第36話 イスカティア下層
下層へ続く坂道に入ると、街の景色は少しずつ姿を変えていった。
上層で走っていた道路は、継ぎ目ひとつない滑らかな舗装に整えられていた。
白い金属と硝子で覆われた高層建築が並び、街路樹や噴水まで配置されている。
空気に煤煙の臭いはなく、壁面の巨大広告も鮮明な映像を映し続けていた。
けれど、坂を下るほど、その整った景色は遠ざかっていく。
磨かれた道路はひび割れ、白い建物は錆びた鉄骨と煤けた煉瓦の建物へ変わっていった。
頭上には何本もの配管が絡み合い、継ぎ目から白い蒸気を噴き出している。
高架道路や魔導列車が複雑に交差し、車輪の響きと工場の警笛が重なっていた。
上層では流線型の飛空車や企業幹部用の小型艇が空を行き交っていた。
ここで見かけるのは、古い輸送艇や煙を吐きながら走る魔導車ばかりだ。
車体には継ぎ足した装甲板や、何度も塗り重ねた跡が残っている。
看板には魔導ネオンが灯っていた。
けれど、文字の一部が欠けていたり、映像が途中で乱れたりしている。
上層の広告が街を覆うように明るく輝いていたのに対して、下層の光は煤煙の中でぼんやり滲んでいた。
通りの両側には、小さな露店が並んでいる。
人工眼。
義手。
神経接続端子。
旧式魔導炉の部品。
軍用品らしい照準器。
上層から廃棄された物らしく、どれも傷や汚れが目立つ。
それでも店先の人たちは、部品を一つずつ手に取り、使えるかどうかを確かめていた。
油にまみれた技師が、壊れたオートマタの腕を作業台の上で分解している。
上層を歩く人々が仕立てのよい服を身につけていたのに対し、下層を行き交うのは作業着や古びた防寒具を着た労働者、技師、運転手たちだ。
誰もが煤や油の汚れを身につけながら、それぞれの仕事へ向かっている。
綺麗とは言えない。
危険な場所だとも聞いている。
それでも、道端で買い物をする人がいて、店の奥からは食事の匂いが漂っていた。
子供たちは壊れた機械の山の間を走り回っている。
ここで暮らす人たちにとっては、この煤けた街並みこそが日常なのだ。
遠くには工場の煙突がいくつも並び、その向こうに使われなくなった倉庫や廃工場の影が広がっていた。
ソフィーがいると聞いたのは、あの辺りだ。
蒸気とネオンに覆われた下層の街を、魔導二輪車の速度を上げて駆け抜ける。
待ってて、ソフィー。
◇
どこをどう走ったのか、覚えていなかった。
気がついた時には、見知らぬ路地の奥で壁に背中を預けていた。
震える手で、ポケットの中を探る。
指先に触れたのは、一本の注射器だった。あの人から渡されていた、D因子抑制剤。
「これを使えば……戻れる……」
震えながらキャップを外し、腕に針を当てる。痛みを感じる余裕もなく、薬液を押し込んだ。
冷たい感覚が血管を走り、身体の奥へ広がっていく。
白い毛が少しずつ引いていく。尖っていた爪が縮み、獣の形に変わっていた手足が、人間のものへ戻っていった。尾が消え、耳の形も戻り、頬の縞模様も薄れていく。
荒い息を吐きながら、私は人間の姿に戻った。
けれど、苦しさも、恐怖も、罪悪感も消えなかった。
肺が痛い。
胸の奥がぎゅっと縮んで、息を吸うたびに喉がひゅうひゅう鳴った。足も震えている。転んだ膝が痛かったけれど、それを気にする余裕はなかった。
それでも、苦しいのは身体だけじゃない。
目を閉じると、ラクーンの姿が浮かんでくる。
怯えた顔。
助けを求める声。
私に向かって伸ばされた手。
その手を、私は爪で切り裂いた。
「痛いよぅ」と泣いていた。
流れた青い血が、傷口から凍りついていく。
氷はラクーンの身体を包み、最後には動かない像に変えてしまった。
私は、あの子を殺した。
そう思った瞬間、胃の奥がひっくり返るような吐き気が込み上げてきた。
違う。
殺したくなんてなかった。
あの人に命令されたから。
薬を渡すと言われたから。
私が逆らったら、次は自分が死ぬと思ったから。
でも、理由を並べても、ラクーンの痛そうな声は消えてくれなかった。
私のせいだ。
私が傷つけた。
「違う……違うの……」
声に出しても、返事はない。
路地裏には、壊れた配管から漏れる蒸気の音だけが響いていた。
上層にいた頃は、こんな暗い場所を1人で歩いたことなんてなかった。
学校では友達がいて、先生がいて、アレクもいた。
ソフィーと呼んでくれた。
アレクと呼ばせてくれた。
あの時間だけは、病気のことも、注射のことも忘れられた。
なのに、もう戻れない。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
その痛みに呼応するように、身体の内側で何かが蠢いた。
お腹の奥から、冷たいものが背中へ駆け上がってくる。血の中に氷を入れられたみたいだった。なのに、皮膚の下は熱くて、身体の中で何かが押し広げられているように苦しい。
「やめて……せっかく元に戻れたのに!」
指先が震える。
爪の根元がじんじん痛み、指先が内側から押されるように膨らんだ。爪は少しずつ前へ伸び、透明だった先端が黒く濁っていく。硬く尖った爪が生えるたび、指の関節がぱきぱき鳴った。
「お願い……変わらないで……」
両手で胸を押さえる。
けれど、悲しみも後悔も止められなかった。
感情が溢れるたび、身体の中の何かが力を増していく。
腕の皮膚がぞわぞわと波打った。毛穴の一つ一つから、細く白い毛が押し出される。最初は産毛みたいだったのに、すぐに長くなり、柔らかな毛並みになって腕を覆っていった。
袖の中で腕が太くなっていく。
制服の布が引っ張られ、縫い目がきしんだ。
手首が前へ折れ、指が一本ずつ短くまとまっていく。人間の手の形が崩れ、黒い爪の並んだ白虎の前脚へ変わっていった。
「いや……いやぁ……!」
声を抑えようとしても、口から出るのは苦しげな呻きだけだった。
喉が震える。
息が荒くなる。
自分の声なのに、自分のものではないように聞こえた。
脚にも力が入らなくなった。
膝の奥が熱くなり、骨が押し合うように痛んだ。脚が長く伸びたかと思うと、今度は形を変えながら低く沈んでいく。白い毛に覆われた大きな足が現れる。
床に爪が触れた。
かつん、と硬い音がした。
その音を聞いただけで、私はもう人間ではなくなってしまう気がした。
腰の辺りが急に引っ張られた。
背中を反らすほどの痛みが走り、制服の後ろが内側から押し上げられる。布が裂けた隙間から、白い尾がゆっくりと伸びてきた。長く、太く、先へ行くほどしなやかな尾だった。
尾が地面を打つたび、冷たい音が路地に響いた。
「やだ……私の身体なのに……」
頬が熱くなった。
その熱が顔の中を走り、皮膚の下で何かが動いた。頬に暗い縞模様が浮かび、一本、また一本と濃くなっていく。耳の奥が痛くなり、頭の両側が裂けるように震えた。
耳が上へ引っ張られる。
髪の間から、白い毛に覆われた尖った耳が伸びた。
音が急に大きくなった。
蒸気の音も、遠くで落ちた水滴の音も、全部が耳のすぐそばで鳴っているみたいだった。
白銀の髪が肩から流れ落ち、視界の端で揺れた。髪の隙間から見える世界は、いつもより青白く、輪郭がはっきりしていた。
口の中にも違和感が広がった。
歯ぐきが痛み、前歯が尖っていく。舌がうまく動かせなくなり、言葉が途中でつかえた。
「違う……私は……怪物じゃ……」
言葉は最後まで続かなかった。
喉の奥から、低く掠れた唸り声が漏れる。
その声を聞いた瞬間、怖くなって口を両手で覆おうとした。
けれど、もう手は人間の手ではなかった。
白い毛に覆われた前脚が、目の前で震えている。
「いや……戻って……お願い……」
身体の中で、最後の何かが大きく動いた。
背中が盛り上がり、肩や胸の形が変わっていく。制服はあちこちで裂け、白い毛並みが全身を覆った。人間の服も、人間の手も、人間の声も、少しずつ遠ざかっていく。
もう、元には戻れない。
アレクに嫌われる。
ラクーンを傷つけた罪も消えない。
誰も私を助けてくれない。
身体が完全に獣へ変わり、白い尾が地面を叩いた。
私は前脚で自分の身体を抱えようとした。でも、うまく抱きしめられない。爪が怖くて、強く触れられなかった。
暗い路地の中で、私は小さく丸くなる。
「……誰か助けて……」
声が震える。
「私の苦しみを終わらせて……」




