第31話 身体の傷は消えても心の傷は消えない
ラクーンは、治安維持部隊に運ばれていった。
氷を割らないように慎重に持ち上げられ、運搬車へ収められる。その間も、こちらへ伸ばされた手は動かなかった。
生きているのか、死んでいるのか。
近くにいた隊員に聞いても、この場では分からないとしか言ってもらえなかった。
車の扉が閉まる。
もう中は見えないのに、走り去るまで目を離せなかった。
◇
ジムおじさんに連絡すると、まず変身を解いたかと聞かれた。
まだだと答えたら、そのまま店へ来るように言われた。
ロングロングドッグの裏へ回り、イアハートに支えてもらいながら中へ入る。
診察用の寝台に腰を下ろすだけでも、脇腹が痛んだ。
おじさんは裂けた装甲を確かめ、難しい顔をした。
「今は、まだ元に戻るなよ」
「……どうして?」
「恐らく、変身を解いたら出血する。元の身体でどれだけの傷になるか、こっちも準備してから確かめたい」
傷口を押さえていた手に、思わず力が入った。
それだけで痛みが増し、慌てて緩める。
この下の身体も、切れているんだ。
装甲の傷を見ていたときより、急に怖くなった。
「必要な物を用意してくる。楽な姿勢で、じっとしてろ」
おじさんが部屋を出ていく。
扉が閉まると、冷蔵庫の低い音が聞こえた。
イアハートは近くの椅子を引き、僕の前へ座った。彼女も、変身したままだった。
「……あの子のこと、聞いてもいい?」
膝の上で、自分の手を見つめる。
ソフィー。
名前を思い浮かべるだけで、凍った涙まで見えてしまう。
「学校の、同じクラスの子なんだ」
少しずつ話した。
外国から来たエルフの転入生で、ソフィーと呼んでほしいと言われたこと。
体育がすごく得意で、僕なんかよりずっと上手にボールを扱うこと。
昔は病気で寝たきりだったけど、手術を受けて元気になったと教えてくれたこと。
イアハートは、口を挟まずに聞いていた。
「今日も、一緒に遊びに行ったんだ。フェアリーテールに」
ほんの少し前のことなのに、ずいぶん遠く感じた。
「ショットちゃんを見て喜んで、オレンジソーダを飲んで……学校に来てくれた方が楽しいって、言ってくれた」
そこまで話すと、声が詰まった。
「途中で、苦しそうになったんだ」
「発作?」
「そう言ってた。すぐに落ち着いたけど、また注射しなきゃって。病気は治ったけど、定期的に打たないといけないんだって」
僕は、注射は嫌だよねと笑った。
そんな話だと思っていた。
「注射は怖くないって言ってた。そのときは、意味が分からなかったんだけど……」
イアハートの手が、膝の上で握られた。
「それで、ドレッドに従ってたのね」
「……多分」
ソフィーから聞いたわけじゃない。
けれど、ラクーンに向けられた爪も、奪うように受け取った注射器も見ていた。
あれを見てしまったら、違う理由なんて考えられなかった。
「僕、マッドハッターを殺そうとした」
口にすると、指先がまた震えた。
イアハートの目が、僕の手へ落ちる。
「捕まえようとか、止めようとかじゃなくて。本当に、斬ろうと思ったんだ」
歪な大剣の形を覚えている。
もっと鋭く。もっと大きく。
あの男に届くことしか考えていなかった。
「ヘッジホッグのときは、何が起きたのか分からなかった。でも、今回は……」
分かっていた。
当たれば、ただじゃ済まない。
それを分かっていて、何度も振り回した。
「痛くなって、やっと気づいたんだ。自分が何をしようとしてたのか」
震える手を、もう片方の手で押さえる。
「怖いんだ。あいつも怖いけど、自分も怖い。さっきまで、あんなに殺したいと思ってたのに」
イアハートはすぐに答えなかった。
冷蔵庫の音が、やけに大きく聞こえる。
やがて、彼女が口を開いた。
「あんなの見せられたら、私だって腹が立つわよ」
顔を上げる。
「薬が欲しかったら殺せって言って、あの子にやらせた後で拍手してたのよ。私だって、ぶん殴ってやりたかった」
声に、まだ怒りが残っていた。
公園では、僕ばかりが怒っているように思っていた。
でも、イアハートも同じものを見ていたんだ。
ラクーンが助けを求めていたのも。
ソフィーが泣いていたのも。
「でも、アンタが無茶したら、今度は私が困る」
その言葉に、胸が詰まった。
「大きな剣を振り回して、どんどん前に出ていくし。呼んでも止まらないし。こっちの声、聞こえてた?」
「……聞こえてた」
「じゃあ、返事ぐらいしなさいよ」
「ごめん」
「帽子が飛んできたときも、剣に引っ張られてたでしょ。あれ、見てて怖かったんだから」
イアハートの視線が、僕の脇腹へ向く。
裂けた装甲には、おじさんが確かめた跡が残っていた。
僕は自分が斬ろうとしたことばかり考えていた。
その間、アメリアは僕が斬られるところを見ていたんだ。
「……心配かけて、ごめん」
今度は、彼女を見て言った。
イアハートは少しだけ黙ってから、椅子に座り直した。
「怒ったときにどうすればいいかなんて、私も分かんないわよ」
膝の上で握っていた手が、ゆっくり開かれる。
「でも、隣にいるんだから。勝手に1人で飛び出さないで」
「……うん」
返事をしても、怖さは残っていた。
ソフィーのことも、ラクーンのことも、何も解決していない。
それでも、押さえつけていた手から少し力を抜けた。
イアハートが、僕の顔をのぞき込む。
「それと」
さっきより、少しだけいつもの声だった。
「次は私の武器を勝手に取らないでよね」




