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第40話 獣との意思の疎通

◇


それから、シオも何度もロングロングドッグへ通うようになった。


最初の頃は、治療室の扉を開けるだけで足を止めていた。


白と黒の毛並みに覆われたソフィーの身体。


大きな爪と牙。


獣の姿になった彼女を前にすれば、驚くのも無理はない。


それでも、シオは逃げなかった。


僕がソフィーの前に座り、手を握っているのを確認すると、少しずつ部屋の中へ入ってくる。


「こんにちは、ソフィーさん。今日も来たよ」


ソフィーは低く唸りながら、僕の肩越しにシオを見つめていた。


「まだ怖がってるね」


「最初は仕方ないよ。僕だって、初めて見た時は驚いたし」


「アレックス君も?」


「うん。でも、ソフィーはソフィーだから」


そう言うと、ソフィーの耳がぴくりと動く。


僕の言葉がどこまで届いているのかは分からない。


けれど、彼女は僕のそばにいる時だけ、少しだけ力を抜いてくれた。


シオは、そんなソフィーの様子を見ながら、持ってきた包みを開いた。


中に入っていたのは、味付けをしていない柔らかな肉だった。


「ジムさんに、食べても大丈夫なものを聞いてきたんだ」


「ソフィー、食べてみる?」


僕が声をかけると、ソフィーは肉の匂いに反応した。


けれど、シオが差し出した手を見た途端、身体を固くする。


「無理に渡さなくていいよ」


シオは肉を床へ置き、すぐに手を引いた。


ソフィーはしばらく警戒していたが、やがて鼻先を近づける。


僕がそばで見守っていると、ソフィーは肉を咥え、少し離れた場所へ持っていった。


「受け取ってくれたね」


シオの顔に、小さな笑みが浮かぶ。


次の日は、肉を僕の隣へ置いた。


その次は、少し離れた場所から手に乗せて差し出した。


ソフィーはすぐには近づかなかったが、僕が「大丈夫」と声をかけると、ゆっくりとシオの前まで歩いてきた。


大きな前足が床を踏むたび、治療室の床板が低く鳴る。


シオの指先から、肉が消えた。


「やった」


思わず声を上げたシオに、ソフィーが驚いて耳を伏せる。


「ご、ごめん。嬉しくて」


ソフィーは少しだけ後ろへ下がったが、唸り声は上げなかった。


それだけでも、以前とは大きな違いだった。


「アンタ、ずいぶん慣れたじゃない」


治療室の入口から、アメリアが声をかける。


「アメリアの方が、まだ怖がってるんじゃない?」


「なによ。あたしは慎重なだけよ」


「じゃあ、今日は水を替える仕事をお願いしようかな」


「任せなさい」


アメリアは胸を張り、ソフィーの前へ水の器を運んだ。


ところが、勢いよく置いたせいで水が大きく揺れ、床へこぼれてしまう。


ソフィーがびくりと身を引いた。


「ちょっと、アメリア!」


「分かってるわよ! 今のは床が悪いの!」


「床のせいにしないでよ」


「ならアンタがやってみなさいよ!」


アメリアがシオへ器を押しつける。


シオは苦笑しながら、器を低い位置へ置き直した。


「ソフィーさんの目線より高い場所から近づけると、驚くみたい。横からゆっくり置いた方がいいよ」


「……そういうことは早く言いなさいよ」


「聞かれなかったから」


「生意気ね」


文句を言いながらも、アメリアはシオの真似をして器を置いた。


今度は水面が揺れなかった。


ソフィーは僕を見てから、器へ顔を近づける。


「ほら、飲んだわ」


アメリアの声が、少しだけ弾んだ。


「私がやる」と言って失敗しては、シオに助けられる。


そんなやり取りが、何度も繰り返された。


毛布を整える時も、食事を用意する時も、アメリアは張り切るほど手順を間違えた。


けれど、失敗しても投げ出さなかった。


シオもからかいながら、さりげなく手を貸した。


アメリアはソフィーの毛並みを整えながら、シオを見つめた。


シオは少し照れたように目を逸らした。


2人を見ていると、長い時間を一緒に過ごしてきたことが伝わってくる。


アメリアがシオにきつい言葉を投げても、シオは本気で怒らない。


シオがアメリアをからかっても、アメリアは隣から離れようとしない。


そんな関係が、少しずつ僕たちの中にも広がっていった。


ある日、ソフィーの体調が比較的安定していた。


暴れることもなく、食事も普段より多く口にできた。


「今日は約束を果たせるかもしれないね」


僕は冷蔵庫からオレンジソーダを取り出した。


「オレンジソーダ?」


シオが尋ねる。


「ソフィーと、また一緒に飲もうって約束したんだ」


アメリアがカップを並べ、シオが長いストローを用意する。


以前はうまく飲めなかったけれど、今ではソフィーも少しずつ飲み方を覚えていた。


大きな前足でカップを押さえることはできない。


だから、器を布で固定し、僕がストローの位置を調整する。


シオがカップを支え、アメリアがこぼれないように布を押さえた。


「ゆっくりでいいよ」


僕が声をかける。


ソフィーはストローを咥え、オレンジソーダを吸い上げた。


甘い香りが治療室へ広がる。


「飲めた!」


シオが嬉しそうに声を上げた。


「大声を出すと驚くわよ」


アメリアが注意しながらも、口元は笑っていた。


ソフィーは何度か喉を動かし、僕たちを順番に見つめる。


僕たちも、それぞれのカップを手に取った。


「乾杯って、できるかな」


「ソフィーさんはカップを持てないから、気持ちだけでいいんじゃない?」


シオが笑う。


「じゃあ、ソフィーが元に戻れるように」


僕がカップを掲げた。


「必ず戻すわ」


アメリアも続ける。


「手がかりを見つけるよ」


シオが言った。


ソフィーは返事の代わりに、静かに喉を鳴らした。


その音を聞きながら飲むオレンジソーダは、今までで一番甘く感じた。


けれど、楽しい時間は長く続かなかった。


カップを空にしたソフィーが、ゆっくりと身体を横たえる。


いつもなら、飲み終わった後も僕たちのそばにいる。


今日は呼吸が少し重く、耳も力なく伏せていた。


「ソフィー?」


呼びかけると、淡い青色の瞳がこちらを向く。


反応はある。


ただ、以前より疲れやすくなっているように見えた。


ジムおじさんが脈を確認し、毛並みの下へ手を当てる。


「今すぐ危険というわけじゃない。だが、体力が落ちているな」


「このままで大丈夫なのかな」


口にした言葉が、治療室の中へ重く落ちた。


ジムおじさんはすぐには答えなかった。


「大丈夫だと言い切ることはできん。だが、まだ手はある。D因子の記録も、治療施設の情報も、引き続き探している」


「僕も探す」


シオがファイルを抱え直した。


「公開されていない情報が多いけど、まだ調べられることはあるから」


「私も手伝うわ」


アメリアがソフィーの背中を撫でる。


「絶対に元に戻す。だから、今は休みなさい」


ソフィーは目を閉じた。


僕はそのそばで、肉球のついた前足を握る。


前よりも少し温度が低く感じられた。


気のせいだと思いたかった。


オレンジソーダの甘さがまだ口の中に残っている。


それなのに、胸の奥には小さな不安が広がっていた。


このままで、本当に大丈夫なのかな。


答えを知っている人は、まだどこにもいなかった。

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