を踏むたび、治療室の床板が低く鳴る。
シオの指先から、肉が消えた。
「やった」
思わず声を上げたシオに、ソフィーが驚いて耳を伏せる。
「ご、ごめん。嬉しくて」
ソフィーは少しだけ後ろへ下がったが、唸り声は上げなかった。
それだけでも、以前とは大きな違いだった。
「アンタ、ずいぶん慣れたじゃない」
治療室の入口から、アメリアが声をかける。
「アメリアの方が、まだ怖がってるんじゃない?」
「なによ。あたしは慎重なだけよ」
「じゃあ、今日は水を替える仕事をお願いしようかな」
「任せなさい」
アメリアは胸を張り、ソフィーの前へ水の器を運んだ。
ところが、勢いよく置いたせいで水が大きく揺れ、床へこぼれてしまう。
ソフィーがびくりと身を引いた。
「ちょっと、アメリア!」
「分かってるわよ! 今のは床が悪いの!」
「床のせいにしないでよ」
「ならアンタがやってみなさいよ!」
アメリアがシオへ器を押しつける。
シオは苦笑しながら、器を低い位置へ置き直した。
「ソフィーさんの目線より高い場所から近づけると、驚くみたい。横からゆっくり置いた方がいいよ」
「……そういうことは早く言いなさいよ」
「聞かれなかったから」
「生意気ね」
文句を言いながらも、アメリアはシオの真似をして器を置いた。
今度は水面が揺れなかった。
ソフィーは僕を見てから、器へ顔を近づける。
「ほら、飲んだわ」
アメリアの声が、少しだけ弾んだ。
「私がやる」と言って失敗しては、シオに助けられる。
そんなやり取りが、何度も繰り返された。
毛布を整える時も、食事を用意する時も、アメリアは張り切るほど手順を間違えた。
けれど、失敗しても投げ出さなかった。
シオもからかいながら、さりげなく手を貸した。
アメリアはソフィーの毛並みを整えながら、シオを見つめた。
シオは少し照れたように目を逸らした。
2人を見ていると、長い時間を一緒に過ごしてきたことが伝わってくる。
アメリアがシオにきつい言葉を投げても、シオは本気で怒らない。
シオがアメリアをからかっても、アメリアは隣から離れようとしない。
そんな関係が、少しずつ僕たちの中にも広がっていった。
ある日、ソフィーの体調が比較的安定していた。
暴れることもなく、食事も普段より多く口にできた。
「今日は約束を果たせるかもしれないね」
僕は冷蔵庫からオレンジソーダを取り出した。
「オレンジソーダ?」
シオが尋ねる。
「ソフィーと、また一緒に飲もうって約束したんだ」
アメリアがカップを並べ、シオが長いストローを用意する。
以前はうまく飲めなかったけれど、今ではソフィーも少しずつ飲み方を覚えていた。
大きな前足でカップを押さえることはできない。
だから、器を布で固定し、僕がストローの位置を調整する。
シオがカップを支え、アメリアがこぼれないように布を押さえた。
「ゆっくりでいいよ」
僕が声をかける。
ソフィーはストローを咥え、オレンジソーダを吸い上げた。
甘い香りが治療室へ広がる。
「飲めた!」
シオが嬉しそうに声を上げた。
「大声を出すと驚くわよ」
アメリアが注意しながらも、口元は笑っていた。
ソフィーは何度か喉を動かし、僕たちを順番に見つめる。
僕たちも、それぞれのカップを手に取った。
「乾杯って、できるかな」
「ソフィーさんはカップを持てないから、気持ちだけでいいんじゃない?」
シオが笑う。
「じゃあ、ソフィーが元に戻れるように」
僕がカップを掲げた。
「必ず戻すわ」
アメリアも続ける。
「手がかりを見つけるよ」
シオが言った。
ソフィーは返事の代わりに、静かに喉を鳴らした。
その音を聞きながら飲むオレンジソーダは、今までで一番甘く感じた。
けれど、楽しい時間は長く続かなかった。
カップを空にしたソフィーが、ゆっくりと身体を横たえる。
いつもなら、飲み終わった後も僕たちのそばにいる。
今日は呼吸が少し重く、耳も力なく伏せていた。
「ソフィー?」
呼びかけると、淡い青色の瞳がこちらを向く。
反応はある。
ただ、以前より疲れやすくなっているように見えた。
ジムおじさんが脈を確認し、毛並みの下へ手を当てる。
「今すぐ危険というわけじゃない。だが、体力が落ちているな」
「このままで大丈夫なのかな」
口にした言葉が、治療室の中へ重く落ちた。
ジムおじさんはすぐには答えなかった。
「大丈夫だと言い切ることはできん。だが、まだ手はある。D因子の記録も、治療施設の情報も、引き続き探している」
「僕も探す」
シオがファイルを抱え直した。
「公開されていない情報が多いけど、まだ調べられることはあるから」
「私も手伝うわ」
アメリアがソフィーの背中を撫でる。
「絶対に元に戻す。だから、今は休みなさい」
ソフィーは目を閉じた。
僕はそのそばで、肉球のついた前足を握る。
前よりも少し温度が低く感じられた。
気のせいだと思いたかった。
オレンジソーダの甘さがまだ口の中に残っている。
それなのに、胸の奥には小さな不安が広がっていた。
このままで、本当に大丈夫なのかな。
答えを知っている人は、まだどこにもいなかった。




